【第一章 氷の音】第三話 鏡の牛
店を出る。
エレベーターの扉が閉まり、鏡の中に疲れた顔が並ぶ。
自分だけではない。
隣に立つ男も、スマホを見ている女も、少しだけ肩が落ちている。
誰も壊れてはいない。
ただ、一日の重さを、それぞれの場所に乗せている。
地下へ降りる。
白いLED。乾いた空気。
地下街は、もう昼ほど混んでいない。
下り始めたシャッター。まだ明るい菓子屋。床を拭く店員。キャリーケースの車輪。遠くを通る地下鉄の低い振動。
街全体が、眠る前の呼吸をしていた。
白い通路を歩いていると、自分の息だけが妙に大きく聞こえる。
吸う。
吐く。
もう一度、吸う。
そのとき、前を歩く人のコートも、同じ間隔でわずかに動いていることに気づいた。
誰も意識していない。
それでも、いくつもの呼吸が地下の空気に混ざっている。
まだ電車の見えないホームへ、白い風が先に入ってきた。
髪が揺れる。コートが揺れる。誰かの紙袋が膝に触れる。
少し遅れて、暗闇の中に二つの光が現れた。
電車がホームへ滑り込む。
群れが一つになったのではない。
ただ一瞬、同じ風に迎えられていた。
電車に乗り、ドアの横に立つ。
窓に映る顔は、少しぼやけている。
トンネルの暗さのせいか。疲れているせいか。
それとも、人の輪郭は、もともとこの程度に曖昧なものなのかもしれない。
黒い壁が流れていく。
以前なら、その暗さに何かを急かされていた。
何かをつかまなければならない。何者かにならなければならない。
けれど今夜は、暗さの中にも空気があった。
前後に揺れ、ときどきぶつかり、少し離れる。
次の駅で降りる人のために、扉の前が少しずつ空いた。
窓の中で、鏡の牛がこちらを見ている。
目を閉じる。
それでも、窓の向こうから視線だけが残っているような気がした。
身体が、わずかに前へ傾いた。
窓の灯りはまだ同じ間隔で流れている。どこを曲がったのかは見えなかった。
そのあとで、列車が速度を落とし始めた。
身体の奥で、さっきの氷がほんの少し向きを変えた。




