第八話 玄関で待っていた人
誠司の運転で病院に着いたのは、朝の9時前だった。
受付で名前を言って、手術室のある階まで上がる。エレベーターの中で、彼は一言も話さなかった。
手術室の前の廊下には、折り畳みの椅子が並べてあった。
パイプの脚が床にこすれて、座るたびに音がする。
弘子さんは壁際でうつむいていた。桃子さんは一つ置いて隣、晃平さんはその向こう。
杏奈ちゃんは、いちばん端に座っていた。
私は売店で無糖の缶コーヒーを四本買って、戻る。誰も手を伸ばさなかったので、椅子の上に並べて置いた。
「沙穂おばさん」
杏奈ちゃんが私を見上げた。
「おばあちゃんが呪ったから」
弘子さんの肩が動いた。
「昨日も、車にひかれるって言ってた。だから、お父さんがああなったの」
「杏奈、やめなさい」
桃子さんが言った。子どもは首を横に振った。
「私、廊下で聞いてた。お母さんが荷物を持って出ていったとき、お父さん、追いかけようとしたの」
「でも、おばあちゃんが、すぐ帰ってくるって言ったの。遠くに行くところなんかないって」
「それで、お父さんは座った」
杏奈ちゃんは膝の上で自分の指を数えていた。
「私、お母さんを捜しに行こうとしたの。そしたら、部屋へ戻れって。私も行きたかったのに」
「……」
「ハンガーで叩かれた」
彼女はそれだけ言って、あとは言わなかった。
弘子さんは壁を見ている。桃子さんは口を開けて、閉じる。
11歳の子が、誰の顔も見ずに、順番どおりに話した。
廊下で聞いた、部屋に戻れと言われた、叩かれた。それだけを、余計なものをつけずに。
この家で、誰かがこんなふうに話すのを、私は初めて聞いた。
誠司が私の横に来る。廊下の突き当たりで、警察の人と話して戻ってきたところだった。
「深夜の1時すぎに、兄さんは一人で車を出したそうだ」
彼は声を落とした。
「県道で、かなり出していたらしい。歩行者を避けようとして、対向車線に入った。トラックと正面だ」
「歩行者の方は」
「無事だ。通報したのもその人らしい」
「……そうですか」
「自分で車を出した。それは、兄さんが決めたことだ」
彼は椅子に座って、膝に肘を置く。
手術室のランプが消えたのは、それから40分後だった。
出てきた医師は、家族を集めて、短く言った。
「命を守るために、右の脚を切断しました」
弘子さんが崩れるように床に座った。桃子さんはその母親を見下ろしたまま、動かなかった。
「兄さんに報いが来て、満足?」
彼女の声は、低くて平らだった。
「昨日ずっと、車にひかれるって言ってたよね。お母さん、あれ、何回目?」
「わたしは、わたしがそうなればいいと思って」
「言葉って、自分の口から出るんだよ」
桃子さんはそこで言葉を切って、壁のほうを向いた。
私は缶コーヒーを一本取って、杏奈ちゃんの手に握らせた。
*
家に戻ったのは、午後3時を過ぎていた。
マンションの玄関の前に、絵里さんが立っていた。
コートの下がセーターで、鞄は小さいものが一つ。髪が乱れていて、目が赤い。
「沙穂さん。お留守でしたか」
「いえ。今、帰りました」
「何度か押してしまって、すみません」
「入ってください」
台所の椅子に座ってもらって、湯を沸かした。彼女は鞄を膝に乗せたまま、両手で抱えていた。
「昨日の夜、家を出ました」
「はい」
「携帯も、財布も置いてきてしまって。駅で気がついて、実家は遠いし、どうしようかと」
「ここまで、どうやって」
「歩きました。3時間くらい」
靴を見た。かかとの内側が、すりむけて赤くなっている。
私は救急箱を出して、絆創膏を二枚、卓の上に置いた。彼女は「すみません」と言って、片方だけ貼る。
もう片方は、鞄に入れた。
誰かに返すつもりなのかもしれない。この人は、もらったものを一つずつ数えて生きてきたのだと思う。
私は湯呑みを彼女の前に置いた。
「絵里さん」
呼び方を変えたことに、彼女は気づかないようだった。
「私、離婚したいんです」
彼女は湯呑みに手を伸ばして、持たずに、そのまま話した。
