第七話 母が帰りたくない家
弘子さんは答えなかった。
部屋の中央では、椅子がまだ同じ向きで空いている。今日この家で、そこに座らされたのは一人だけだった。
「来てくださいとは、何度もお願いしました」
絵里さんが続けた。
「杏奈が小さいころは、来ていただきました。でもこの一年は、うちに一度も」
「忙しかったのよ」
「桃子さんのところにも、6月からは行っていらっしゃいませんね」
「絵里」
文哉さんが止めようとした。絵里さんは止まらなかった。
「なぜですか」
私はスマートフォンを取り出した。
「音だけのファイルがあります。台所のカメラに、食卓の声が入っていました」
「やめて」
弘子さんが顔を上げた。
「やめて。あれは、あなたが」
「5月18日の夕方です」
あの日、私たちは食卓で向かい合っていた。まだ、同じ時間に座ることがあったころだ。
台所のカメラは食卓まで距離があるので、顔は映らない。声だけが残っている。
私は再生した。
エアコンの送風の音が、部屋の上のほうで続いている。
『お義母さん、お孫さんに会いたくないですか』
私の声だ。
『行かないわよ、あの家は。疲れるだけ』
『送り迎えが一日に四往復あるの。土日はあの子たちが二人で出かけるから、わたしが丸ごと見るのよ』
『ごはんも作って、洗濯もして、掃除もして。腰が痛いなんて言えやしない』
『それにね、あの子がうるさくて。今の子は叩けないし、叱れないし。三人育てたときより、あの一人のほうが疲れるの』
再生を止めた。
文哉さんは動かない。絵里さんは、両手を膝の上に置いたままだった。
二階では、その子が宿題をしている。
この部屋の話は、一言も聞こえていないはずだ。聞こえていないように、私は音量を下げてあった。
「これは、誘導されたの」
弘子さんが言った。
「沙穂さんが、わたしを追い出すために、わざと聞き出したのよ」
「では、続きも」
私は次を再生した。
『じゃあ、桃子さんのところへ行かれては。妊娠なさったら、実のお母さんのほうが心強いでしょう』
『あの子はもっと大変よ』
『口がうるさいの。おかずが少ないだの、味が濃いだの。買い物のお金も出さないで、わたしの年金から出させて』
『床を一日に五回拭けって言うの。潔癖なんですって』
『抜けた髪が落ちてるのはわたしのせいだって。あんなに長い毛、わたしのわけないのにね』
音が止まった。
エアコンの風が、まだ鳴っている。
桃子さんが、母親を見た。
「お母さん、どうして私のことを」
「桃子、それは」
「私、ずっとかばってたのに!」
「違うのよ。あの人に言わされたの」
「言わされた人が、そんなに具体的に言う?」
桃子さんの声が、最後だけ低くなった。
「床、五回って、私、言ったことある。それは本当。でも、それを他人の家で言われるとは思ってなかった」
彼女は母親の隣に座っている。手を伸ばせば届く距離で、伸ばさなかった。
6月に、この人は私の居間で、母親のために30分怒鳴り続けた。その30分のあいだ、母親は娘の背中を見ている。
弘子さんは目を伏せた。それから、肩を落として、声を出した。
「そんなに私が邪魔なら、もう何もしない。ごはんも自分で用意して」
「そういう話じゃない」
文哉さんが、初めて母親に向かって言った。
*
「わたしは」
弘子さんが顔を上げた。もう泣いていなかった。
「わたしはね、孫が欲しいだけなのに」
「母さん」
「誠司、あなたたち、3月に結婚して、もう年末よ。何の知らせもないじゃない」
「それが、俺の家に来た理由か」
「わたしは身重の人の世話をしに行ったの。卵を産まない鶏の世話まで、私がするの?」
絵里さんが息を吸う音がした。
「お義母さん」
私は言った。
