第7話「聴くだけの人」
誰かが聴いている、というだけで変わるものがあります。
昼のあいだ、澪はもう、ギターを弾かなかった。
弾かない、と決めたわけではない。
昼の音は、どこへ行っても、だれかの耳にぶつかる。
その耳が、澪の音を、うるさいと呼ぶ。
だから、澪はしまった。
教室で、ノートの上に鉛筆を置いたまま、澪は指を動かす。
机の下、膝の上。
だれにも見えないところで、左手の指が、糸のない場所を押さえる。
硬い骨が、糸の代わりだった。
音は、鳴らない。
鳴らないまま、澪の頭の中でだけ、細くつながっていった。
消灯のあと、みんなの寝息がそろうのを、布団の中で、じっと聞いている。
最後の一人が眠ると、廊下の音が、はっきりと聞こえるようになる。
それが、澪の、合図だった。
一日ぜんぶが、夜のためにあった。
夜の公園には、男がいた。
いつからか、澪が公園に着くと、その男は、もう道の途中に立っていた。
街灯の光の、いちばんふちのところ。
澪には、その男が来るのが、いつも音でわかった。
こつ、こつ、と近づく足音が、街灯のふちで、ぴたりと止まる。
いつも同じ場所、いつも同じ距離で。
それから、レジ袋が、かさ、と一度だけ鳴って、あとは、動かない。
男は、なにも言わず、なにも求めなかった。
澪が糸を払えば、聞く。
澪が指を止めれば、それきりだ。
指が糸の上で迷って、動かない夜も、男は、せかさなかった。
ただ、白い息を吐きながら、澪が、また糸を払うのを、待っている。
待たれることに、澪は、慣れていなかった。
男がいると、澪の指は、いつもより、ゆっくり動けた。
前の音が消えるのを、最後まで、待っていられる。
部屋では、澪の音は、壁にぶつかって、すぐ戻ってきた。
ここでは、払った音は、街灯を越えて、暗い道の、そのずっと先まで、流れていく。
その音が、どこまで行くのかを、澪は、耳で追いかけた。
やがて、澪の音が、途切れる。
すると、男は、背を向けて、来た道を、帰っていく。
次の夜も、男はいた。
その次の夜も。
澪は、それを、あたりまえのことのように思いはじめていた。
ある夜のことだった。
その夜、澪の音は、いつもより、途切れなかった。
三つの音が、つながる。
四つめが、前の音の余韻に乗る。
五つめが、迷わずに、その隣へ帰っていった。
澪は、少しだけ、上手くなったのだと思った。
毎晩、弾いているから、指が道をおぼえたのだ、と。
それだけでは、なかった。
けれど、澪は、それに気づかない。
街灯のふちに、男が立っている。
だれかが、自分の音を、最後まで聞いている。
逃がさずに、こぼさずに、ぜんぶ、受け取っている。
その耳があるから、澪の音は、途中で、うずくまらなくなっていた。
澪は、それを知らない。
ふいに、いつかの夜の、あの声が、耳の奥でよみがえった。
――逃げ場がない音だな。
何を言われたのか、澪には、よくわからなかった。
ただ、その低い声の震えだけが、澪の耳の底に、小さな石のように、残っていた。
澪は、もう一つ、糸を払う。
その音も、途切れずに、夜の中を、のぼっていった。
その夜も、男は、澪の音が消えると、帰っていった。
澪も、腕にギターを抱えて、施設への道を戻る。
はだしの足のうらに、道の冷たさが、じかに伝わってくる。
白い息が、一歩ごとに、宙でほどけた。
勝手口の戸を、そっと押す。
さびた戸が、いつものように、低く鳴いた。
その音の向こうで、澪の耳が、なにかをおかしいと感じた。
いつもの夜と、ちがう。
澪は、それが何なのか、すぐにはわからなかった。
ただ、耳が、先に、気づいていた。
消えているはずの、廊下の明かり。
その、ジー、という細い音が、闇の奥で、かすかに鳴っている。
ふだんの夜は、しない音だった。
鳴らないはずの、床。
廊下の奥のほうで、板が、みしり、と一度だけ、たわんだ。
だれかの重みで。
起きているはずのない、時間だった。
澪は、戸のところで、動きを止める。
ギターを、胸のほうへ、引き寄せた。
廊下の、いちばん奥。
暗がりの中に、大人の気配があった。
足音が、こちらへ、二歩、近づいて――そして、止まる。
近づきも、遠ざかりも、しない。
その気配は、澪のいるほうを、じっと、窺っていた。
澪には、それが、何を意味するのか、わからなかった。
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