笑顔を食べて泣いた精霊(感情を糧にする命)
私は「喰感霊」と呼ばれる精霊だ。
人間の感情を糧にして生きている。
喜び、怒り、悲しみ、恐怖。
どんな感情でも、私たちにとっては食事になる。
ただし、味が違う。
喜びは甘い。
怒りは辛い。
悲しみは苦い。
恐怖は酸っぱい。
私たちの種族は、人間の目には見えない。
だから人間の傍に寄り添い、溢れ出る感情をそっと吸い取る。
人間が気づくことはない。
感情は減っても、すぐにまた湧いてくるものだから。
私は百年以上、さまざまな人間の感情を食べてきた。
戦場で兵士たちの恐怖を吸ったこともある。
祭りの夜に街じゅうの歓喜を浴びたこともある。
葬儀の場で、深い悲嘆をひとすくい味わったこともある。
どれも美味かった。
感情に貴賤はない。
どんな感情も、私たちにとっては等しく命を繋ぐ糧だった。
そう思っていた。
あの少年に出会うまでは。
少年の名はリュカといった。
王都の外れにある孤児院で暮らす、十歳くらいの男の子だ。
私がリュカのそばに居着いたのは、たまたまだった。
孤児院の近くを通りかかったとき、強烈な甘い匂いがした。
喜びの感情だ。
それも、とびきり純度の高いやつ。
匂いを辿っていくと、中庭でリュカが年下の子どもたちと遊んでいた。
鬼ごっこをしているだけだった。
それなのに、リュカの笑顔からは、今まで嗅いだことのないほど澄んだ喜びが溢れていた。
私は思わず近づいて、その喜びをひと口吸った。
甘かった。
ただ甘いだけじゃなかった。
奥のほうに、かすかな苦みがあった。
悲しみの味だ。
おかしい。
笑っているのに、悲しみが混じっている。
気になって、私はリュカのそばに留まることにした。
数日間、リュカを観察してわかったことがある。
リュカは常に笑っていた。
朝起きてから夜眠るまで、ほとんど笑顔を絶やさなかった。
年下の子どもたちの面倒を見るとき。
孤児院の修道女に叱られたとき。
食事の量が少なくて、自分の分を小さい子に分けたとき。
どんなときも、リュカは笑っていた。
でも夜、みんなが寝静まった後だけは違った。
リュカは毛布の中で、声を殺して泣いていた。
その悲しみの濃さは、戦場で見た兵士たちの恐怖に匹敵した。
私は毛布の隙間から漏れ出る悲しみを、少しだけ吸った。
苦かった。
あまりにも苦くて、思わず吐き出しそうになった。
リュカの笑顔に混じっていた苦みの正体がわかった。
この子は、昼間ずっと自分の悲しみを押し込めて笑っていたのだ。
溜まりに溜まった悲しみが、夜になると決壊する。
その繰り返しだった。
ある日、孤児院に商人の夫婦がやってきた。
養子を迎えたいという話だった。
修道女がリュカを紹介した。
「この子はとても明るくて、面倒見がいいんですよ」
リュカはいつものように笑って、丁寧に挨拶をした。
商人の夫婦は好印象を持ったようだった。
でも私には見えていた。
リュカの笑顔の裏で、悲しみが激しく渦を巻いているのを。
養子に行けば、この孤児院の子どもたちと離れることになる。
リュカにとって、ここの子どもたちは家族だった。
離れたくないに決まっている。
でもリュカは笑った。
「行きたいです」と答えた。
なぜなら、リュカが抜ければ孤児院の食事が一人分増えるからだ。
その夜もリュカは泣いた。
いつもより長く、いつもより深く。
私はその悲しみを吸おうとした。
少しでも楽にしてやりたかった。
人間の感情を食べるのは、私たちにとっては本能だ。
そこに善意も悪意もない。
ただの食事だ。
でも、吸えなかった。
口をつけた瞬間、体が拒んだ。
この悲しみを奪ってはいけないと、本能とは別の何かが叫んだ。
私は百年以上生きてきて、初めて食事を拒否した。
理由がわからなかった。
ただ、リュカの悲しみは食べ物じゃないと思った。
これはこの子が必死に生きてきた証だと思った。
奪ったらいけないものだと思った。
翌日、商人の夫婦が迎えに来た。
リュカは小さな荷物をひとつ抱えて、中庭に立っていた。
年下の子どもたちが泣きながらリュカにしがみついていた。
リュカは泣かなかった。
いつものように笑って、一人ひとりの頭を撫でた。
「大丈夫だよ。おれがいなくても、みんなは強いから」
そのとき、リュカの体から溢れ出た感情を、私は生涯忘れないだろう。
喜びでも、悲しみでも、怒りでも、恐怖でもなかった。
甘くも苦くも辛くも酸っぱくもなかった。
名前のない感情だった。
誰かのために自分を差し出すとき、人間の心の底から湧き上がる、透明な何か。
私はそれを食べようとも思わなかった。
ただ、その場に立っていた。
リュカが馬車に乗り込むとき、ふと中庭を振り返った。
私は精霊だから、人間の目には映らない。
でもリュカは、私がいる方向をじっと見た。
そして小さく笑って、こう呟いた。
「ありがとう。ずっとそばにいてくれたの、なんとなくわかってたよ」
馬車が走り去った後、私は中庭にひとり残された。
百年以上、私は感情を食べて生きてきた。
感情は糧だった。
命を繋ぐための、ただの燃料だった。
でもリュカが教えてくれた。
感情は食べ物なんかじゃない。
あれは、人間が人間として生きた痕跡だ。
笑顔の裏にある涙も、涙の裏にある強さも、全部ひっくるめてその人の命そのものだ。
私はあの日から、感情の食べ方が変わった。
以前のように手当たり次第に吸い取ることをやめた。
人間のそばに寄り添い、溢れすぎて苦しそうな感情だけを、そっと軽くしてやるようになった。
食事の量は減った。
体は少し痩せた。
同族からは「おかしくなった」と言われた。
でも構わない。
あの少年の透明な感情を見た日から、私はただの喰感霊ではなくなった。
私は今、人間の感情を食べて生きている精霊ではなく、人間の感情を守って生きている精霊だ。
それが正しいのかはわからない。
でも、リュカの最後の笑顔を思い出すたび、胸のあたりが温かくなる。
この温かさは、どんな感情を食べても得られなかったものだ。
精霊には心がないと言われている。
でも私は思う。
心がないなら、この温かさは何なのだろう、と。




