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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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30/30

第30話「まだ、鳴るなら」

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

冬が、また近づいていた。


澪があおば園に来てから、ちょうど一年になる。

あの日、雪のちらつく夜に車から降ろされたときのことを、澪はいまでも鮮明に覚えている。

あのとき、澪は何も持っていなかった。

温かい布団も。

自分の部屋も。

誰かと交わす、明日の約束も。

何ひとつ持たずに、澪はこの施設の玄関をくぐったのだ。


公園の若い人は、もうあまり見かけなくなった。

働きはじめたのだと、食堂で誰かが話しているのを耳にした。

コンビニのあの大きな人は、いまも変わらず夜勤のレジに立っている。

澪がたまに前を通ると、白い歯を見せて軽く手を挙げてくれる。

それだけの付き合いが、いまも静かに続いていた。

ひなたは、あの頃より少し背が伸びた。

空き缶は、相変わらず両手で大切そうに抱えている。


夕暮れどき、澪はいつもの教本を開いていた。

最初の曲は、もうほとんど濁らずに弾けるようになっている。

その先のページは、まだ難しい。

丸と線の並びが、いくつも重なり合って現れる。

それでも澪は、毎晩その次のページを少しずつ指先でなぞっていた。

人前に立つ怖さは、いまも怖いままだった。

それでも、澪はもう箱を押し入れにしまわなくなっていた。


廊下で、職員たちの話し声がふと聞こえてくる。

「藤沢さんも、そろそろ……」

それだけが澪の耳に届き、あとの言葉は閉ざされたドアの向こうへ消えていった。

澪には、その言葉の意味がよく分からない。

分からないまま、なんとなく胸の奥が少しだけざわついた。

澪は、それ以上は考えないようにした。


食堂の椅子は、集まりの日以外は隅に重ねてしまわれている。

それでも澪は、あのみんなのほうを向いた一脚がどこにあるかを、いつも知っていた。

次の集まりでも、あそこに座る。

澪は、そう心に決めている。

誰かに言われたわけではない。

自分で決めた、はじめてのことのひとつだった。


足音が近づいてくる。

とん、とんと床を踏みしめて。

ひなただった。

空き缶を両手に持って、澪の隣にぺたんと座り込む。

澪は、教本の開かれたページをひなたに見せた。

まだ弾けない、丸と線の並び。

ひなたは目を丸くして覗き込み、

「むずかしそう」

と呟いた。

澪は、小さくうなずく。

難しい。

それでも、いつかそこまで行く。


澪は、最初の音に指を戻した。

一の音。

こつ、とひなたの缶が後ろからついてくる。

二の音。

三の音。


窓の外は、もう青から濃い藍へと沈みかけていた。

澪は糸の張りを指の腹で確かめながら、ゆっくりと音を繋いでいく。


あの人が、いつかここからいなくなるのかどうか、澪には分からない。

これから自分がどこへ行くのかも。

ひなたと、ずっと一緒にいられるのかも。

分からないことばかりの真ん中で、いま、指の下で糸は確かに張っていた。

のせれば、鳴る。

上手いも下手もない。

誰かに見せつけるためだけの音でもない。

ただ、世界に向かって鳴る。


澪は、もう一度最初の音に戻った。


ぽん、と。

こぼれ落ちた音が、薄暗い部屋の隅を渡っていく。

その音の後ろから、こつ、とひなたの缶が少し遅れてついてきた。


指の下にあるこの確かな張りを、もうしばらく手放したくはないと思った。


何も持たずにくぐった、あの日の一年前の玄関。

いまの澪の手には、この古い箱がある。

絡め合った小指の温かさと、まだなぞりきれていない教本の次のページがある。


それだけで十分だとは、澪は思わない。

十分なのかどうかさえ、まだ分からない。

分からないまま。


まだ、鳴るなら。

澪は糸の上に、指をのせ続けた。

この子の音が少しでも残ったなら、★で教えていただけると嬉しいです。

【1部完】

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