第1話「拾う」
はじめまして。第一話を読んでくださって、ありがとうございます。
この施設は、静かじゃなかった。
音が、多すぎる。
その夜、澪は、音を消してくれる箱を拾う。
玄関のガラス戸が閉まる音。
廊下でスリッパを引きずる音。
二階から降りてくる足音。
台所では鍋の蓋が、湯気に押されてかたかた鳴っている。
澪の耳には、そのぜんぶが同じ大きさで届いた。
遠いも近いもない。
まるで、すべてが肩のすぐ横で鳴っているみたいだった。
「白石さん。ここが、あなたのお部屋ね」
職員の声も、たくさんの音のひとつとして届いた。
やさしい声だった。
でも澪の耳は、そのやさしさより先に、女の人の服がこすれる音や、手に持ったバインダーの金具が鳴る、小さな音を拾ってしまう。
澪は、返事をしなかった。
ただ、渡されたスリッパの、かかとのつぶれた感じを、足のうらで確かめていた。
六畳ほどの部屋に、二段ベッドが二つ。
窓の外はもう暗い。
カーテンの引かれていないガラスに、自分の顔がぼんやりと映っている。
知らない子どものように見えた。
澪は、音だけで、人の居場所がわかった。
前の家の音は、こんなふうではなかった。
母がまな板を叩く音。
父がテレビの音量を上げる、リモコンの小さな音。
妹が廊下を走って、曲がり角で足を滑らせる音。
どの音にも、いる場所があった。
目をつぶっていても、誰がどこにいるか、澪にはわかった。
いまは、その音がしない。
ここにある音は、どれも澪の知らない人たちの音だった。
知らない人の足音。
知らない人の笑い声。
ぜんぶが同じ強さで刺さってくるのに、そのどれ一つとして、澪の名前を呼んでいる音ではない。
音がたくさんあるのに、澪の居場所を教えてくれる音は、ひとつもなかった。
夕食は、長い机をかこんで食べる決まりらしかった。
子どもが十人ほど、向かいあって座っている。
年上の子が年下の子に何か言って、笑いが起きる。
誰かが箸を落とす。
誰かがおかわりを頼む。
皿と皿のぶつかる音、味噌汁をすする音、椅子が床をこする音。
そのぜんぶが、澪の耳の中でひとつに溶けあって、大きなざわめきのかたまりになる。
かたまりは、耳のおくを、じりじりと押してきた。
澪は、いちばん端の席に座らされた。
目の前の皿には、白いごはんと、茶色い煮物と、切られたトマトがのっている。
澪は箸を持ったまま、動かなかった。
食べたくないわけではない。
ただ、手を動かすためのきっかけが、どこにも見つからなかった。
「白石さん、苦手なものあった?」
隣の年上の子が話しかけてきた。
澪は目を合わせない。
うつむいたまま、首を横にも縦にも振らなかった。
何度か声をかけられて、そのうち、その子は諦めて自分の友達のほうへ顔を戻した。
それでよかった。
話しかけられないことのほうが、澪にはずっと楽だった。
この数日で、澪はひとつのことを覚えた。
何も言わず、何も欲しがらず、目を合わせなければ、人はやがて澪のことを放っておいてくれる。
抵抗しないというのは、そういうことだ。
押されれば動く。
呼ばれても、答えない。
自分がここにいるという音を、できるだけ小さく、小さくしておく。
そうすれば、誰も澪をわざわざ探しにこない。
配膳をしていた女の人が――昼間、部屋に案内してくれた職員だった――澪の席の前を通りかかって、ふと足を止めた。
澪の皿を見ている。
ごはんも、煮物も、ほとんど減っていない。
澪は手を止めたまま、机の木目を目でなぞっていた。
女の人は、何も言わなかった。
ただ、自分の持っていた大皿から、鶏の唐揚げをひとつ、澪の皿の端にそっと置いた。
箸の先が、かちり、と皿に触れる小さな音。
それから女の人は、また何ごともなかったように、次の子の席のほうへ歩いていった。
澪は、その唐揚げを見た。
見ただけだった。
手は動かさない。
