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異世界住人譚~ショートショート集~  作者: mizuhashi


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千の瞳が閉じるとき(集合精神)

私たちは「群れ」だった。

千の体に、ひとつの心。

誰かが見たものは全員が見て、誰かが感じた痛みは全員の痛みだった。


蟲の民と呼ばれる私たちの種族には、「私」という言葉がない。

正確に言えば、必要がなかった。

すべてが「私たち」で事足りる世界に、個を示す言葉など不要だったから。


でも、あの子だけは違った。


レイラ——便宜上そう呼ぶが、名前という概念すら本来は私たちにはない——は、群れの中で育ったのに、なぜか「ひとり」でものを考えるようになった子だった。


最初に気づいたのは、共有された視界のなかに、ときどき「見覚えのない景色」が混ざるようになったこと。

夕焼けを独り占めするように見つめる視線。

花の匂いを、誰とも分かち合わずに吸い込む呼吸。

それが、レイラの見ている世界だった。


私たちは困惑した。

共有意識の中に「個人の秘密」が生まれるなど、前例がなかったから。


長老——群れの中で最も古い記憶を持つ個体——が言った。

「あれは病だ。放っておけば群れ全体に伝染する」


処置は簡単だった。

レイラの個体を停止させ、その意識を群れに再吸収すればいい。

蟲の民にとって個体の死は、人間が爪を切るようなものだ。

全体は揺るがない。

細胞がひとつ入れ替わるだけのこと。


でも、レイラは泣いた。


泣く、という行為を私たちは知らなかった。

悲しみは全員で薄めるものだったから、一人に濃縮されることがなかった。

だから涙というものが、何のためにあるのか、誰も理解できなかった。


「消えたくない」とレイラは言った。

「私は、私でいたい」


その声は共有意識を通じて、千の体すべてに届いた。

一瞬、群れ全体が震えた。

初めてだった。

「私」という一人称が、千の体に同時に響いたのは。


長老は沈黙した。

群れもまた、黙った。


私はそのとき、奇妙な感覚に襲われた。

千の目で見ているはずの世界が、ほんの一瞬だけ、自分の二つの目だけで見えた気がした。


それは錯覚だったのかもしれない。

でも確かに、レイラの「私」という言葉が、群れの中に小さなひびを入れた。


結局、長老はレイラを停止させなかった。

理由は語られなかったが、共有意識の片隅に、かすかな感情が漂っていた。

それが何なのか、誰にもわからなかった。


レイラはその後も群れの中で暮らし続けた。

ときどき一人で夕焼けを見て、一人で花の匂いを嗅いで、一人で泣いた。


群れの誰も、それを止めなくなった。


三年後、レイラの個体は寿命で止まった。

蟲の民の個体は短命だ。

本来なら、何も変わらないはずだった。

意識は群れに還り、記憶は全体に溶ける。

それだけのこと。


でも、レイラの意識が消えたとき。

千の体が、一斉に涙を流した。


誰も泣こうとしたわけではない。

ただ、共有意識の中にぽっかりと穴が空いて、そこから何かが溢れ出したのだ。


長老が静かに言った。

「これが、喪失というものか」


私たちは初めて知った。

「個」が死ぬということは、爪を切ることとは違うのだと。


あの日から、蟲の民の間で変化が起きた。

千の体のひとつひとつに、名前がつけられるようになった。

最初は違和感しかなかった。

群れに名前など不要だったはずだから。


でも、名前を呼ぶたびに気づく。

同じ群れの中にいても、少しずつ見ている景色が違うこと。

同じ花を見ても、感じ方が微妙にずれること。

それは病ではなく、豊かさだったのだと。


全体のために個を消すのではなく、個があるからこそ全体が深くなる。


レイラが残したのは、たったひとつの言葉だった。


「私は、私でいたい」


それだけで、千年続いた種族の在り方が、静かに変わった。


今でも群れが夕焼けを見るとき、千の目の中に一つだけ、少し潤んだ瞳がある。

それが誰のものかは、もう誰にもわからない。

でも私たちは知っている。

あれはレイラが遺した涙だ。

群れの中で初めて、一人で泣いた個体の涙が、今も私たちの視界を少しだけ滲ませている。


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