第九話 あなたの息子ではありません
誠司は画面を伏せて、私を見た。
「今日、話す」
「今日ですか」
「年が明けてからにすると、また一年、同じことをやる」
彼はグループの通話を立ち上げた。
呼び出しが六つ。順に、つながっていく。
弘子さん。文哉さんはベッドを起こした姿勢で、顔色は悪いが目は開いている。
桃子さんは別の病室から、点滴の管を映さない角度で。
晃平さんは桃子さんの横。絵里さんは、自分の携帯から。
私は自分のタブレットを卓に立てて、通話の画面ごと記録を始めた。音は、端末のスピーカーから拾う。
「全員いるな」
誠司が言った。
「誠司、今は文哉が」
「母さん。一つだけ確認したい」
「なに」
「俺は、あんたが産んだのか」
弘子さんの手が、画面の外へ出た。
「何を言ってるの」
「答えてくれ」
「当たり前でしょう。32年、育てたのよ」
「育てたかどうかは聞いていない。産んだのかと聞いている」
誠司は紙を二枚、カメラの前に出した。
一枚は戸籍の謄本だった。
実父母の名前と、養子縁組の記載。もう一枚は、民間の機関が出した報告書で、最後の行にこう書いてある。
生物学的母子関係は認められない。
「去年の春、婚姻の届けを出す前に、本籍を確かめるために取った」
彼は言った。
「そこに、実の父と母の名前が書いてあった。杉本宗一、杉本都子。俺は1歳のときに、あんたたち夫婦の養子になっている」
「誠司兄さん、何の話」
桃子さんの声だった。
「三人、兄妹でしょ。ずっと一緒に」
「法律の上ではそうだ。血では従兄妹だ」
「……嘘」
「兄さんは」
誠司が画面の一つに目を向けた。
「兄さんは、知ってたな」
文哉さんは何も言わなかった。それが答えだった。
「そのとき兄さんは9歳だ。父方の親戚の子が家に来たことは、覚えているはずだ」
「……覚えている」
「30年、黙ってた」
「言う理由がなかった」
「家族会議で、俺を真ん中に座らせたときもか」
文哉さんは目を閉じた。
「あなたは俺の母親じゃない」
誠司は弘子さんの画面に戻った。
「産んだって話は、もうやめてくれ」
「誠司」
「叔母さん、と呼ぶ。そのほうが正しい」
*
「養ってもらった恩はある」
彼は続けた。
「それも込みで、15のときの話をする」
中学を出る年の2月、彼は高校の合格通知を持って帰った。
食卓に置いたそれを、弘子さんは裏返した。
「うちにはお金がないの。働いて、文哉と桃子の学費を助けてちょうだい」
文哉さんはそのとき24歳で、すでに働いていた。桃子さんはまだ中学生だ。
彼は翌朝、市内の交番へ行った。自転車で20分の距離だと、彼は言った。
「学校に行かせてもらえません」
相談の記録が作られ、弘子さんが呼ばれた。彼女は係の人の前で、学費は出しますと言う。
その夜、家に帰ると、客間の真ん中に椅子が置いてあった。
「あなた、家の恥を外に持っていったのよ」
彼女は亡くなった夫の名前を呼んで泣く。文哉さんが「母さんを泣かせるな」と言い、桃子さんが「お兄ちゃんひどい」と言った。
彼は謝った。
「もう二度と警察には行きません」
そのあと、家族会議は行事になった。春休みも、夏休みも、彼が家にいる日には開かれた。
「兄さん、覚えてるか」
「……ああ」
「桃子は」
「知らない。私、小さかったし」
「そうだな。あんたは小学生だった」
彼は責めなかった。責める相手を間違えない人だ。
「俺は、20年かけて、あの椅子に座るのが普通だと思うようになった」
誠司は言った。
「だから、あの椅子に沙穂を座らせるわけにはいかなかった」
画面の中で、絵里さんが口元を押さえた。
*
「誠司兄さん」
桃子さんが言った。
「じゃあ、本当のお父さんとお母さんは、どうして」
「そこは、沙穂が調べた」
私はタブレットの横に、封筒を置いた。
「6月の終わりに、取材に行きました。次の本のための取材です。行き先は、杷倉村でした」
「……ハクラ」
桃子さんが繰り返した。
「お義母さんが、郷里の方と通話なさるときに出ていた地名です。手帳に書いておきました」
私は封筒から複写を出した。
「穂坂市立図書館の郷土資料室に、楓野日報のマイクロフィルムがあります。閲覧の申し込みをして、三日通いました」
その部屋の閲覧椅子は、脚の裏のフェルトが片側だけ剝がれかけていて、動かすと床が鳴った。
1993年の秋の紙面に、二人が載っていた。
山菜ときのこの加工場の前で、並んで立っている。村で最初に出荷の販路をつくった夫婦、という見出しがついていた。
「宗一さんと、都子さんです」
画面の中で、誠司が息を吸う音がした。この紙を初めて見たのは12月だ。
彼はあのとき何も言わなかった。今日は言った。
「これが、俺の父と母だ」
絵里さんが、画面に顔を近づけた。
「誠司さんに、似ていらっしゃいます」
「村では、まだ覚えている方が何人もいました」
私は村で聞いたことを話した。
あの夫婦は山のものをよく知っていた。
春から秋まで、毎日のように山へ入る。その二人が、毒きのこを食べて、同じ晩に亡くなった。
不思議だ、と言った人が三人いた。
「毒きのこって、そんなに間違えるものですか」
晃平さんが聞いた。
