【第一章 氷の音】第二話 甘さの底
女の子が、焼き菓子を一つつまむ。
「おいしい」
小さく笑う。
ゴルゴンゾーラの匂いが、蜂蜜と一緒に空気へほどける。
甘い。
その底に、塩気と、わずかな苦さがある。
地下街の匂いに似ている気がした。
乾いた空気。人の体温。仕事を終えた服の匂い。
どれか一つではなく、混ざったものが地下の夜を作っている。
「こういうの、好きなんですか」
「たまに」
「大人ですね」
笑った目の奥に、眠そうな影が浮かんでいる。
時計を見ると、もう日付が変わりそうだった。
地下を歩いていた時間と、ここで流れている時間は、粘り方が違う。
速いわけでも、遅いわけでもない。
水のように、触れるものの形に合わせている。
女の子がグラスを持ち上げる。氷が傾き、白い面を一度だけ光らせた。
店には音楽が流れている。隣の席では誰かが笑い、遠くでグラスが重なっている。
それらは空気の表面を通り過ぎていく。
氷の小さな動きだけが、なぜか身体に残った。
「疲れてます?」
「みんな疲れてると思う」
女の子も少し笑った。
「たしかに」
地下街を歩いていた人たちの顔が浮かぶ。
白いLED。紙袋を提げた人。スマホを見ながら歩く人。急ぐ人。立ち止まる人。
みんな少し疲れていた。
けれど、止まってはいなかった。
人が通り過ぎたあとにも、わずかな匂いと温度が残る。
次の人がそこを歩き、また別のものを置いていく。
地下は、それを一つずつ覚えているようだった。
女の子が、もう一つ焼き菓子をつまむ。
「これ、ちょっと変わった味ですね」
「青かびらしい」
「でも、嫌じゃないですね」
癖がある。甘さだけではない。少し苦くて、匂いが残る。
それでも、もう一度手が伸びる。
人も、そうなのかもしれない。
そう思ったところで、言葉にするのをやめた。
紙袋を閉じる。
それでも青い匂いは消えず、さっき誰かが座っていた椅子のあたりへ、ゆっくり流れていった。
もうそこには誰もいない。
けれど、空気だけは、その人を忘れていないように思えた。




