表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界住人譚~ショートショート集~  作者: mizuhashi


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/79

笑顔を食べて泣いた精霊(感情を糧にする命)

私は「喰感霊」と呼ばれる精霊だ。

人間の感情を糧にして生きている。

喜び、怒り、悲しみ、恐怖。

どんな感情でも、私たちにとっては食事になる。


ただし、味が違う。

喜びは甘い。

怒りは辛い。

悲しみは苦い。

恐怖は酸っぱい。


私たちの種族は、人間の目には見えない。

だから人間の傍に寄り添い、溢れ出る感情をそっと吸い取る。

人間が気づくことはない。

感情は減っても、すぐにまた湧いてくるものだから。


私は百年以上、さまざまな人間の感情を食べてきた。

戦場で兵士たちの恐怖を吸ったこともある。

祭りの夜に街じゅうの歓喜を浴びたこともある。

葬儀の場で、深い悲嘆をひとすくい味わったこともある。


どれも美味かった。

感情に貴賤はない。

どんな感情も、私たちにとっては等しく命を繋ぐ糧だった。


そう思っていた。

あの少年に出会うまでは。


少年の名はリュカといった。

王都の外れにある孤児院で暮らす、十歳くらいの男の子だ。

私がリュカのそばに居着いたのは、たまたまだった。


孤児院の近くを通りかかったとき、強烈な甘い匂いがした。

喜びの感情だ。

それも、とびきり純度の高いやつ。


匂いを辿っていくと、中庭でリュカが年下の子どもたちと遊んでいた。

鬼ごっこをしているだけだった。

それなのに、リュカの笑顔からは、今まで嗅いだことのないほど澄んだ喜びが溢れていた。


私は思わず近づいて、その喜びをひと口吸った。


甘かった。

ただ甘いだけじゃなかった。

奥のほうに、かすかな苦みがあった。

悲しみの味だ。


おかしい。

笑っているのに、悲しみが混じっている。


気になって、私はリュカのそばに留まることにした。


数日間、リュカを観察してわかったことがある。

リュカは常に笑っていた。

朝起きてから夜眠るまで、ほとんど笑顔を絶やさなかった。

年下の子どもたちの面倒を見るとき。

孤児院の修道女に叱られたとき。

食事の量が少なくて、自分の分を小さい子に分けたとき。

どんなときも、リュカは笑っていた。


でも夜、みんなが寝静まった後だけは違った。


リュカは毛布の中で、声を殺して泣いていた。

その悲しみの濃さは、戦場で見た兵士たちの恐怖に匹敵した。


私は毛布の隙間から漏れ出る悲しみを、少しだけ吸った。

苦かった。

あまりにも苦くて、思わず吐き出しそうになった。


リュカの笑顔に混じっていた苦みの正体がわかった。

この子は、昼間ずっと自分の悲しみを押し込めて笑っていたのだ。

溜まりに溜まった悲しみが、夜になると決壊する。

その繰り返しだった。


ある日、孤児院に商人の夫婦がやってきた。

養子を迎えたいという話だった。

修道女がリュカを紹介した。


「この子はとても明るくて、面倒見がいいんですよ」


リュカはいつものように笑って、丁寧に挨拶をした。

商人の夫婦は好印象を持ったようだった。


でも私には見えていた。

リュカの笑顔の裏で、悲しみが激しく渦を巻いているのを。


養子に行けば、この孤児院の子どもたちと離れることになる。

リュカにとって、ここの子どもたちは家族だった。

離れたくないに決まっている。


でもリュカは笑った。

「行きたいです」と答えた。

なぜなら、リュカが抜ければ孤児院の食事が一人分増えるからだ。


その夜もリュカは泣いた。

いつもより長く、いつもより深く。


私はその悲しみを吸おうとした。

少しでも楽にしてやりたかった。

人間の感情を食べるのは、私たちにとっては本能だ。

そこに善意も悪意もない。

ただの食事だ。


でも、吸えなかった。


口をつけた瞬間、体が拒んだ。

この悲しみを奪ってはいけないと、本能とは別の何かが叫んだ。


私は百年以上生きてきて、初めて食事を拒否した。

理由がわからなかった。

ただ、リュカの悲しみは食べ物じゃないと思った。

これはこの子が必死に生きてきた証だと思った。

奪ったらいけないものだと思った。


翌日、商人の夫婦が迎えに来た。

リュカは小さな荷物をひとつ抱えて、中庭に立っていた。

年下の子どもたちが泣きながらリュカにしがみついていた。


リュカは泣かなかった。

いつものように笑って、一人ひとりの頭を撫でた。


「大丈夫だよ。おれがいなくても、みんなは強いから」


そのとき、リュカの体から溢れ出た感情を、私は生涯忘れないだろう。


喜びでも、悲しみでも、怒りでも、恐怖でもなかった。

甘くも苦くも辛くも酸っぱくもなかった。


名前のない感情だった。

誰かのために自分を差し出すとき、人間の心の底から湧き上がる、透明な何か。


私はそれを食べようとも思わなかった。

ただ、その場に立っていた。


リュカが馬車に乗り込むとき、ふと中庭を振り返った。

私は精霊だから、人間の目には映らない。


でもリュカは、私がいる方向をじっと見た。

そして小さく笑って、こう呟いた。


「ありがとう。ずっとそばにいてくれたの、なんとなくわかってたよ」


馬車が走り去った後、私は中庭にひとり残された。


百年以上、私は感情を食べて生きてきた。

感情は糧だった。

命を繋ぐための、ただの燃料だった。


でもリュカが教えてくれた。

感情は食べ物なんかじゃない。

あれは、人間が人間として生きた痕跡だ。

笑顔の裏にある涙も、涙の裏にある強さも、全部ひっくるめてその人の命そのものだ。


私はあの日から、感情の食べ方が変わった。

以前のように手当たり次第に吸い取ることをやめた。

人間のそばに寄り添い、溢れすぎて苦しそうな感情だけを、そっと軽くしてやるようになった。


食事の量は減った。

体は少し痩せた。

同族からは「おかしくなった」と言われた。


でも構わない。


あの少年の透明な感情を見た日から、私はただの喰感霊ではなくなった。

私は今、人間の感情を食べて生きている精霊ではなく、人間の感情を守って生きている精霊だ。


それが正しいのかはわからない。

でも、リュカの最後の笑顔を思い出すたび、胸のあたりが温かくなる。

この温かさは、どんな感情を食べても得られなかったものだ。


精霊には心がないと言われている。

でも私は思う。

心がないなら、この温かさは何なのだろう、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