「私は分かりません。ただ、山の仕事で生きていた人たちが、二人そろって同じ晩に、とは、村の方が言ったことです」
「でも、誰も届け出ませんでした。親類でもないのに、口を出すことではないからと」
村役場の前を通ったとき、掲示板に、行事が延期になったという紙が貼ってあった。理由は書いていない。
私はその紙を、しばらく見ていた。
私の取材とは関係がない。関係のないものを見ている時間が、取材にはいちばん多い。
「旧宅は、今も建っています。買われた方が住んでいらっしゃいます」
「家の裏に、山の斜面があります。上のほうの道から、家の食堂の窓が見えます」
そこまで登って、木の間から下を見た。
窓の形が分かる程度には見えた。それ以上のことは分からない。
その斜面で、私は誰にも会わなかった。30年前にそこにいた人のことも、聞けずじまいだ。
私はそこまでを封筒に入れて、机の引き出しにしまった。彼がそれを読んだのは、帰ってきた日の夜だ。
*
「叔母さん」
誠司が言った。
「あの晩、後ろの山から見ていた人がいる」
弘子さんの画面が、止まったように見えた。回線の問題ではなかった。
「何を」
「叔父さんと仲がよかったから、黙っていたそうだ。30年、黙っていた」
「そんな」
「言ってくれたよ。今になって」
「……違う」
「何が違う」
弘子さんの口が開いた。
「私じゃない、あの人が毒を」
部屋の中で、私の背中の皮膚が動いた。
「……私にばかり聞かないで」
誰も何も言わなかった。
文哉さんの画面から、息の音だけが聞こえた。
「叔母さん、いま、何と言った」
「……言ってない」
「毒、と言った」
「毒きのこよ。間違えて食べたの。あの人たちが自分で採ってきて」
「あんたは今、あの人が毒を、と言った」
弘子さんは画面から顔をそらした。そらした先に、誰もいなかった。
「お母さん」
桃子さんの声が、小さく入った。
「なんで、そんなこと言うの」
「桃子、違うのよ。この人が、私を騙そうとして」
「誠司兄さん」
桃子さんは、母親ではなく彼を呼んだ。
「それでも育ててもらったでしょ。誠司兄さん、私のお母さんを警察に連れていくつもり?」
「育てた、か」
誠司は、弘子さんの枠ではなく、桃子さんの枠を見ていた。
「桃子。あんたの両親は、俺の父と母を殺して、家と金を持っていった」
「それは、お父さんが」
「そのうえで、今度は俺と沙穂を、あんたたち兄妹の世話係にしようとしてる。年明けから兄さんの付き添いに入るのは誰か、あの人からもう届いてる」
桃子さんの画面が、大きく揺れた。
「あの人は、兄さんが成人したら、すぐに相手の話を集めてきた。あんたのときも同じだ。親戚に頼んで、知り合いに頼んで」
「俺の結婚の話は、一度もしなかった。一度もだ」
「……それは、誠司兄さんが船に乗ってて」
「俺が結婚しなければ、子どもがいなければ、俺の稼ぎはいずれ、あんたたちの子どもに行く。あの人は、それを数えてた」
文哉さんの画面で、ベッドの柵にかかった手が動いた。
「沙穂を追い出そうとしたのも、同じ理由だ。俺がいないあいだ、白粥と漬物を出して、出ていくのを待ってた」
「あんたたちには、いい母親なんだろう」
彼は一度だけ、弘子さんの枠に目をやった。
「俺にとっては、悪魔だ」
弘子さんは何も言わない。乾いた唇が、閉じたままだった。
「でも、叔母さんでしょ」
桃子さんの声が上ずった。
「1歳のときから、お母さんが育てたんだからね。毎日、ご飯を食べさせてもらって」
「兄さんは足をなくして、私は子どもをなくして。それでも、まだ足りないの?」
ここで私が黙れば、二つの事故は、この先ずっと誠司のせいにされる。
「桃子さん」
私は誠司の横から、画面の中に入った。
「文哉さんとあなたが、なぜ二人とも事故に遭ったのか、考えたことはありますか」
「……何、急に」
「あなたのご両親が、人を二人殺したからです」
桃子さんの口が開いた。声は来なかった。
「あなたのお母さんは、何度も言いましたよね。車にひかれて死んでやる、と。言った本人のところに、車は来ませんでした。来たのは、お兄さんとあなたのところです」
「それが、あなたたちに返ってきた報いです」
「誠司さんを責めるのは、筋が違います。責めるなら、あの人と一緒になったあなたのお父さんです。お腹の子は、あの人の孫でした。孫の代まで、届いたんです」
誠司は、私を止めなかった。
「あなたたちには、まだ来ます。待っていればいい」
桃子さんの画面が、先に落ちた。
晃平さんの画面が残る。彼は一度だけ頭を下げて、それから切った。
絵里さんは切らなかった。文哉さんも切らない。
最後まで残っていたのは、弘子さんの画面だった。彼女は何も言わず、こちらを見ている。
誠司が通話を終わらせる。
私はタブレットを止めて、再生した。
音が入っている。
画も入っている。彼女の声が、途切れずに入っている。
通話の端末とは別にしておいてよかった。画面を録るだけでは、相手の声が入るとは限らない。
私はファイルを二つの場所に複製して、それから誠司を見た。
「明日、朝いちばんで行きましょう」
「ああ」
「山の人の話は、こちらから先に言います。いない人だと」
「そうだな」
彼は湯呑みを持って、中身がないことに気づいて、そのまま置いた。




