第6話「逃げ場がない音」
大人のほうにも、言えない事情というものがあります。
その男は、もう何年も、音楽を聴かないようにして、生きてきた。
藤沢蓮司、という。
四十を少し過ぎたころだ。
施設から二つ角を曲がった先の、古い木造の家に、ひとりで暮らしていた。
その夜も、コンビニからの帰りだった。
片手に、白いレジ袋を提げている。
中身は、あたためた弁当が一つと、缶の飲み物が一つ。
それだけだ。
コートの襟を立て、白い息を吐きながら、蓮司はいつもの道を歩いていた。
家には、だれも待っていない。
急ぐ理由もなかった。
町は、この時間になると、しんと静まる。
蓮司の家には、音がない。
テレビはつけない。
ラジオもつけない。
車を持っていたころは、エンジンをかけても、ずっと無音のままにしていた。
音楽の流れる店には、入らない。
どこかで誰かの鼻歌が聞こえてくれば、そっとその場を離れる。
そうやって音を避けて暮らすことに、蓮司はもう慣れていた。
なぜそうなったのかを、いちいち思い出すこともない。
ただ、そういう生活だった。
何もない部屋に帰り、明かりもつけずに弁当を食べ、また朝が来る。
それが、蓮司の一日だ。
夜の道は、静かだった。
遠くを走る車の音が、一つ。
それきり、あたりにはなにもない。
角を曲がろうとして、その足が、止まった。
どこかで、音が鳴っていた。
ギターの音だ。
すぐにわかった。
前にも、聞いたことがある。
初めて聞いたのは、何日か前の、やはりこんな夜だった。
この道を歩いていて、細い糸のような、たどたどしい三つの音が、暗がりのむこうから流れてきた。
上手くはない。
指がときどき濁って、途切れる。
それなのに、蓮司の足は止まった。
音のするほうへ、顔は向けなかった。
ただ、道の真ん中に立って、聞いていた。
やがて音が途切れると、また歩きだす。
そのときは、さっきより、少しだけ足が遅くなっていた。
あの夜から、その音は、蓮司の耳の奥に残っていた。
昼のあいだ、ふとした拍子によみがえる。
弁当を電子レンジにかけて待っているとき。
夜、天井を見て、眠れずにいるとき。
ふいに、あのたどたどしい三つの音が、耳の奥で鳴りだす。
蓮司は、長い時間をかけて、音を聞かない耳を、自分で作ってきたつもりだった。
その耳を、あの音は、たやすくすり抜けてくる。
聞きたい、とは思わなかった。
聞かないように生きてきたのだ。
それなのに、足はこの道を選ぶ。
まっすぐ帰れる道は、ほかにもあった。
それでも蓮司は、いつのまにか、この二つ角のほうへ歩いている。
音のするほうへ。
自分でも、うまく説明ができなかった。
その夜、音は、いつもより近くから聞こえた。
道の先に、小さな公園がある。
街灯が一つ、白い光を地面に落としていた。
その光の中に、小さな影が、ベンチに座っている。
子どもだった。
膝に、ギターを抱えている。
自分の背丈ほどもある、大きなギターを。
こんな寒い夜に、はだしの足を、ぶらんとベンチから下げていた。
蓮司は、街灯の光の、そのふちで足を止めた。
それ以上は、近づかない。
ベンチのほうへ、顔は向けなかった。
ただ、レジ袋を提げたまま、道の途中に立って、聞いていた。
子どもは、うつむいて、糸を一つずつ、鳴らしている。
三つ、四つと、音が細い線のようにつながっては、また途切れる。
道で聞いたのと、同じ音だった。
けれど、遠くの暗がりで聞くのと、こうしてじかに聞くのとでは、まるでちがう。
うまい音では、ない。
それでも、蓮司の足は、動かなかった。
ふいに、子どもの指が、止まった。
こちらを見たわけではない。
顔は、うつむいたままだ。
それでも、その子は、蓮司がそこにいることに、気づいたようだった。
鳴りかけていた音が、途中で、宙に残される。
蓮司は、なにも言わなかった。
うるさい、とも。
もう一回、とも。
ただ、白い息を吐いて、そこに立っていた。
しばらく、二人は、動かなかった。
やがて蓮司は、背を向けた。
来た道を、帰っていく。
