第4話「うるさい」
短い言葉ほど、長く残ることがあります。
「――ちょっと。うるさい」
その言葉を聞くまで。
ギターは、澪の一日の、すきまという隙間に、入りこんでいた。
昼の掃除のあいだも、澪の左手は、床につけたふりをして、机の裏や、柱のかげで、こっそり指を折っていた。
ありもしない糸を、指が押さえる。
押さえながら、澪の耳の奥では、その形の音が、ちゃんと鳴っていた。
三つ、続けて鳴らせたあの夜から、澪の指は、少しずつ、その線を長くしていった。
四つ。
五つ。
前の音の余韻に、次の音が、そっと乗る。
それは、まだ曲とは呼べなかった。
けれど、ばらばらの点では、もうなかった。
夢中になると、澪は、自分の指が糸を弾く、その音のほかは、なにも聞こえなくなる。
世界のぜんぶが、うすい膜の向こうへ、しずかに引いて、あとには、澪と、腕のなかの音だけが、残った。
その膜のなかにいるあいだ、澪は、気づかなかった。
自分の鳴らす音が、部屋の戸のすきまから、外へこぼれ出ていることを。
その日も、澪は、六畳の部屋のすみで、ギターを抱えていた。
午後の、みんながテレビのほうへ集まっている時間。
ここなら、澪をわざわざ探しにくる子は、いない。
指を置いて、払う。
濁る。
置きなおして、また払う。
澄んだ音が、一つ。
その隣を、耳が探す。
指が、そこへ帰っていく。
四つめの音が、三つめの音に、そっと重なった。
つながった、と思った、そのときだった。
部屋の戸が、いきおいよく開いた。
戸口に、年上の子が立っていた。
澪より、頭ひとつ、背が高い。
眉を寄せて、澪の抱えたギターを、見ている。
「さっきから、ぼんぼん、ぼんぼんって。こっちまで、聞こえてんの。テレビ、聞こえないんだけど」
澪は、顔を上げなかった。
ただ、糸の上に置いていた指の力を、すっと抜いた。
鳴りかけていた音が、途中で、消える。
部屋のなかが、しんとした。
澪は、ギターを抱えたまま、動かなかった。
言い返さなかった。
ごめん、とも言わなかった。
ただ、抱えたものを、少しだけ、胸のほうへ引き寄せる。
取り上げられる前に、そうするのが、いつのまにか、癖になっていた。
年上の子は、そんな澪を、しばらく見ていた。
何か言おうとして、やめたようだった。
「……別に、怒ってるわけじゃ、ないけど」
その子は、それだけ言うと、戸を閉める。
ぴしゃり、という音では、ない。
手で、そっと引いて、そっと閉めた音だった。
澪は、知らなかった。
戸を閉めたその子が、すぐには、その場を離れなかったことを。
廊下に立ったまま、閉めた戸のほうへ、ほんの一瞬、耳を向けていたことを。
音が、もう鳴らないのを、確かめるように。
あるいは、もういちど、鳴るのを、待つように。
それから、その子は、テレビのほうへ、戻っていった。
その日の、夕方。
澪は、事務室の前へ、呼ばれた。
園長先生が、立っていた。
しかる顔では、なかった。
こまった顔だった。
「澪ちゃん。ギターはね」
「みんなの、いる時間には、ならさないでね」
「この建物、音が、ひびくのよ」
やわらかい声だった。
やわらかいまま、戸をしめる声だった。
澪は、うなずいた。
ひとことも、言わなかった。
その日から、澪は、昼のあいだ、ギターを弾かなくなった。
うるさい、と言われたことが、こわかったわけではない。
ただ、音を出すと、だれかの耳に、さわる。
それが、わかってしまった。
だから澪は、自分の音を、できるだけ、外へ出さないようにした。
ここにいるという音を、小さく、小さくしておく――それは、澪が、ずっと前から、得意にしていたことだった。
弾けない時間は、長かった。
談話室のすみで、澪は、膝を抱えて座っている。
テレビの前では、年下の子たちが、笑っている。
澪は、その輪には入らない。
壁を背にして、気配を殺して、ただ座っている。
けれど、膝を抱えたその手の、指だけは、動いていた。
膝がしらの、かたい骨の上を、糸を押さえるように、とん、とん、と押している。
音は、出ない。
出ないけれど、耳の奥では、ちゃんと鳴っていた。
だれにも聞こえない音を、澪は、ひとりで、鳴らしていた。
ときどき、澪の指は、押さえる場所を、まちがえる。
すると、耳のなかで鳴っていた音も、いっしょに濁った。
澪は、指を置きなおして、その濁りを、頭のなかだけで、そっと澄ませる。
糸がなくても、直すことは、できた。
けれど、直したその音は、どこまでいっても、聞こえない音のままだった。
本物の糸が、指の腹に食いこむ、あの感じ。
払ったときに、腕の内側までくる、細かな震え。
それが、ここには、ない。
布団のなかで、指の先が、糸にさわりたがって、うずうずしているのが、自分でも、わかった。
みんなが寝静まるのを、澪は、待った。
布団のなかで、目を開けたまま、施設じゅうの音を、聞いていた。
年下の子の寝息。
二段ベッドのばねが、寝返りで、きしむ音。
廊下の奥の、時計の針の音。
一つ、また一つと、音が、静かになっていく。
最後に残った誰かの寝息が、深く、規則正しくなったとき、澪は、そっと、布団を出た。
ギターは、ベッドの下に、隠してあった。
冷たい床に膝をついて、両手で、それを引き出す。
抱え上げると、緩んだ糸のどれかが、腕にさわって、ぼん、と鈍く鳴った。
澪は、息を止めた。
だれも、起きてこない。
澪は、はだしのまま、暗い廊下へ出た。
足のうらに、床の冷たさが、吸いついてくる。
一歩、踏み出すたびに、床が鳴かないところを、耳が、先に教えてくれた。
ここは鳴る。
ここは鳴らない。
澪の足は、鳴らないところだけを、選んで、進んだ。
勝手口の戸の前に、立つ。
前に、いちど開けた戸だった。
押すと、ぎいっと長く鳴くことを、澪は、もう知っている。
だから今度は、ゆっくり、ゆっくり、押した。
戸は、低く、みじかく鳴いただけで、開いた。
外の空気が、頬にあたる。
冬の夜の、しんと冷えた空気だった。
白い息が、口から出て、宙で、すぐにほどけて消える。
塀の向こうに、細い道が、伸びている。
街灯が、遠くに一つ、ぽつんと灯っているほかは、なにもかもが、暗かった。
澪は、その暗さを、こわいとは思わなかった。
暗いところは、静かだ。
静かなところでなら、澪の音も、だれの耳にも、さわらずに、すむ。
昼は、うるさい、と言われる。
夜は、だれも起きていない。
だれの耳にも、さわらない場所。
澪は、それを、探しに行こうとしていた。
どこへ行けばいいのか、あては、なかった。
それでも、抱えたものを落とさないように、両腕に力をこめて、澪は、暗い外へ、一歩、踏み出した。
渡されるのを待つのではなく、自分の足で、どこかへ行こうとするのは、澪にとって、はじめてのことだった。
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