利息は笑顔で(借り物の命)
死にかけた夜、悪魔が現れた。
「命を貸してやろうか」
声は穏やかで、まるで隣人が傘を差し出すような気軽さだった。
十二歳の俺は、迷わず頷いた。
死ぬのが怖かったから。
「ただし、利息がある」
悪魔は微笑んだ。
「毎日、誰かひとりの『一番幸せな記憶』を俺に届けてもらう」
当時の俺には、その意味がよくわからなかった。
記憶をひとつ届けるだけ。
簡単なことだと思った。
最初の利息は、隣の家のおばあさんから取った。
触れるだけでいい。
手を握った瞬間、おばあさんの中から、金色の糸のようなものがするりと抜けた。
それは、亡くなった旦那さんとの結婚式の記憶だった。
おばあさんは翌日から、居間に飾ってあった写真を見ても、何も感じなくなった。
「この人、誰だったかしら」と首を傾げるようになった。
一日一人。
触れて、奪って、届ける。
パン屋の主人からは、初めて焼いたパンを父に褒められた記憶を。
幼い女の子からは、雪の日に母親と作った雪だるまの記憶を。
老兵士からは、戦場から生きて帰った日に恋人が流した涙の記憶を。
奪われた人たちは、何を失ったのか気づかない。
ただ、少しだけ目の光が薄くなる。
笑い方が、ほんの少し浅くなる。
誰も俺を恨まない。
それが一番つらかった。
三年が経った。
俺は十五歳になっていた。
街の人たちは、みんな少しずつ幸せを失っていた。
以前は笑い声が絶えなかった市場が、今はどこか静かだった。
子どもたちの遊ぶ声が減った。
夫婦の会話が短くなった。
原因を知っているのは、俺だけだった。
ある日、酒場でひとりの老人に出会った。
老人は俺の右手をじっと見て、顔色を変えた。
「お前、命を借りているな」
驚いた。
この世界で、悪魔との契約を見抜ける人間は滅多にいない。
老人はかつて魔導師だったと言った。
「俺も昔、同じ契約をした」
「どうやって返済したんですか」
「していない」
老人は酒を飲み干した。
「六十年、払い続けた。この街じゃない、もっと遠くの街でな。あの街は今、誰も笑わない場所になった」
俺は黙った。
「だから逃げてきた。……借り物の命で生きるというのは、結局、誰かの人生を薄めながら生きるということだ」
老人の目には、何の光もなかった。
六十年分の他人の幸福を奪い続けた目だった。
その夜、俺は部屋で天井を見つめていた。
このまま六十年払い続けたら、この街も笑わない街になる。
俺が別の街に逃げても、同じことが繰り返されるだけだ。
翌朝、俺は悪魔を呼んだ。
「契約を終わりにしたい」
悪魔は首を傾げた。
「命を返すのか。つまり、死ぬということだが」
「その前にひとつ、聞きたい」
「なんだ」
「俺が奪った記憶は、返せるのか」
悪魔は少し間を置いて、答えた。
「お前が死ねば、溜まった利息は全て元の持ち主に戻る。契約が消えれば、奪ったものも消える」
俺は笑った。
三年ぶりに、心の底から笑った気がした。
翌朝、俺は最後に街を歩いた。
いつもの市場。
いつものパン屋。
路地裏で遊ぶ子どもたち。
全部、目に焼き付けた。
パン屋の前を通ったとき、主人が声をかけてきた。
「にいちゃん、今日も元気ないな。ほら、焼きたてだ。持ってけ」
温かいパンを受け取った。
この人から俺は、父親に褒められた記憶を奪った。
それなのに、こうして俺にパンをくれる。
ありがとう、と言おうとして、声が詰まった。
代わりに深く頭を下げて、その場を離れた。
街外れの丘で、悪魔に命を返した。
体から力が抜けていく感覚は、思ったほど苦しくなかった。
むしろ、三年間ずっと胸の奥にあった重石が、するりと消えていくような安堵があった。
その日の夕方。
隣の家のおばあさんが、突然、居間の写真を見て泣き出した。
「ああ、思い出した。あの人よ。あの人と結婚した日のこと」
パン屋の主人が、急に手を止めて天井を見上げた。
「なんだろう。急に親父のこと思い出した。あの日、初めて焼いたパンを食って、『うまい』って言ってくれたんだよな」
街のあちこちで、人々が忘れていた幸せを思い出していた。
笑い声が、少しずつ戻っていた。
子どもたちが走り回る声が、市場に響いていた。
俺のことは、誰も覚えていない。
借り物の命には、記憶に残る資格がないから。
でも、それでいい。
三年分の利息は、全部返した。
帳簿の上では、俺の人生はゼロだ。
何も残していない。
何も成し遂げていない。
でも、街が笑っている。
あの温かいパンの味だけは、最後まで覚えていた。
それだけで、借りた命の意味はあったと、そう思えた。




