日曜市の花売りは、いつも同じ花を売っている(幽霊の街)
行商人として各地を回って二十年になる。
どんな辺境の村でも、人の暮らしがある場所には独特の匂いがある。
煮込み料理の湯気とか、家畜の体温とか、子どもの笑い声とか。
あの街に着いたのは、秋の終わりだった。
地図にない街だった。
古い石畳の道が美しく、建物の白壁には一つの汚れもなかった。
不思議だと思った。
でも、人が暮らしている気配は確かにあった。
パン屋からは焼きたての香りがして、広場では子どもたちが走り回っていた。
宿屋の女将に声をかけた。
「一晩泊めてもらえますか」
「ええ、どうぞ。旅の方は珍しいわ」
部屋は清潔で、ベッドの白いシーツには皺ひとつなかった。
窓から見える通りでは、住人たちが穏やかに行き交っていた。
笑い声、挨拶、荷車の音。
何もかもが、完璧だった。
翌朝、日曜市が開かれていた。
広場に露店が並び、花売りの娘が白い花を束にして売っていた。
「きれいな花ですね。何という名前ですか」
「月草よ。この街の庭にだけ咲くの」
私はその花を一束買って、宿屋の窓辺に飾った。
三日目の朝、違和感に気がついた。
花売りの娘が、また同じ白い花を同じ量だけ売っていた。
パン屋は同じ形のパンを焼いていた。
子どもたちは、昨日とまったく同じ場所で、同じ遊びをしていた。
気のせいだと思った。
でも、四日目も五日目も同じだった。
宿屋の女将に聞いた。
「この街は、いつ頃からあるんですか」
女将は少し首をかしげて、微笑んだ。
「さあ……ずっと前からよ。ずっと前から」
その夜、私は宿の裏手にある古い井戸を覗き込んだ。
水面に映ったのは、私の顔だけだった。
街の建物が、一つも映っていなかった。
背筋が凍った。
翌朝、街の外れにある小さな墓地を見つけた。
苔に覆われた墓碑には、三百年前の日付が刻まれていた。
そして墓碑の数は、この街の住人の数とぴったり一致していた。
私は走って宿屋に戻った。
女将は変わらず微笑んでいた。
「お帰りなさい。お夕食はシチューでいいかしら」
「あなたたちは……もう死んでいるんですか」
女将の手が止まった。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女の顔に困惑が浮かんだ。
でもすぐに、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「何のことかしら。さあ、今日もいい天気ね」
私は荷物をまとめた。
街を出なければと思った。
でも門に向かう途中、花売りの娘とすれ違った。
「あら、もう行くの?」
「ああ。次の街に向かわなくちゃ」
「そう……寂しいわ。でもまた来てね」
彼女の目は、本当に寂しそうだった。
生きている人間と、何も変わらない感情がそこにあった。
街を出て振り返ると、石畳の道も白い壁も、まだそこにあった。
でも、よく見ると建物の輪郭がわずかに揺らいでいた。
陽炎のように、儚く。
三百年前、何があったのかは分からない。
疫病か、戦争か、それとも何か別の災いか。
ただ一つ分かることがある。
あの人たちは、死んでいることに気づいていない。
気づいていないから、毎日を穏やかに過ごしている。
日曜市で花を売り、パンを焼き、子どもたちは遊ぶ。
それは幸福なのか、それとも残酷なのか。
私には答えが出なかった。
半年後、もう一度あの場所を通った。
地図にない道を辿って、同じ丘を越えた。
でも、そこには何もなかった。
ただ草原が広がっているだけだった。
足元に、白い花が一輪だけ咲いていた。
月草だった。
あの街は、私が真実を口にした瞬間に、終わったのかもしれない。
知らないままでいることが、彼らにとっての命だったのかもしれない。
今でも、月草を見かけると足が止まる。
あの花売りの娘の、寂しそうな目を思い出す。
「また来てね」という声が、まだ耳に残っている。




