最後の空路(空飛ぶ船)
俺が初めて空を飛んだのは、十二の春だった。
親父が操る飛空艇の甲板に立って、雲の切れ間から大地を見下ろした。
あのとき感じた風の冷たさと、胸の奥の震えは、三十年経った今でもはっきり覚えている。
飛空艇というのは、この世界ではそれなりに歴史のある乗り物だ。
船体の底に埋め込まれた風石が浮力を生み、帆に魔力を通すことで推進力を得る。
地上の馬車では何日もかかる距離を、半日で飛び越えることができる。
だが、時代は変わった。
王都の魔導院が、転移門という新しい技術を完成させたのだ。
魔法陣を踏むだけで、一瞬で別の都市に移動できる。
速くて、安全で、天候にも左右されない。
飛空艇の需要は、あっという間に消えていった。
航路は次々と廃止された。
大手の飛空艇会社は軒並み潰れ、船は解体されて風石だけが回収された。
俺が所属する小さな運送組合も、残っている航路はあと一本だけになっていた。
王都と辺境の港町ハーフェンを結ぶ、週に一便の定期便。
利用者はほとんどいない。
転移門が設置されていない辺境の町だから、かろうじて残っているだけだった。
ある朝、組合長に呼ばれた。
「来月、ハーフェンにも転移門が設置される。あの航路も、今月で終わりだ」
わかっていたことだった。
けれど、実際に言葉にされると、胸の奥がずしりと重くなった。
「最終便は、お前に任せたい」
組合長の目が、少し赤くなっていた。
この人も、若い頃は飛空艇乗りだった。
最終便の日、俺は夜明け前に港に着いた。
愛船の「風読み号」は、もう二十年以上乗っている古い船だ。
船体のあちこちに傷があり、帆も何度も繕った跡がある。
けれど風石の調子は良く、今日もかすかに船体が浮き上がろうとしていた。
乗客は三人だった。
一人は、孫に会いに行くという老婆。
「転移門はどうも苦手でねぇ。体がばらばらになりそうで怖いんだよ」と笑っていた。
一人は、画家の青年。
「空から見る景色を描きたくて。最後の機会だと聞いて、飛んできました」と、大きなスケッチブックを抱えていた。
一人は、小さな女の子。
父親に連れられて乗ってきたが、父親は見送りだけで降りていった。
ハーフェンにいる母親のもとへ、一人で向かうらしい。
「怖くないか?」と聞くと、女の子は首を横に振った。
「お父さんが言ってた。空の上は怖くないって。風が守ってくれるって」
その言葉に、不意に親父の顔が浮かんだ。
俺も昔、同じことを言われた気がする。
出港の合図を鳴らし、風石に魔力を流した。
船体がふわりと浮き上がる。
帆が風を捉え、風読み号はゆっくりと空へ昇っていった。
雲の間を抜けると、朝日が甲板を金色に染めた。
老婆は目を細めて風に当たっていた。
画家の青年は夢中でスケッチブックに筆を走らせていた。
女の子は甲板の手すりにしがみついて、眼下に広がる大地を食い入るように見つめていた。
「すごい……。お家がちっちゃい」
その声を聞いて、俺は操舵輪を握りながら笑った。
三十年前の俺も、まったく同じことを言った。
親父は黙って笑っていた。
あのときの親父の気持ちが、今ならわかる。
ハーフェンの港が見えてきたとき、女の子が叫んだ。
「あ、お母さん!」
港に立つ一人の女性に向かって、小さな手を振っていた。
風読み号は静かに降下し、最後の着港を終えた。
女の子は母親の腕に飛び込んでいった。
老婆は孫らしき若者に手を引かれて歩いていった。
画家の青年は「一生の宝です」と頭を下げて去っていった。
誰もいなくなった甲板で、俺は操舵輪に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
風読み号の船体が、微かに軋んだ。
まるで、「お疲れさま」と言っているようだった。
空を飛ぶ時代は終わる。
転移門のほうが便利で、速くて、合理的だ。
それは間違いない。
だが、空の上で見た景色や、風の匂いや、雲を突き抜ける瞬間の胸の高鳴り。
あれは、一瞬で移動する魔法陣の上では絶対に味わえないものだった。
俺は最後に、帆を丁寧にたたんだ。
風石に手を当てて、小さく呟いた。
「長い間、ありがとうな」
空を飛ぶことが当たり前だった時代を知る人間は、もうほとんどいない。
でも俺は覚えている。
あの風の感触を、一生忘れない。




