語り部が黙った日(言霊の生命維持)
俺はかつて、この国で一番強い騎士だった。
竜を三匹斃した。
魔王の先兵を国境で食い止めた。
王都を救った夜は、街中が俺の名を叫んでいた。
だが、この世界には一つの理がある。
「語られなくなった者は、消える」
文字通りだ。
最初は影が薄くなる。
次に、声が届かなくなる。
そして最後に、肉体そのものが霧のように溶けて消える。
俺がそれに気づいたのは、引退して十五年が経った頃だった。
ある朝、井戸に映る自分の手が透けていた。
水面の揺らぎだと思った。
だが翌日、市場でパンを買おうとしたら、店主の目が俺を通り抜けた。
「すみません、黒パンを一つ」
返事はなかった。
俺の声が、届いていなかった。
そこでようやく悟った。
もう誰も、俺の名を口にしていないのだと。
戦争が終われば、英雄譚は古くなる。
酒場では新しい冒険者の武勇伝が語られ、吟遊詩人たちも流行りの恋歌を奏でている。
十五年前の騎士の名など、もう誰の舌にも乗らない。
俺は静かに消えかけていた。
そんなある日、村外れの丘で一人の老婆に出会った。
「おや。あんた、もしかしてレクス殿じゃないかい」
心臓が跳ねた。
いや、もう半分透けかけた体に心臓があるのかもわからなかったが、確かに何かが跳ねた。
「……俺が見えるのか」
「見えるも何も。あたしゃ四十年前、あんたが竜を斃した日にこの目で見てたんだよ。あの剣の一閃、忘れるもんかね」
老婆の名はマグダ。
若い頃、城壁の上から俺の戦いを見ていたのだという。
それから毎夕、マグダは丘の上で俺に話しかけた。
「今日は何の話をしてくれる? レクス殿」
俺は語った。
初めて竜と対峙した時、足が震えて動けなかったこと。
仲間の槍兵が俺の代わりに前に出て、片腕を失ったこと。
その男が後に、片腕のまま鍛冶師になって、俺の剣を鍛え直してくれたこと。
マグダは目を細めて聞いていた。
「いい話だねえ。あたしゃ明日、孫に話してやるよ」
マグダが俺の名を口にするたびに、手の輪郭が少しだけ戻った。
声が、ほんの少しだけ遠くまで届くようになった。
一人の老婆の記憶だけが、俺をこの世に繋ぎ止めていた。
だが、マグダの体も決して丈夫ではなかった。
ある日、丘に来たマグダの足取りがひどく重かった。
杖に体重の大半を預けて、息を切らしながら座り込んだ。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫さ。ちょっと足がね」
大丈夫ではなかった。
日を追うごとにマグダの顔色は悪くなり、やがて丘まで来られなくなった。
俺はマグダの家を訪ねた。
ベッドの上のマグダは、それでも俺を見て笑った。
「来てくれたのかい。あんたも律儀だねえ」
「……お前が語らなくなったら、俺は消える。それはわかってる。だが、無理はするな」
マグダは首を横に振った。
「馬鹿言いなさんな。あたしが話を止めたら、この国を守った騎士が消えちまうんだよ。そんな理不尽、あたしが生きてるうちは許さないよ」
その夜、マグダは孫娘のリーナを枕元に呼んだ。
「リーナ、よくお聞き。この国にはね、レクスっていう騎士がいたんだよ。竜を三匹斃して、魔王の兵を追い返して、あたしたちの街を守ってくれた人だ。あたしが死んだら、この話をお前が覚えておいておくれ」
リーナは不思議そうな顔で頷いた。
まだ十にもなっていない少女だった。
三日後の朝、マグダは静かに息を引き取った。
俺の体は一気に透けた。
足先は完全に消えていた。
これで終わりか。
そう思った。
だが翌日、丘の上に小さな人影が現れた。
リーナだった。
少女は誰もいないはずの丘に向かって、たどたどしく語り始めた。
「えっと……レクスっていう騎士様がいてね。竜を……三匹、たおしたんだって。おばあちゃんが言ってた」
声は小さかった。
言葉も拙かった。
だが、消えかけた俺の指先が、ほんのわずかに実体を取り戻した。
リーナはそれから毎日、丘に来た。
日を追うごとに語りは上手くなり、やがてリーナには俺の姿がうっすら見えるようになった。
直接話ができるようになってからは、俺の口から新しい話を聞いて、それを街の子どもたちに語り聞かせるようになった。
「騎士様、今日はどんなお話を聞かせてくれますか?」
俺は語った。
もう、自分のために語っているのではなかった。
この子が生きていく世界に、何か一つでも残せるものがあるなら。
そう思って語った。
ある日、リーナが聞いた。
「ねえ騎士様。もし誰もあなたの話をしなくなったら、怖い?」
俺は少し考えて、答えた。
「怖くはない。だが寂しいだろうな。俺が消えることよりも、俺がここにいたことを誰も知らない世界ってのは……、少し冷たい気がする」
「じゃあ、私がずっと話すよ。おばあちゃんの分も。騎士様が寂しくないように」
そして、俺は今も、かろうじてここにいる。
あの丘の上で、少女の声を聞きながら。




