第五話 妻は俺の隣に座る
食器の音が消えて、客間が急に広くなった。絵里さんが台所から戻ってきて、壁際に膝をついた。
中央の椅子は空いている。座面がこちらを向いたまま、誰の足も触れていない。
「沙穂さん、どうぞ」
桃子さんが中央を指した。
「うちの家では、間違えた人が真ん中に座るの。ちゃんと聞く気がありますっていう形だから」
私は座布団から動かなかった。誠司も動かなかった。
「誠司兄さん、規則くらい教えてあげて」
「妻は俺の隣に座る」
誠司の声は高くなかった。
「話は最後まで聞く。座る場所は変えない」
「かばうんだ」
「かばうのが、どこか悪いか」
「悪くはないけど、順番があるでしょ。私は間違ってない。あの人をかばうなら、誠司兄さんも同じだからね」
弘子さんが、膝の上で手を握り直した。文哉さんは腕を組んだまま、弟のほうだけを見ている。
この部屋の人たちは、誰も私に目を合わせない。
6月のときと同じだ。裁く相手の顔は、見なくていいことになっている。
「桃子さん」
私は彼女を見た。
「あなたが真ん中に座って聞けばいい」
「は?」
「聞く気がありますっていう形なんでしょう。じゃあ、聞く人が座ればいい。私は話す側です」
桃子さんが口を開けて、閉じた。晃平さんが彼女の袖を引いた。
「今は順番に話そう」
文哉さんが割って入った。
「まず、沙穂さんがしたことからだ。6月のあの日、母さんに熱い餃子をかけて、入院させた。これは事実だね」
「かけたのは事実です」
「認めるんだな」
「順番が違うと思います」
「何が違う」
「あの日、私が話しはじめるたびに、誰かが上からかぶせました。四回です。数えました」
音が一つ、鳴った。
誠司の手のひらが卓に落ちた音だった。湯呑みが三つ跳ねて、茶が畳にこぼれる。
絵里さんがふきんを取りに立とうとして、途中でやめた。誰も拭かなかった。
「兄さん」
彼は一度だけ、そう言った。
「俺の妻が話している。最後まで聞け」
部屋が静まったのは、声の大きさのせいではなかった。この家で、そういう音を出した人間が、今までいなかったからだ。
*
「では、順番に」
私は数えるように話した。
「あの日、みなさんは六人で来られました。誰も、なぜ捨てたのかを聞きませんでした」
「聞いたよ」
文哉さんが言った。
「理由を聞かせてくださいと、僕は言った」
「言いました。そのあと、私が二文字目を出す前に、桃子さんが『まだ何か言うんですか』と言いました」
「……」
「次に私が口を開いたら、『謝ってください』でした。三度目は、お義母さんの泣き声でかき消えました」
「細かいことを」
「細かくありません。そこが全部です」
四回のうち二回は桃子さん、一回は弘子さんの泣き声、一回は文哉さん自身だった。私は帰ってからそれを紙に書いて、時刻まで入れて、机の引き出しに入れてある。
持ってきてもいいが、ここでは出さない。数字を見せられた人間は、数字の正しさではなく、数えた人間の性格の話を始める。
私は畳の茶を布巾で押さえながら続けた。
「それから、浪費の話をされました。食べ物を無駄にしたと」
「したじゃないか」
「あの餃子は、38個残って、私が捨てました。四人で食べたのは、22個です」
「……数えたのか」
「拾って数えました。捨てたのは私です。でも、残したのはみなさんです」
文哉さんが答えなかった。
弘子さんは膝を見ている。晃平さんは、自分の湯呑みの縁を親指でなぞっていた。
桃子さんが立ち上がった。
「残すに決まってるでしょ。ごみ箱から拾ったものを食べさせられたんだから」
「食べる前から、ご存じでしたよね」
「え」
「お義母さんが撮った動画に、ごみ箱が映っていました。みなさん全員、あれを見てから来られた」
「……」
「私は、別のものを作ったとは一言も言っていません。台所の鍋に何を入れたかも、皆さんの前で言いました」
桃子さんの喉が動いた。口元に手が行く。
「だから味が変だったんだ」
彼女はそう言って、廊下へ走った。
洗面所の扉が閉まり、すぐに水を流す音。水の音の下から、別の音が聞こえた。
晃平さんが立って、追っていく。
弘子さんは腰を浮かせかけて、座り直した。娘のところへは行かない。
戻ってきた桃子さんは、口元を紙で押さえていた。座布団に膝から落ちるように座って、そのまま顔を上げない。
