帰ってこなかった客の部屋
気がついたら、異世界にいた。
よくある話だ、と思った。
前世の記憶がある。
日本で普通のサラリーマンをしていた。
通勤中に何があったのかは覚えていない。
目を覚ましたのは、石造りの街の路地裏だった。
言葉は通じた。
金はなかった。
スキルもチートも何もなかった。
ただ一つだけ、前世の経験が役に立った。
俺はホテルマンだった。
紆余曲折あって、この街の片隅で小さな宿屋を始めた。
三年が経った今では、冒険者たちの定宿としてそこそこ知られるようになっている。
冒険者というのは気まぐれな生き物だ。
突然現れて、数日泊まって、朝にはもういない。
帰ってくる時期も未定。
「また来る」と言い残して、一年後にひょっこり戻ってくる者もいる。
だから俺は、ある独自のサービスを始めた。
「荷物預かり」だ。
冒険に不要な私物や、街に戻った時に必要な着替えなどを、部屋ごとに保管しておく。
前世のホテルのクローク感覚で始めたら、これが想像以上に喜ばれた。
「ここに戻れば、自分の場所がある」
冒険者にとって、それがどれほどの安心感になるか。
人は拠り所があるから、遠くまで歩ける。
常連は増えた。
俺は一人一人の好みを覚えた。
枕の硬さ、朝食の好み、嫌いな匂い。
前世の仕事そのままだ。
ある日、一人の若い冒険者がやってきた。
名前はリーナ。
剣士で、まだ駆け出しだった。
「一番安い部屋ください。長くなるかもしれないけど、荷物も預かってもらえますか」
小さな木箱を一つ、預けていった。
中身は聞かない。
それがうちのルールだ。
リーナは月に一度くらいの頻度で戻ってきた。
最初は傷だらけで疲れ切った顔をしていたけど、半年もすると表情に余裕が出てきた。
「マスター、今日は熱い風呂がいい」
「了解。飯は先か後か」
「先で。ステーキ、レアでお願いします」
こういう何気ないやりとりが、俺は好きだった。
一年が過ぎた頃、リーナはBランクの冒険者になっていた。
うちに泊まる回数は減ったけど、戻ってくる度に土産話をしてくれた。
「北の洞窟にドラゴンの幼体がいたんですよ」
「東の砂漠で古代遺跡を見つけました」
目を輝かせて語る姿を見ると、前世で出張帰りの常連さんの話を聞いていた時を思い出した。
ある日、リーナが出発する前に珍しく真面目な顔で言った。
「今回の依頼、ちょっと危ないかもしれないです」
Aランクの討伐依頼に、Bランクパーティの補助として参加するらしい。
「荷物、もうしばらく預かっていてくださいね」
「ああ、いつでも待ってる」
それきり、リーナは帰ってこなかった。
一ヶ月。
二ヶ月。
三ヶ月。
冒険者ギルドに確認しに行った。
「該当パーティとの連絡が途絶えている」とだけ言われた。
それ以上の情報はなかった。
半年が経っても、何の知らせもなかった。
俺はリーナの部屋をそのままにしておいた。
預かった木箱も、棚の同じ場所に置いてある。
他の宿なら、三ヶ月で荷物を処分するだろう。
部屋だって、別の客に回したほうが商売としては正しい。
でも、俺はそうしなかった。
前世のホテルマン時代、先輩に言われたことがある。
「お客様が安心して帰ってこられる場所を守るのが、俺たちの仕事だ」
リーナがいつ帰ってきてもいいように。
部屋を掃除し、シーツを替え、窓辺に花を飾り続けた。
周りの商人には呆れられた。
「もう死んでるだろう」と何度も言われた。
「その部屋を貸せば、月に銀貨三十枚の損が消えるぞ」とも。
知っている。
でも、待つと決めた。
一年が経った頃だった。
真夜中に、玄関の扉が叩かれた。
開けると、ボロボロの革鎧を着た女が立っていた。
髪は伸び放題で、左頬に大きな傷跡がある。
痩せ細って、風が吹いたら倒れそうだった。
でも、その目だけは見間違えようがなかった。
「ただいま、マスター」
リーナだった。
聞けば、依頼中にパーティが壊滅し、一人で魔境をさまよいながら一年かけて戻ってきたらしい。
何度も死にかけた。
何度も諦めかけた。
「でも、ここに自分の荷物があるって思ったら、足が止まらなかった」
俺は黙って鍵を渡した。
いつもの部屋の鍵だ。
「風呂、沸いてるぞ。飯はどうする」
「先で。ステーキ、レアでお願いします」
リーナは泣きながら笑っていた。
俺も少しだけ目頭が熱くなった。
あの日から俺は確信した。
宿屋の仕事は、部屋を貸すことじゃない。
「帰る場所」を守ることだ。
前世でも、この世界でも、それは変わらない。
人は帰る場所があるから、どこまでも遠くへ歩いていける。
そして帰る場所を守る誰かがいるから、命を懸けた冒険にも出られる。
俺にはチートも魔法も、剣の腕もない。
でも、この宿を守り続けることならできる。
あの木箱は今も棚にある。
リーナは中身を一度も取り出していない。
「いつか引退する時に開けるんです」と笑っている。
それでいい。
その「いつか」が来る日まで、俺はこの場所を守り続ける。
それが、異世界で俺にできる唯一の冒険だから。