けれど、皿の上でひとつ増えた茶色い塊のことを――そして、それを置いたときの、あのかちりという小さな音を、澪の耳は、他のどのざわめきよりも近いところで、はっきりと拾っていた。
なぜだかは、わからなかった。
灯りが消えたあとの廊下は、昼よりも音がはっきり聞こえた。
誰かの寝息。
遠くで、ベッドのばねがきしむ音。
洗面所の蛇口から、水が一滴ずつ落ちる音。
眠れないのは、ここへ来てからずっとだった。
澪は布団を抜け出して、暗い廊下を歩いた。
はだしの足のうらに、床の冷たさが吸いついてくる。
勝手口の戸は、鍵がかかっていなかった。
押すと、さびた戸が、ぎいっと長く鳴いた。
その音の大きさに、澪はいちど息を止める。
けれど、誰も起きてこなかった。
外は、家の中よりもずっと静かだった。
冬の夜は、空気がつめたくて、とおくの音まで、はっきりと届いた。
自分のはく息が白くかたまって、宙で、すぐにほどけて消える。
施設の裏手には、ブロック塀で囲われた狭い場所があって、そこにゴミが集められていた。
膨らんだ半透明の袋がいくつも積み上げられ、その脇に、大きなものが立てかけてある。
澪は、近づいた。
それは、木でできた箱のようなものだった。
丸い胴に、細い首。
そこから何本かの糸が、だらしなく垂れている。
ギターだ、と澪は思った。
触ったことはない。
名前を知っているだけだった。
その足元に、濡れて波打った本が落ちていた。
開くと、六本の線と、指の形を描いた絵が、薄くにじんでいた。
教本、と書いてある。
澪は、しゃがんだ。
膝を抱えて、その二つを、ただ見ていた。
捨てられて、ここに置かれて、朝を待っている。
冷たい場所で、誰にも呼ばれないまま、じっとしている。
それが、自分とよく似た格好をしていることを、澪は言葉にはしなかった。
ただ、長いあいだ、そこにしゃがんでいた。
白い息だけが、ゆっくりと、宙へのぼっては消えていく。
どれくらい、そうしていただろう。
空気の冷たさが、足の裏から膝のうしろまで這い上がってきたころ、澪はゆっくりと、手を伸ばした。
指先が、ギターの胴に触れる。
冷たかった。
夜のつめたさを、ぜんぶ吸いこんだような冷たさだった。
澪は両手を胴の下に差し入れて、持ち上げてみた。
思っていたよりも、ずっと重い。
腕がぐっと下へ引かれて、澪は思わず膝で踏ん張った。
埃の匂いがする。
古い木と、湿った紙と、知らない誰かの家に長いこと置かれていた匂いが、鼻の奥をかすめていった。
澪は、それを両腕で抱えた。
胸に引き寄せると、緩んだ糸のどれかが、腕のどこかに触れて、ぼん、と鈍い音を立てた。
音にならないような、小さな音。
けれど澪は、その震えを、腕の内側で、確かに感じとった。
そのときだった。
ずっと澪の耳に刺さりつづけていた音が――塀の外を走っていく車の音も、どこか遠くの犬の声も、自分の胸のおくで鳴る心臓の音でさえも――ふっと、遠ざかった。
水の中にもぐったときのように、世界のぜんぶの音が、うすい膜の向こうへ、しずかに引いていく。
あとには、腕の中の重さと、埃の匂いと、木の冷たさだけが、澪のすぐそばに残った。
うるさくない、と澪は思った。
この施設に来てから――ううん、もっとずっと前から、澪の耳にはいつも、なにもかもが刺さっていた。
それがいま、初めて、うるさくなかった。
澪は、何も欲しがらない子どもだった。
渡されたものは黙って受け取り、取り上げられても、抵抗はしない。
押されれば動き、呼ばれても答えない。
自分から手を伸ばして、何かを掴んだことなんて、いちどもなかった。
その澪が、いま、両腕に、冷たくて重い木の箱を抱えている。
誰かに言われたからでもなく、誰かに許されたからでもなく、自分で、それを抱き上げていた。
白い息が、また一つ、宙にほどけて消える。
澪は、腕の中のそれを落とさないように、もう少しだけ強く、抱きしめた。