あの子に、声はかけなかった。
その夜は、それで、終わった。
その夜から、蓮司は、夜ごとに、この道を選ぶようになった。
まっすぐ帰れる道は、ほかにもある。
それでも、足は、二つ角のほうへ向かう。
あの子は、たいてい、公園にいた。
同じベンチで、同じように、ギターを抱えている。
蓮司は、街灯のふちに立って、少し離れたまま、その音を聞く。
声はかけない。
近づきもしない。
何日か、そういう夜が続いた。
ある夜のことだった。
その夜、あの子の音は、いつもより、迷いがなかった。
三つの音が、途切れずに、細い線のようにつながって、夜の中へのぼっていく。
蓮司は、聞いているうちに、いつのまにか、街灯の光の中へ、一歩、踏みこんでいた。
子どもは、弾くことに、夢中になっている。
今夜は、蓮司の気配に、気づいていない。
うまい音では、なかった。
指は、あいかわらず濁る。
それでも、その音には、逃げ場がなかった。
隠れようとしない。
ごまかそうともしない。
下手な音は、下手なまま、まっすぐ夜の中へのぼっていく。
壁も、天井も、それを止めるものが、どこにもない。
うまく弾こうとも、聴かせようともしていない。
ただ、鳴らしたいから鳴らしている。
そういう音だった。
蓮司の耳は、久しぶりに、音を拒まなかった。
蓮司は、ふと口をひらいた。
「逃げ場がない音だな」
ひとりごとのような、小さな声だ。
だれに言うでもなく、ただ口からこぼれた。
言ってしまってから、蓮司は少し驚いた。
何年も、音楽について口をきいたことがない。
誰かにそんな言葉をかけるのも、ずいぶん久しぶりのことだった。
その声に、子どもの指が、止まった。
今度は、気配ではなく、声で。
顔を、わずかに、こちらへ向けかけて――それでも、目は合わせない。
ただ、ギターを胸のほうへ、少しだけ引き寄せた。
何かを取り上げられまいとする、そんな手つきだった。
蓮司は、それ以上なにも言わなかった。
名乗りもしない。
この子が何者なのか、名も、素性も、蓮司は知らない。
しばらく、二人は動かなかった。
やがて蓮司は、レジ袋を提げなおし、背を向けた。
来た道を、帰っていく。
一度だけ、ふり返った。
子どもは、まだベンチにいた。
ギターを抱えたまま、こちらを見ている。
その目には、おびえがあった。
それでも、逃げなかった。
抱えたギターを、放そうともしない。
蓮司は、また前を向いて、歩きだした。
家に帰った。
玄関の鍵を開け、暗い部屋に上がる。
明かりは、つけなかった。
コートも脱がずに、蓮司は部屋の奥へ歩いた。
押し入れの前に立ち、閉じた襖を、しばらく見ていた。
襖を、引く。
中は暗い。
積み上げた段ボールの、その奥に、細長い黒いものが立てかけてある。
前に一度、いちばん奥から、それを引き出したことがある。
埃を払い、留め金に指をかけて――結局、開けられずに、またしまった。
取り出して、開けかけて、また閉じて、もとのとおりに押しこんだ。
あの夜は、そうやって逃げた。
指が留め金の上で、震えていた。
それが寒さのせいなのかどうか、暗くて、自分でもわからなかった。
今夜は、蓮司は、それを引き出さなかった。
ただ、襖を開けたまま、暗がりの奥のケースを見ていた。
黒い革。
二つの、錆びた留め金。
埃の下に、眠っている。
カーテンの隙間から差しこむ街灯の光が、細く、ケースの上に落ちていた。
蓮司は、手を伸ばした。
箱をどけることも、引き出すこともしない。
ただ、指先を、閉じた蓋の上に、そっと置いた。
冷たかった。
長いあいだ、蓋に手を置いたままでいた。
開けは、しない。
まだ、開けられない。
けれど今夜は、目をそらさなかった。
逃げるように襖を閉めることも、しなかった。
あの子の、逃げ場のない音が、まだ耳の奥で鳴っている。
蓮司は、閉じたままのケースを、見つめていた。
逃げるためでは、なく。
次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。