「水、持ってきます」
絵里さんが台所へ立った。この家で誰かが具合を悪くすると、動くのはいつもこの人らしい。
*
「沙穂さん」
文哉さんが低い声で言った。
「あなたは、あの日、母さんに熱い湯をかけた。妹は妊娠している。この家に何をしに来たんだ」
「かけた湯は、熱くありません」
「見え透いた嘘を」
「盆に乗せる前に、蛇口の下で水を足しました。半分ほど」
誠司が顔を上げた。
「なぜ」
「誰かに手を出されたら、その人に浴びせるつもりだったからです」
私は文哉さんを見た。
「あの日、あなたが私を殴っていたら、私はあなたの前の茶碗を取って、あなたにかけていました。そちらは水を足していません」
文哉さんの顔が、首から上だけ赤くなった。
「……脅しか」
「順番の説明です。先に手を出すつもりは、私にはありませんでした」
「だとしても、母さんは三日入院した」
「母さんの入院の理由は、兄さんのところに来た退院時の書類に書いてある」
誠司が鞄から一枚の紙を出して、卓に伏せて置いた。
開きはしない。写しを持っているという事実だけで十分だった。
「呼吸の状態を見るためだ。誤嚥の疑いと書いてあったはずだ。熱傷の処置は、一つも入っていない」
「……」
「兄さん、母さんの顔をシンクに押し込んだのは、あんただ」
「冷やそうとしたんだ」
「顔を水に沈めるのは、冷やすとは言わない」
文哉さんは何か言いかけて、湯呑みに手を伸ばし、空なのに気づいて、手を下ろす。
6月のあの台所で、私は戸口からそれを見ていた。義母の足が床を蹴って、水面が跳ねて、義兄の手は後頭部から離れなかった。
止めたのは、絵里さんと晃平さんだ。
熱くなかった、と知ってもらったところで、私の手が動いた事実は消えない。
私は、あの碗を持ち上げるまでの二秒を、はっきり覚えている。
腕が勝手に動いたわけではない。角度も、高さも、自分で決めた。
「かけたことが正しいとは、私は言いません」
私は言った。
「碗を割ったことも。そこは、何を言われても受けます」
「でしたら」
弘子さんが、初めて口を開いた。
「謝ってくださらない? わたし、三日も」
「その前に」
私は畳んだ布巾を横に置いた。
「あの餃子に何が入っていたか、みなさんにお見せします」
*
「その前に、兄さん」
誠司が言った。
「今日の会議は、絵里さんのためのものだったな」
「そうだ」
「布団が一組、一万円弱。それを、夫婦の話にせず、グループで聞いた」
「隠し事はよくないからだ」
「六人集めて、真ん中に座らせて、謝らせて、それから飯を作らせた」
「順序の問題だ。あれは絵里が」
「絵里さんは、今日の本番じゃない」
誠司は中央の椅子を見た。座面はまだ、私たちのほうを向いている。
「見せしめだ。次に座るのは誰か、全員に分からせるために、兄さんは自分の妻を先に座らせた」
台所の水音が止まった。
絵里さんが、戸口に立っていた。手にふきんを持ったまま、動かない。
彼女の視線は夫の顔にあった。11年、この家の会議で一度も向けたことのない角度だったのだと思う。
「誠司」
文哉さんの声が割れた。
「夫婦の間に入ってくるな」
「入ってきたのは、そっちだ」
誠司は立ち上がらなかった。
「6月に、俺の家に六人で来たのは誰だ。俺の妻を真ん中に座らせようとしたのは誰だ」
「それは、母さんが泣いていたから」
「泣いていたら、うちの玄関を開けていいのか」
弘子さんが、ハンカチを目に当てた。誰も、今度はそちらを見ない。
6月に、この人たちは「解決」という言葉を四回使った。解決というのは、私が頭を下げて、あの人が私の家に住み続けること。
今日のそれは、絵里さんが頭を下げて、それから台所に立つことだった。
形はどちらも同じで、真ん中には必ず椅子がある。
カーテンの裾が、床の上で少し溜まっている。エアコンの風で、折り返しの部分だけが小さく動いていた。
「絵里さん」
私は呼んだ。
「そこにいてください。あなたにも見ていただきたいので」
「……はい」
私は鞄からスマートフォンを出した。
「テレビをお借りします」
「何をするつもりだ」
「説明です。言葉より早い」
私は入力を切り替えた。
画面が、一度、青くなった。