「杏奈を産んだあと、半年くらい、私、毎日文哉のごはんの心配をしていました。辛いものが好きな人で、お義母さんがそれに合わせて作るんです。私は授乳中だったので、食べられなくて」
「赤ちゃんが夜に泣くと、文哉が眠れないでしょう。それで、家族会議になりました。私が、母親として足りないと」
「そういうことが、11年です」
「文哉さんとは、学校で」
「はい。私が3年のとき、補習の担当でした」
彼女は湯呑みの縁を見ていた。
「付き合いはじめたのは、大学を出てからです。でも、あの人の前だと、今でも手を挙げてから話す癖が抜けません」
「給料は、口座のカードを文哉が持っています。私は自分のお金を下ろすのに、理由を言わなければいけません」
彼女は、そこで初めて湯呑みを持った。
「昨日、お義母さんが道に出たあと、家に帰ってから、私、文哉に言ったんです。あの道の運転手さんは、猫が出ても避ける人たちですよって」
「そうしたら、母に向かってなんという口の利き方だ、謝れと」
「11年で、何回謝ったか、もう数えられません」
「私の愛は、この家では何の価値もなかった」
彼女は湯呑みを置いた。
「離婚の準備をするお金を、貸してもらえませんか」
私は椅子を引いて、彼女の正面に座り直した。
「借りたい金額を教えてください。返す時期は、それから決めましょう」
彼女の目に、また水がたまった。
「それだけですか」
「ほかに何かいりますか」
「……いいえ」
私は付け加えた。
「条件はありません。誰の味方になってくださいとも言いません。使いみちも聞きません」
彼女は、両手で顔を覆う。声は出さなかった。
それから、私は文哉さんのことを話す。
彼女は顔を上げて、立ち上がった。
「病院は、どこですか」
「送ります」
「歩けます」
「3時間かかります」
「……」
「絵里さん」
「……お願いします」
車の中で、彼女は一度だけ言った。
「病院には行きます。離婚するつもりは変わりません」
「はい」
「両方だと、おかしいでしょうか」
「おかしくありません」
*
その夜、誠司が帰ってきたのは11時前だった。
「桃子が事故を起こした」
彼はコートを着たまま台所に立って、そう言った。
「病院で、母さんと言い合いになったらしい。母さんが兄さんの面倒を見ると言って、桃子が、自分の体で何ができるのって」
「それで」
「母さんが、二人で車に飛び込んで死のうと言った。桃子が出ていって、駐車場から車を出した」
「……晃平さんは」
「止めたが、間に合わなかった。交差点で、出合い頭だ」
私はコートを取って、二人で病院に戻った。
同じ建物の、別の階だ。
廊下で待っているあいだに、晃平さんが処置室から出てきた。彼はこちらを見て、壁に手をつく。
医師が家族に説明したのは、深夜の1時前だった。
私は少し離れたところに立っている。家族ではない、と言われたら下がるつもりだったが、誰も何も言わなかった。
言葉は聞こえた。
妊娠五か月で、事故による流産であること。骨盤に損傷があること。
最後に、一行だけ。
「今後の妊娠は、難しいと思います」
晃平さんは肯いた。何か聞き返すこともしない。
弘子さんは、その場にいなかった。
彼女は上の階にいる。文哉さんの病室の前の椅子に座って、そこから動かないのだと、看護師が言っていた。
帰りの車で、誠司はスピードを出さない。信号のたびに、きちんと止まった。
*
大晦日の午前、私たちは買い出しに行った。
年越しの用意を、うちでするのは初めてだ。去年の暮れ、私たちはまだ二度目の食事をしたところだった。
店は混んでいて、かまぼこの棚の前で三分待った。彼は蕎麦の袋を二つ持って、少し迷ってから、一つ戻す。
「二人だからな」
「三人分買って、明日食べてもいいですよ」
「それもそうだ」
帰ってきて、袋を床に置いて、冷蔵庫を開けたところで、彼の携帯が鳴った。
家族グループの通知だ。
弘子さんからだった。
『誠司へ。文哉には付き添いが必要です。あなたは休みでしょう。沙穂さんは桃子のほうをお願いします。絵里さんも晃平さんも仕事がありますから』
私は大根を袋から出して、流しに置いた。
誠司は画面を見たまま、しばらく動かなかった。