「3月14日に籍を入れて、誠司が出たのが3月31日です。あなたが朝ごはんを粥だけにしたのは、4月1日です」
「……」
「二週間で分かることなんて、何もありません。あなたは、私が産まないから冷たくしたのではない。順番が逆です」
「そんなことは」
「あんたも、そうだったな」
誠司が言った。
「籍を入れてから兄さんが生まれるまで、5か月もない。俺は戸籍を見た。あれは名誉なのか」
弘子さんの唇が動いて、音にならなかった。
「昔のことを」
「昔でいいなら、今のことも言う必要はない。沙穂の腹の話も、同じだ」
「あなたは、わたしがどれだけ」
「母さん」
文哉さんが遮った。声が変わっていた。
「絵里が杏奈を産んだとき、母さんは病院で何と言った」
「……覚えてないわ」
「女の子ね、と言った。それだけだった」
彼は自分の手を見ていた。
「桃子のときは、三日前から泊まり込んでいた。だから僕は、母さんは娘がかわいいんだと思っていた」
「文哉」
「違ったんだな。母さんは、男の子しか見ていなかったんだ。桃子をかわいがっていたから、そんなことはないと思ってた」
桃子さんが、自分の腹に手を置いた。
9月に籍を入れて、名字は福永になった。この子は、杉本にはならない。
彼女の手は、そこに置かれたまま、しばらく動かなかった。
*
「もういい」
弘子さんが立ち上がった。
「もういいわ。わたしがいなくなればいいのよ」
「母さん、座って」
「みんな、わたしが悪いんでしょう。外に出て、車にひかれて死んでやる」
彼女は廊下へ出た。
「お母さん」
桃子さんが立ち上がりかけて、腹を押さえて座り直した。
晃平さんが先に出た。文哉さんが続く。
玄関が開いて、冷たい空気が客間まで入ってきた。
私は窓の外を見た。
弘子さんが門を出て、住宅街の道の真ん中まで歩いていく。街灯の下で立ち止まって、両手を広げた。
上りの車が一台、速度を落として、膨らんで避ける。運転席の人がこちらを見て、何か言った気がした。
夜の住宅街だから、時速は出ていない。この道で人がはねられるとしたら、それはよほど運の悪い日だ。
二台目は来なかった。
晃平さんが追いついて、彼女の肘を取った。
文哉さんが反対側から腕を回す。二人がかりで歩道に戻した。
「誠司」
私は振り返った。
彼は玄関のほうを見ていて、出ていく気配がなかった。
「帰ろう」
「はい」
私たちは廊下を歩いた。絵里さんが見送りに出てきた。
「気をつけて」
「絵里さん」
誠司が言った。
「何かあったら、うちに連絡してください。夜中でも」
彼女は何か言いかけて、肯いた。
門のところで、文哉さんとすれ違う。彼は母親を支えたまま、立ち止まった。
「誠司。母さんに謝れとは言わない。でも、家族なんだ」
「兄さん」
誠司は歩きながら言った。
「俺は同じ姓でも、お前たちの杉本家じゃない」
文哉さんは何も返さない。
車に乗って、住宅街を出るまで、二人とも黙っていた。
高速に乗ってから、私は聞いた。
「大丈夫ですか」
「30年かかった」
彼はそれだけ言った。ハンドルを持つ手に力が入っていて、指の付け根が白い。
私は窓の外を見ていた。年末の高速は、荷物を積んだ車ばかりが走っている。
明日は買い出しに行こう、と思った。うちで年を越すのは、これが最初になる。
*
翌朝の7時すぎ、誠司の携帯が鳴った。
彼はベッドの縁に座って、スピーカーにする。
桃子さんの声だった。息が上がっている。
「誠司兄さん、文哉兄さんが」
「落ち着け。何があった」
「事故。トラックと。今、手術してる」
私は起き上がった。
「それと」
桃子さんの声が途切れた。
「お義姉さんが、いないの。昨日の夜から、家にいないって」




