第29話「最後まで、弾けた」
読んでいただけたことに感謝します。
その月の、集まりの日がやってきた。
夕食が終わったあとの食堂には、蒸籠からあがったばかりのような、甘くて素朴な蒸しパンの匂いがほのかに残っている。
パイプ椅子がいくつも並べられ、その正面に、もうひとつ。
みんなの座る列へ向けて、ぽつんと置かれた一脚の木製椅子があった。
澪は胸の前で箱を抱きしめたまま、食堂の戸口で足を止める。
すっと、足の指先がすくんだ。
あの日の冷たく広大な大ホールと、この見慣れた狭い食堂は、何ひとつ似ていない。
身体を締めつける白いワンピースも着ていないし、床を踏み鳴らす硬い靴も履いていない。
袖のすり切れた、いつもの薄い部屋着に、裸足のままだ。
それでも、無数の視線がいっせいに自分へ向けられるという重みだけは、あの日と寸分違わなかった。
澪の隣で、ひなたがパジャマの袖をくいと小さく引いた。
両手でスチール缶を大切そうに構え、丸い瞳で澪の横顔をじっと見上げている。
食堂の端では、今月誕生日を迎えた男の子が、身体を揺らしながら新しい歌を披露していた。
音程を派手に外し、途中で歌詞を忘れて立ち往生し、まわりからどっと笑い声が起きる。
それでも、誰かが机を叩いて拍子をとり、歌い終えると全員が惜しみない手を叩いた。
澪は、その光景を息を潜めて見つめていた。
あの白い光の底には存在しなかった、あたたかくて不揃いな世界がそこにある。
澪は、深く息を吸い込んだ。
喉の奥がきゅっと狭まる。あの日、言葉を奪われたときと同じ息苦しさだ。
――けれど、澪の足は止まらなかった。
床板を素足の裏で確かめながら、前へ一歩を踏み出す。
正面を向いた、あの椅子へと歩きはじめた。
後方の壁際に、節くれだった骨太な影が立っているのが視界の端に入った。
用務員の、藤沢さんだった。
普段なら、子どもたちの集まる行事には決して顔を出さない人だ。
その人だけが、薄暗い戸口の柱に無言で背を預けていた。
視線は交わらない。
男は澪の顔を見ることもなく、ただ少女の抱える古い箱のあたりをじっと見据えていた。
澪は、椅子の前に立ち、ゆっくりと腰を下ろした。
四本の脚は床に吸い付くように安定していて、体重を預けても、微かな揺らぎひとつ立てない。
ひなたが椅子のすぐ脇、冷たい床の上にぺたんと正座した。
司会の職員が澪の名前を呼び、何かを言い添えたようだったが、その言葉は澪の鼓膜の外側を滑り落ちていく。
箱を膝にのせ、金具に指をかける。
パチリ、パチリと留め具の外れる乾いた金属音だけが、静まり返った食堂の隅々まで澄んで響き渡った。
蓋を持ち上げ、六本の糸を指の腹でひとつずつ確かめる。
いつもの薄暗い六畳間で触れているのと同じ糸。
けれど、大勢の呼吸に囲まれた空気の中では、指先に触れる鉄の感触が、いつもよりわずかに遠く感じられた。
肩は強張ったままだ。
喉の奥の狭さも、消えてはくれない。
それでも、澪の指先は逃げ出さずに糸の上へと収まった。
一の音。
澪は、指をそっと払った。
二の音。
三の音。
こつ、と少し遅れて、ひなたの缶が控えめに追いついてくる。
四の音に指が差し掛かった瞬間、左手の指先がわずかにもつれかけた。
あの日の冷酷な静寂が、脳裏をかすめる。
二つめの音のあとが途絶え、指が石のように固まってしまった、あの真空の恐怖。
けれど――澪の指は、止まらなかった。
もつれを抱えたまま、強引に次のポジションへと飛び込む。
濁って掠れた音の背中を押し出すように、新しい音が指の下から立ち上がった。
五の音。
六の音。
子どもたちのひそひそ声が、潮が引くように止んでいた。
前の席の子が身を乗り出し、机に両肘をついて澪の手元を見つめる気配がする。
澪は、決して顔を上げなかった。
