千の瞳で見た景色(群体としての命)
私は三千二百匹でできている。
正確には、今朝の時点で三千二百十四匹。
昨夜、七匹が寿命で落ちて、朝までに新しく九匹が孵った。
だから差し引き二匹の増加。
それが私という存在の日常だ。
一匹一匹は、指の先ほどの小さな蟲だ。
薄い羽と、六本の脚と、針の先ほどの目を持っている。
それが数千匹集まると、人の形になれる。
少女の輪郭を作って、服のように色を変えて、二本の脚で歩くこともできる。
でもよく見れば分かる。
肌の表面が微かにざわめいていること。
瞬きの代わりに、顔面の蟲が一斉に羽を畳むこと。
声を出す時、喉の位置にいる百匹ほどが羽を震わせて音を合成していること。
気味が悪いと言われる。
当然だと思う。
私だって、鏡を見るたびに不思議な気持ちになる。
これが「私」なのか、と。
街の人間たちは私を避ける。
市場に行くと、露店の主人が品物を引っ込める。
子供たちは石を投げてくる。
当たると数匹が弾けて落ちる。
痛みはない。
でも、落ちた仲間が地面でもがいているのを見ると、胸のあたりの蟲が騒ぐ。
悲しい、に近い何かだと思う。
私には名前がなかった。
街の人間は「蟲の塊」と呼んだ。
あるいは「あれ」。
個体名は必要ないとされていた。
だって私は一匹じゃない。
三千匹の集合体だ。
名前をつけるなら三千個いるだろう、と笑われた。
ある冬の日、森の外れで薬草を集めていた時のことだ。
雪に足を取られた老人が、崖の手前で転んでいた。
腰を打ったらしく、起き上がれないでいる。
このまま放置すれば凍死する。
私は近づいた。
老人は最初、目を見開いた。
蟲の集合体が人の形をして歩いてくるのだから、当然だ。
でも老人は叫ばなかった。
「手を、貸してくれるのか」とだけ言った。
私は頷いた。
腕の形をした部分を差し出して、老人の体を支えた。
蟲たちが密度を上げて硬くなり、人間の腕と同じくらいの強度を作る。
老人は重かった。
何匹かが圧力で潰れた。
でも残りが補填して、形を保った。
老人を近くの小屋まで運んだ。
暖炉に火を入れて、毛布をかけた。
指の代わりに蟲の脚で薪を組むのは少し手間取ったけれど、何とかなった。
老人は暖炉の火を見ながら言った。
「名前は何という」
私は首を横に振った。
「ない。私は群体だから。名前をつける対象がいない」
老人は少し考えてから、穏やかに笑った。
「今、わしを助けてくれたのは誰だ」
「私」
「だったら、お前は一人だろう。三千匹いようが一万匹いようが、わしを助けようと決めたのは一つの意思だ」
それは、考えたことのない言い方だった。
確かに、崖の前で転んでいる老人を見た時、三千匹が個別に判断したわけじゃない。
私が、助けようと思った。
一つの意思として。
「シィラ、というのはどうだ」
老人が唐突に言った。
「昔飼っていた猫の名前だ。穏やかで、賢くて、いつもそっとそばにいた。お前に似ている」
シィラ。
私の中の三千匹が、一斉にざわめいた。
羽が震える。
体表が波打つ。
喉元の蟲たちが勝手に音を合成し始めた。
「シィラ」
自分の名前を、自分の声で言った。
初めてのことだった。
その日から、私は老人の小屋に通うようになった。
薬草を届け、薪を割り、時々一緒に暖炉の前に座った。
老人は私を「シィラ」と呼んだ。
毎回、その名前を聞くたびに、体中の蟲が少しだけ温かくなる気がした。
ある日、老人に聞いてみた。
「怖くないのですか? 私の正体を知っていて」
老人は肩をすくめた。
「人間だって、細胞が何兆個も集まってできてる。シィラとそう変わらん。ただ、シィラの方が入れ替わりが見えやすいだけだ」
なるほど、と思った。
人間も、数年で体の細胞がほぼ全部入れ替わるらしい。
でも名前は変わらない。
自分は自分のままだと信じている。
私も同じだ。
毎日何匹か入れ替わっても、シィラはシィラだ。
春が来た頃、老人が静かに息を引き取った。
眠るようだった。
私は最後まで傍にいた。
三千匹全部で、老人の手を包んだ。
小さな蟲の体温では足りなかったかもしれない。
でも、そうしたかった。
今も私は、あの小屋の近くに住んでいる。
街に行けば、相変わらず避けられる。
石を投げる子供もいる。
でも、もう平気だ。
私には名前がある。
一人の老人がくれた、たった一つの名前がある。
三千匹でも一万匹でも、私はシィラだ。
千の瞳で見た景色の中で、一番美しかったのは、あの暖炉の前で老人が笑った顔だった。




