【第一章 氷の音】第一話 氷の音
地下にも、牧場があります。
前作『疲れた牛 ― 地下の牧場 ―』では、白い光の下を歩く一頭の牛が、草を食べ、水を飲み、少しずつ呼吸を取り戻していきました。
けれど、呼吸を取り戻したあとも、道は続きます。
今度は、その牛だけでなく、同じ場所を行き交う人たちの足音に耳を澄ませてみたいと思います。誰もが違う速さで歩き、違うものを抱えています。それでも、ときには誰かの小さな動きが、別の誰かの歩く向きを変えることがあります。
牧場も牛たちを包みながら、一緒に歩いていきます。
『地下の牧場』は、そんな牧場の物語です。
まずは、グラスの中で氷が触れる、小さな音から。
地下へ降りる。
東京駅の地下は、夜になると少し匂いが変わる。
昼間より、少し甘い。
バター。チーズ。焼き菓子。
最後の一段を下りたところで、通路の奥から風が来た。
地下鉄には、まだ遠い。
それでも白い風は、人の間をすり抜け、先に地下の夜を歩いていった。
風の端に、濡れた土のような冷たさがあった。地上では雨が降っているのかもしれない。けれど、ここから見える床はどこまでも乾いていた。
仕事帰りの人たちが、紙袋を提げて歩いている。天井は低く、白いLEDが均一に光っている。その白さが、地下を現実から少しだけ遠ざけていた。
人波を避けながら、店を探す。
ガラスケースには、小さな焼き菓子が並んでいる。丸いもの。細長いもの。バターの匂いが強いもの。青かびの匂いが、蜂蜜の甘さに混ざっているもの。
「こちら、ゴルゴンゾーラとはちみつです」
店員が笑う。
隣では、別の客が箱を選んでいた。
みんな、誰かのところへ持っていくのだろう。
紙袋を受け取る。まだ少し温かい。
店を出ると、閉じた袋の中から甘い匂いがこぼれ、白い風のあとを追った。
地下街をまた歩く。
白い光。乾いた空気。歩き疲れた人たち。
その景色が、ときどき巨大な牧場に見えることがある。
みんな、何かを探して歩いている。
けれど、何を探しているのか、自分でもよく分かっていない。
エレベーターに乗る。
鏡に、少し疲れた顔が映っている。
自分も、この牧場の一頭なのだろう。
店の扉が開く。
暗い照明。小さな笑い声。グラスの光。奥で音楽が流れている。
けれど、その音楽はほとんど耳に残らない。聞こえているはずなのに、身体へ入ってこない。
席に着くと、水が置かれた。
透明なグラス。白い氷。
女の子が笑う。
「お疲れさまです」
誰も触れていないグラスの中で、氷が内側に小さく触れた。
音は耳を通らず、身体の奥へ落ちてきた。
気づくと、呼吸が少し深くなっていた。
「今日は、甘い匂いがしますね」
女の子が、紙袋を見ている。
「地下で買ってきた」
袋を開くと、バターとチーズの匂いが広がった。
「これ、ブルーチーズですか」
「ゴルゴンゾーラらしい」
「すごいですね」
女の子が笑う。
その笑顔にも、少し疲れが混ざっていた。
草を食べさせる側の牛も、疲れた牛なのだと思った。
客も。ホステスも。地下を歩く人も。
みんな、少しずつ疲れている。
それでも、完全には壊れていない。
女の子が水を飲む。
氷が、音にならないほど小さく傾く。
張り詰めていた何かが、少しだけ水へ戻っていく。
さっきの白い風が、ここまで来たような気がした。