教本の最初のページ、あの丸と線の並びだけを、網膜の奥で懸命になぞり続ける。
とん、と心の中で拍を刻む。
あの日、どれほど待っても降りてこなかった、あの二拍分の間合い。
いま、一拍目の「とん」が、指板の上にしずかに着地する。
とん、ともう一度。二拍目も、確かに息を吸って戻ってきた。
整った拍の真ん中へ、澪は迷うことなく次の和音を下ろしていく。
ところどころ、爪が触れて音が濁る。
ところどころ、指が滑ってもつれる。
決して、誰かに誇れるような見事な演奏ではない。
それでも、澪の指は一度も止まることなく、前へ前へと音を繋ぎ続けた。
こつ、こつと、隣で叩かれる空き缶のビートが、澪の背中をトントンと押し続けてくれる。
ずれては重なり、またずれては寄り添いながら。
曲の半分を越えた。
かつて大ホールの光の檻の中で、指が動かなくなってしまったあの境界線を、澪はいま、確かに踏み越えていた。
一度も途切れることなく。
左手が指板の上を滑らかに移ろっていく。
関節が軋みそうになっても、指先が凍りつくことはもうない。
あの日は、ここで止まってしまった。
けれどいまは、ここを通り抜けていく。
最後の音へ向かって、澪の指先がひと息に駆け上がっていく。
そして、最後の音が放たれた。
ぽん、と。
食堂の静けさの中へ、丸くて太いひと粒の響きがこぼれ落ち、ゆっくりと空気に溶けて消えていく。
誰も、すぐには動かなかった。
音が完全に消え去るまでの空白を、食堂にいる全員が一緒に息を止めて見届けていた。
やがて、誰かの手のひらが、ぱちんと小さく鳴った。
それに誘われるように、あちこちから小さな手が合わさり、ぱちぱちとまばらな拍手の輪が広がっていく。
ホールで浴びるような地鳴りの歓声ではない。
手を叩きながら笑い合う、子どもたちの柔らかい手拍子だった。
その確かな音の粒が、澪の耳の奥へ、あたたかい風のように届いてくる。
隣でひなたが空き缶を両手で高々と掲げ、誇らしげに顔をほころばせていた。
机の向こうで、園長先生が目尻を下げ、静かに拍手を送っているのが見えた。
澪は、その視線を避けるように小さくうつむいた。
この集まりでは、上手に歌えなかった子も、間違えて笑われた子も、同じように手を叩いてもらっていた。
澪もいま、その子たちとまったく同じ拍手をもらっている。
上手いとか、下手とか、見世物として価値があるとか、そんなことではないのだ。
音を鳴らして、そこにいていいのだと、澪は生まれて初めて心から思えた。
澪は、膝の上の箱から顔を上げた。
戸口の壁際を、そっと探す。
そこに、あの男の姿はもうなかった。
扉の隙間には、ただ冷たい夜の廊下が広がっているだけだった。
いつのまにか、音もなく立ち去っていたのだ。
澪は、胸の中に寂しさを覚えなかった。
「よく弾いた」とも、「上手だった」とも、あの人は言わない。
最後まで音が鳴り止まないことだけを確かめ、役目を終えたように影へと消える。
それが、あの不器用な人の生き方なのだと、澪には痛いほど分かっていたからだ。
澪は、箱の蓋を静かに下ろした。
パチリ、パチリと、留め具を噛み合わせる。
ひなたが、澪のパジャマの袖をまた小さく引いた。
「もう一回、やろうよ」
澪は言葉を返す代わりに、教本のページに指を添え、次の頁をそっとめくった。
まだ弾いたことのない、新しい丸と線の並びが、白い紙の上に静かに息づいている。
澪は、そのまだ見ぬ次の音の響きを思った。
椅子は、まだそこにあった。
みんなの座る場所へ向けて、まっすぐに置かれた、がたつきのない椅子。
澪はその椅子の上に素足を揃えたまま、しばらく立ち上がらなかった。
止まった手で始まったこの集まりが、止まらない音で終わった。
それだけのことだった。
けれど、それだけで、十分に世界は変わりはじめていた。
次回、最終話です。





