第5話「公園」
外に出るというのは、それだけで大きな一歩だと思います。
外は、だれも、うるさいとは言わなかった。
施設の塀に沿って、澪は歩く。
足のうらに、道の冷たさが、じかに伝わってくる。
はだしのままだった。
一歩ごとに、白い息が、口から出て、すぐ、宙でほどける。
街灯は、ずっと先に、一つきり。
その光の届かないところは、なにもかもが、青くて、暗い。
けれど、澪は、こわくなかった。
こわいのは、暗さではない。
暗さの中で、だれかの耳が、こちらを向くことだ。
ここには、その耳が、なかった。
道は、思っていたより、ずっと広い。
六畳の部屋の、机の裏や、柱のかげ。
澪の音が許されていたのは、いつも、そういう、せまくて、暗いところだった。
それが、いまは、頭の上に、なにもない。
塀も、天井も、戸も、ない。
抱えたギターの重みだけが、澪を、地面につなぎとめている。
どこへ行けばいいのか、あては、なかった。
ただ、足が、鳴らないほうへ、鳴らないほうへと、進んでいく。
施設の音から、遠いほうへ。
いくつめかの角を、曲がる。
風が、頬を、切っていった。
耳のふちが、痛いほど、冷たい。
凍えた空気は、澄んでいて、遠くの音まで、はっきりと届いた。
どこか遠くを走る車の音。
もっと遠くの、名前を知らない犬の声。
それが、みんな、すぐ隣で鳴っているみたいに、澪の耳に、落ちてくる。
それでも、澪は、足を止めなかった。
こんなふうに、自分の行きたいほうへ、自分の足で歩くのは、はじめてのことだ。
やがて、道の先が、ふいに、開けた。
小さな公園だった。
街灯が一つ、白い光を、地面に落としている。
すべり台の影が、長く伸びていた。
砂場の、四角い枠。
ぶらんこの、鎖の垂れた形。
どれも、じっと、動かない。
だれも、いなかった。
澪は、公園の中へ、入っていく。
ベンチが一つ、街灯の光のはしに、置いてある。
澪は、そこに、座った。
冷えた板が、太ももの裏を、つめたく押し返してくる。
ギターを、膝にのせる。
左手を、首の上にのせた。
指を、折る。
人差し指を、いちばん上の糸へ。
中指を、その下へ。
いつもの形だった。
ここには、いきおいよく開く戸が、ない。
眉を寄せて、こちらを見る子も、いない。
うるさい、と言う声も。
澪は、右手の親指を、糸に当てた。
けれど、すぐには、払わなかった。
こんなに、なにもない場所で、音を出したことは、いちどもない。
指が、糸の上で、ほんの少し、迷う。
それから、澪は、息を、ひとつ、吐いた。
白い息が、ギターの胴の上を、ゆっくりと、流れていった。
そして、払う。
音が、鳴った。
その音は、いつもと、ちがっていた。
六畳の部屋では、音は、壁にぶつかって、澪のところへ、すぐ戻ってくる。
けれど、ここでは、ちがう。
払った音は、澪の手をはなれると、上へ、外へ、どこまでも、開いていく。
すべり台の向こうへ。
街灯の光の、そのもっと上の、暗い空のほうへ。
止めるものが、なにも、ない。
澪は、もう一つ、鳴らした。
その音も、夜の中へ、のぼっていく。
どこにも、ぶつからない。
とがめる声も、追ってこない。
一つ、鳴らしては、その音が消えるまで、耳で追う。
部屋より、ずっと長かった。
一つの音の中に、もっと細い響きが、いくつも重なっている。
澪の耳は、その一本ずつを、最後まで追いかけていた。
気づけば、指は、もう次の音を探していた。
三つ。
四つ。
音は、夜気の中を、細い糸のように、つながっていく。
急がなくても、前の音は、まだそこに残っていた。
その膜の中で、澪は、いつもより、大きく、指を動かせた。
だれかの耳を、気にしなくていい。
音を、小さく、小さくしておかなくていい。
だから、澪の音は、部屋にいたときよりも、ほんの少しだけ、強くなっている。
公園も、街灯も、冷たいベンチも、うすい膜の向こうへ、しずかに引いていく。
あとには、澪と、腕の中の音だけが、残った。
その音は、公園の外へ流れていく。
道の先に、人がいた。
街灯の光の、そのふち。
ひとりの男が、足を止めていた。
片手に、コンビニの袋を、提げていた。
ふくらんだ白いレジ袋が、街灯のはしの光を、ぼんやりと、返している。
男は、コートの襟を、立てていた。
口から、白い息が、細く、のぼっていく。
男は、動かない。
寒そうに、肩を、すぼめている。
それでも、その場から、動こうとは、しなかった。
澪のいる、ベンチのほうへ、顔は、向けていない。
ただ、道の途中に、足を止めたまま、立っていた。
音の、するほうへ。
澪の指が、止まった。
鳴りかけていた音が、途中で、宙に、残される。
だれかがいる。
澪の耳が、それを、先に、教えていた。
足音が、途中で、消えたこと。
その足音が、もう、近づきも、遠ざかりも、しないこと。
澪は、ギターを、胸のほうへ、引き寄せる。
取り上げられる前に、そうするのが、癖になっていた。
けれど、男は、近づいてこない。
なにも、言わなかった。
うるさい、とも。
もう一回、とも。
ただ、そこに立って、白い息を、吐いている。
澪には、それが、なぜなのか、わからなかった。
男が、立ち止まった。
澪に、わかったのは、それだけだ。
自分の鳴らした音のために、その人の足が、止まったのだということは、澪には、わからない。
わからないまま、澪は、その場を、動けずにいた。
はだしの足のうらが、じんと、冷たい。
けれど、澪は、それを、忘れている。
逃げることも、隠すことも、いまは、頭に浮かんでこない。
ただ、腕の中のギターを、抱えたまま、そこに、いた。
冬の夜の、しんとした空気の中で、二人は、少しのあいだ、そうして、動かなかった。
澪の音が、初めて、外へ、放たれた夜だった。
その音のために、一人の男が、足を止めている。
男は、帰らなかった。
澪が、もう一度、糸に指を置くまで。
冬の道のまんなかで、ただ、待っていた。
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