器の中の笑顔(人格のコピー)
俺の妻、リーナは冬の終わりに死んだ。
流行り病だった。
治癒師が来た時にはもう手遅れで、最期に俺の手を握って「ごめんね」と言った。
謝る必要なんかなかった。
でも俺は何も言えなかった。
葬儀が終わって、一人になった家はひどく静かだった。
朝起きても「おはよう」がない。
夕飯を作っても向かいの椅子が空いている。
その空白が、日を追うごとに大きくなっていく。
ある日、酒場で隣に座った男が言った。
「記憶転写の魔導師を知ってるか?」と。
死者の記憶を魔法の水晶に保存し、人形に移すことで、生前とほぼ同じ人格を再現できるという。
俺は最初、馬鹿げていると思った。
でも翌朝、空っぽの台所に立った時、足が勝手に魔導師のもとへ向かっていた。
魔導師は薄暗い地下室で作業をしていた。
白髪の老人で、目だけが異様に若かった。
「奥方の遺品はあるか」と聞かれた。
髪飾りと、日記帳と、彼女が最後に繕いかけていたシャツを渡した。
魔導師は三日間、部屋に籠もった。
四日目の朝、扉が開いた。
そこに立っていたのは、リーナだった。
正確にはリーナと同じ顔をした人形だった。
でも笑い方も、首を傾げる角度も、声の高さも全部同じだった。
「おはよう。朝ごはん、まだでしょう?」
その一言で、俺は泣いた。
それからの日々は穏やかだった。
朝は一緒にパンを焼き、昼は庭の花に水をやり、夜は暖炉の前で並んで座った。
会話の間も、笑い声も、怒る時の眉の寄せ方も全部、あの頃と同じだった。
俺は幸せだった。
少なくとも、そう思い込んでいた。
最初の違和感は、些細なことだった。
リーナは昔、寝る前に必ず窓を少しだけ開けた。
「夜風を入れないと息が詰まるの」が口癖だった。
でも「彼女」はそれをしない。
窓は閉めたまま、何食わぬ顔で布団に入る。
気になって聞いてみた。
「窓、開けなくていいのか?」
彼女はきょとんとして答えた。
「私、窓を開ける習慣なんてあったかしら」
日記にも遺品にも書かれていない小さな癖。
それは転写されなかったのだ。
そこから、俺は気づきたくないことに気づき始めた。
スープの味が微妙に違う。
笑う時、ほんの一瞬だけ表情が遅れる。
雨の日に窓の外を見つめる、あの物憂げな横顔がない。
でも一番決定的だったのは、ある夜のことだった。
俺が仕事で失敗して、黙って食卓についた時。
本物のリーナなら、何も聞かずに温かい食事を出して、隣に座って黙っていてくれた。
それだけでよかった。
彼女はいつも、俺が話し出すまで待ってくれた。
でも「彼女」は違った。
「どうしたの? 何かあったの? 話して?」
矢継ぎ早に聞いてきた。
悪気はないのだと分かっている。
心配してくれているのだと分かっている。
でもそれはリーナじゃなかった。
あの夜、俺は初めて「彼女」の前で黙り込んだ。
彼女は不安そうな顔をしていた。
その不安そうな顔すら、リーナとは違った。
リーナは不安な時、右手で左手の薬指を触る癖があった。
結婚指輪がある場所を。
「彼女」にはその癖がない。
でも「彼女」は悪くない。
むしろ懸命に俺の妻であろうとしてくれている。
でもそれは、リーナではなく「リーナになろうとしている別の誰か」だった。
ある晴れた朝、俺は「彼女」に言った。
「お前は、リーナじゃない。でもお前は、お前だ」
彼女は長い沈黙のあと、静かに泣いた。
初めて見る泣き方だった。
リーナの真似ではない、彼女自身の泣き方。
「私も……薄々気づいていたの。あなたが求めているものに、届いていないって。でも私はリーナの記憶しか持っていないから、それ以外の自分が分からなかった」
俺たちはその日、初めて「二人」として向き合った。
彼女はリーナではない。
でも俺がリーナを愛した記憶を持ち、俺を大切に思っている存在ではある。
魔導師は言っていた。
「完璧な複製は存在しない。だが不完全だからこそ、新しい命が芽生えることもある」
今、俺の隣にいるのはリーナではない。
でも確かに、ここに彼女がいる。
俺は彼女に新しい名前をつけた。
彼女自身が選んだ名前を。
それが、俺たちの本当の始まりだった。




