第3話「まだ、開けられない」
教えてくれる人は、いなかった。
だから澪は、本の中の絵と自分の指を、何度も見比べた。
水を吸って反り返った教本は、開いてもひとりでに閉じようとする。
澪は片方の膝で表紙の端を押さえ、もう一方の手で波打つ紙をそっと伸ばした。
にじんで薄い青色になった図の中に、五本の指がそれぞれちがう糸を押さえている絵があった。
指の先には、小さな丸がいくつも打ってある。
ここを押さえろ、ということらしい。
文字も並んでいたけれど、水に溶けてもう半分は読めなかった。
澪は、読めるところだけを目でなぞる。
読めたのは、「だれでも」と「かんたん」という文字だった。
それから、自分の左手をギターの首の上にのせてみた。
絵のとおりに指を折る。
人差し指を、いちばん上の糸へ。
中指を、その二つ下へ。
薬指を、さらに一つ横へ。
絵の中の手はこともなげにその形をしているのに、澪の指は言うことをきかなかった。
薬指を伸ばそうとすると、小指までいっしょに動く。
中指を立てれば、人差し指が糸から浮いてしまう。
手の中のどの指も、ばらばらの生きもののようだった。
右手の親指で、糸を払う。
鳴ったのは、音とは呼べないものだった。
押さえた指の力が足りなくて、糸が金具のふちに触れたまま鳴る、びりびりとした濁った震え。
澪は左の指に、もう少し力を込めた。
糸が指の腹に食い込む。
細い糸は思っていたよりずっと硬く、押さえているだけで指先が白くなり、そのふちがじんと痛みはじめた。
それでも澪は、手を止めない。
図を見て、指を置いて、払う。
濁る。
指を置きなおす。
また払う。
何度くりかえしても、絵の中のきれいな音は、澪の手からは生まれてこなかった。
指の痛みは、だんだんじんじんと重くなっていく。
けれど、その痛みは澪にとって邪魔ではなかった。
痛いところに気持ちを向けているあいだは、ほかのことを何も考えずにいられた。
けれど、一つだけ、澪の手がほかの子とちがっていたことがある。
澪自身は、それを知らなかった。
いちど、まぐれのように澄んだ音が鳴ることがあった。
指の位置と力の入れ方が、たまたま合致したその一瞬。
ふつうの子なら、次にその音を出そうとして、また同じだけ迷う。
どこに指があったのか、忘れてしまうからだ。
けれど澪の耳は違った。
鳴った音の響きを、糸の上の位置ごと正確に記憶してしまう。
「あの音は、あそこにいた」
耳の奥深く、傷のように刻まれたその一点へ向けて、澪の細い指は二度目から寸分の狂いもなく吸い寄せられていった。
いちどでも正しく鳴った音は、澪の中で、もう迷子にはならなかった。
一つの音を覚えると、澪はその隣の音を探した。
図の中の、次の指の形。
置いて、払って、濁って、置きなおす。
濁った音の中から、たった一つの澄んだ音を耳がすくいあげる。
そこだ、と耳が言う。
指がそこへと帰る。
覚える。
すると、その音ももう迷わなくなった。
澪の耳は、正しい場所をいつも先に知っていた。
あとから、指がそこへ追いついていく。
昼の掃除のあいだも、澪の左手は雑巾を握ったまま、机の裏でこっそり指の形を作っていた。
夜、布団に入ってからも、暗闇の中でありもしない糸を指が押さえている。
目が覚めると、いちばんに教本を開いた。
ほかの子たちが澪を放っておいてくれる時間が、澪には、そのままギターに触れる時間になる。
三日で、澪の指は濁らずに三つの音を鳴らせるようになった。
五日で、それが六つになった。
指の腹の、糸が当たるところが、はじめは痛くて、次に赤くなって、それから少しずつ硬くなっていった。
硬くなった指先は、もうあまり痛まない。
澪は、自分が速いのか遅いのかを知らなかった。
比べる相手が、いなかった。
ただ、耳が覚えている音の数が日ごとに増えていくのを、うれしいとも思わずに、当たり前のこととして受け取っていく。
ある夜のことだった。
その日、澪ははじめて、音を三つ続けて鳴らせた。
一つ、二つ、三つ。
三つの音はばらばらではなく、うしろの音が前の音の余韻にそっと重なって、細い線のようにひとつながりに聞こえた。
澪は、それをもういちど鳴らした。
つながる。
もういちど。
指が、自然と次の場所へ帰っていく。
いつものように、澪は談話室のざわめきも廊下の足音も耳から抜けていくのにまかせて、ただ、その三つの音の線をくり返し辿っていた。
澪は、気づかなかった。
部屋の窓が、ほんの少し開いていたことを。
その細い隙間から、澪の鳴らす音が冬の夜気に乗って外へこぼれ出ていたことを。
ブロック塀を越えて、施設の外の暗い道のほうへ、細く、細く流れていったことを。
冬の夜の空気は、音を遠くへ運ぶ。
◇
凍えた道の上を、その頼りない三つの音は、消えそうになりながら、けれど途切れずに、塀の外の暗がりを渡っていった。
施設から二つ角を曲がった先に、古い木造の家が一軒あった。
その夜、その前の道をひとりの男が歩いていた。
コートの襟を立て、白い息を吐きながら、うつむいて歩いている。
角を曲がろうとしたその足が、ふと止まった。
どこかで、音が鳴っていた。
ギターの音だった。
上手くはない。
糸を押さえる指がときどき濁って、途切れる。
それでも、三つの音がたどたどしく、けれど確かに、つながろうとしていた。
男は暗い道の真ん中に立って、しばらく動かなかった。
音のするほうへ、顔は向けない。
ただそこに立って、聞いていた。
やがて音が途切れると、男はまた歩きだした。
さっきより、少しだけ足が遅くなっていた。
男の家は、その先の明かりの少ない一角にあった。
明かりは、つけない。
コートも脱がずに、男はまっすぐ部屋の奥へ歩いた。
押し入れの前に立ち、しばらくその閉じた襖を見つめている。
襖を引く。
積み上げた段ボールの、そのいちばん奥に、細長い黒いものが立てかけてあった。
男は、埃をかぶったそれを両手で引き出した。
硬いケースだった。
指でなぞると、埃の下から黒い革の色が一筋あらわれた。
留め金は、二つ。
金属の色はくすんで、あちこちが茶色く錆びている。
男は床にケースを寝かせた。
片膝をつき、留め金の一つに指をかける。
冷たい金属の感触。
親指に力を入れかけて――止まった。
指は留め金にかかったまま、動かない。
部屋は暗く、外の街灯の光が、カーテンの隙間から細くケースの上に落ちている。
男の指は、留め金の上でほんの少しだけ震えていた。
寒さのせいなのか、そうでないのか、それは暗くてわからなかった。
男は、留め金から指を離した。
かけたときと同じ、そっとした手つきで。
開かないままのケースを両手で持ち上げ、また押し入れの奥へ、もとのとおりに立てかけた。
襖を閉める。
開かれなかったケースは、埃の中で、さっきと同じようにじっと朝を待っている。
二つ角を離れた施設の暗い部屋の中では、澪がまだあの三つの音を、くり返し辿っていた。
自分の鳴らした音が、この夜、塀を越えてひとりの男の足を止めたことを、澪は知らなかった。
イメージソング
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