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『まだ、鳴るなら』 ―音が多すぎる少女は、捨てられたギターを鳴らせるか―  作者: KASANE


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第2話「合わせる」

静かな話ですが、ここから少しずつ動いていきます。

 捨てられていたのに、まだ木の匂いがした。


 膝の上に横たえた胴に顔を寄せると、埃と湿気の匂いの、そのずっと奥のほうに、乾いた木そのものの匂いが、かすかに残っている。


 ゴミ捨て場でいくつもの夜を過ごして、雨も夜露もぜんぶ吸い込んで、それでもこの匂いだけは、消えずにいた。


 澪は、洗面所からこっそり持ってきた古いタオルを、両手で握りしめた。


 消灯までのあいだ、部屋には澪ひとりだった。


 ほかの子たちは、みんな階下の談話室に集まって、テレビの前にいる。


 笑い声とざわめきは、床を伝って足の裏まで届いてくるけれど、この部屋のドアさえ閉めてしまえば、その音は一枚ぶんだけ遠くなった。


 澪は二段ベッドの下の段、自分の布団の上に膝を折って、冷たい木の箱を抱えなおした。


 タオルで、胴をなぞる。


 ひと拭きするごとに、布の白いところが、少しずつ黒くくすんでいく。


 首のつけ根の、手垢なのか埃なのかわからない黒ずみは、力を入れてこすっても、なかなか落ちなかった。


 何度もタオルを往復させて、ようやく、くすみの下から、木のもとの色が、少しだけ顔を出す。


 飴色に、にぶく光る、小さな一かけら。


 澪は、そこを指の腹で、そっとなでた。


 胴に走った細い傷の、その溝の一本一本にも、古い埃が詰まっている。


 澪は、タオルの端を細くたたんで、その溝をひとつずつ、たどるように拭いていった。


 指先が、傷のふちの、ささくれた木の毛羽に触れる。


 誰かに言われたわけではなかった。


 きれいにしなさいと、教わったわけでもない。


 ただ、この汚れが、そこに在ってはいけないもののように思えて、澪の手は止まらなかった。


 渡されたものは黙って受け取り、取り上げられても、抵抗はしない。


 何も欲しがらない子どもの手が、いま、捨てられた木の箱の汚れを、一心に落としている。


 自分の持ち物を、こんなふうに手をかけて世話したことが、いままで、いちどでもあっただろうか。


 澪には、思い出せなかった。


 金具のならんだ首の先まで拭きおえたとき、澪の指が、胴の真ん中を渡る糸の一本に、ふと触れた。


 弾くつもりは、なかった。


 そこに糸があったから、指の腹がすべった。


 ただ、それだけのこと。


 ぼん、と鈍い音が鳴った。


 その音を聞いた瞬間、澪の背中が、小さくこわばった。


 澪の耳は、その音を、いつも音を聞くときと同じやり方で聞いた。


 前の家で、台所の音は台所に、テレビの音は居間にあった。


 音には、それぞれ置かれるべき場所がある。


 目をつぶっていても家の中の誰がどこにいるかわかったのは、澪の耳が、音の在るべき場所を、いつも正しく知っていたからだった。


 けれど、いま鳴った糸の音は、ちがった。


 行くべき場所が、澪にはちゃんと見えているのに、その音は、そこに居なかった。


 どう言えばいいのか、澪にはわからなかった。


 ただ、耳の奥のほうで、その音が、あるべき場所から半歩だけずれて、宙にぶらさがっているのが、はっきりと感じられた。


 ずれた音は、耳の内側を、ざらりとなでていく。


 触れられたくないところを、指の先でなぞられたときのような、落ち着かなさだった。


 澪は、隣の糸を弾いてみた。


 それも、ずれていた。


 その隣も。


 何本もの糸は、どれも、それぞれちがうずれ方で、居るべき場所から外れていた。


 うるさい、というのとは、ちがった。


 けれど、放ってはおけなかった。


 澪は、首の先にならんだ金具の、いちばん端の一つに、指をかけた。


 そっと回してみる。


 糸の張りが、指の下で、わずかに変わったのがわかった。


 もういちど、その糸を弾く。


 さっきより、音が動いた。


 居るべき場所のほうへ、ほんの少しだけ、近づいた。


 澪は、金具をもう少し回した。


 今度は、行きすぎた。


 澪は、金具を戻す。


 弾く。


 近づく。


 また回す。


 遠ざかる。


 戻す。


 指の下の、かたい手ごたえだけを頼りに、少しずつ、少しずつ、音を寄せていく。


 押されれば動き、呼ばれても答えない子どもだった。


 その澪が、いま、たった一つのことにだけ、退かなかった。


 この糸の音が、居るべき場所に居ないこと。


 それだけは、どうしても、そのままにしておけなかった。


 談話室のざわめきが、いつのまにか遠くなっている。


 あとに残ったのは、指の下の金具の手ごたえと、糸を弾いたときの、たった一つの音だけ。


 弾いて、聞いて、ほんのわずかに回す。


 また弾いて、聞く。


 その繰り返しのなかで、澪は、いつのまにか、自分の息の音さえ、聞こえなくなっていた。


 いつのまにか、消灯の時間が過ぎていた。


 ほかの子たちが部屋へ戻ってきて、上の段や、向かいのベッドで、布団に潜りこむ気配がする。


 天井の明かりが消えて、部屋は暗くなった。


 澪は、ギターを布団の中へ引き入れて、うつ伏せの胸の下に、そっと抱えこんだ。


 暗闇のなかでは、目は役に立たない。


 けれど、金具の手ごたえと、糸の音だけは、澪の指と耳が、もう覚えていた。


 澪は、暗がりのなかで、いちばん端の金具を、指先だけで、ほんのわずかに回した。


 弾く。


 その糸が――あるべき場所に、はまった。


 澄んだ音が、ひとつ、鳴った。


 澪は、息を止めた。


 いままで、あんなにたくさん、澪の耳に刺さりつづけていた音が――向かいのベッドの寝息も、廊下の遠くで軋むばねも、洗面所の蛇口から一滴ずつ落ちる水の音も――その澄んだ一つの音の、うしろに隠れて、聞こえなくなった。


 一音が鳴っているあいだだけ、世界のほかのぜんぶが、その音の陰に、しまわれた。


 たった一つの糸の音が、こんなにも、ちがう。


 ほかのすべての音を、静かにさせてしまうほどに。


 澪には、そのことが、うまく言葉にできなかった。


 ただ、胸の奥の、ずっとかたく縮こまっていたところが、その一音のぶんだけ、ほどけた気がした。


 音が消えたあとも、澪は、しばらく動かなかった。


 布団の中は、まだ、その一音の余韻で、あたたかい気がした。


 澪は、気づかなかった。


 向かいのベッドで、ひとりの年下の子が、布団の中で、そっと目を開けていたことを。


 息をひそめて、たったいま鳴った、あの澄んだ音のほうへ、耳を澄ませていたことを。


 その子は、顔を出さなかった。


 ただ、布団の中で、小さく寝返りを打つ気配だけが、暗い部屋に、ひとつ、こぼれた。


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