第四話 真ん中の椅子
12月27日の午後3時。玄関の暗証番号を打つ音がして、扉が開いた。
「ただいま」
九か月ぶりの声だった。
誠司は鞄を框に置いて、そのまま私を抱える。肩から、知らない洗剤の匂いがした。
「痩せた」
「あなたもです」
「俺は元からこうだ」
風呂を使って、髪を拭きながら出てきた彼は、食卓の椅子に座って、真っ先に自分の携帯を充電につないだ。
九か月分の通知が流れ込んでくる。家族のグループの未読が、四桁になっていた。
「先に俺が読む。読んでから聞く」
「いいえ」
私は仕事部屋から封筒と、外付けのドライブを持ってきた。
「先に、こっちを見てください」
彼はドライブをつないだ。
フォルダを開いて、日付の並びを上から下へ見ていく。3月のもの、4月のもの、6月のもの。
ファイル名は日付と時刻だけにしてある。
中身を思い出せるような名前はつけていない。つけると、開くたびに構えることになる。
再生はしなかった。最初のファイルの、最初の十秒だけ流して、止めた。
「全部、当日に出したのか」
「その日のうちに。クラウドは30日で上書きされるので」
「ああ」
それから、封筒のほうを開けた。中には、市立の図書館で複写した紙が数枚と、私が村で書いたノートの抜き書きが入っている。
彼はいちばん上の一枚を、長いあいだ見ていた。写真が載っている紙だった。
「これが」
「はい。お二人です」
「……そうか」
彼はそれを封筒に戻して、自分の鞄に入れる。私たちは、そこから先のことを、その晩は話さなかった。
代わりに、餃子の話をした。6月の昼に私が何をして、誰が何を口から出したか。
「捨てていいと言ったのは、俺だ」
彼は途中で一度だけ口を挟んだ。
「結婚する前に言った。食いたくないものを我慢して食う家には、しないと」
「その通りに言いました。嘘つき扱いされましたけど」
「そうだろうな」
彼は最後まで聞いて、湯呑みを両手で包んだ。
「連絡の窓口はあった」
「知っています」
「使わなかったのは、あんたじゃない。あの家の誰もだ」
部隊を通した緊急の連絡窓口は、家族に知らされている。結婚のときに、書面で渡されている。
6月のあの日、あの家の誰かが本当に困っていたなら、そこへ電話をすればよかった。
私はしなかった。鍵を替えれば済むと思ったからだ。
彼らはしなかった。誠司に伝わると困ることを、していたからだ。
*
28日の午前、家族のグループが動いた。
文哉さんが絵里さんを名指ししている。
『絵里、実家に布団を送ったのか』
『はい。一組です』
『どうして相談しなかった』
『結婚してから11年で、母に何かを送ったのは二度目です。一万円しないものでも、いちいち許可が要りますか』
『買うなとは言っていない。僕が聞いているのは、なぜ相談しなかったかだ』
誠司が画面を横にして、私にも見えるようにした。
『月に22万円の額面から、一万円を自分で決める自由もないんですか』
『自分の金という言い方はやめてくれ』
『11年、一緒に暮らしているんだ。お前は僕の妻だろう』
既読だけがついて、絵里さんの返事は止まる。
そこで文哉さんの入力が止まり、3分後に、弘子さんの通話が来た。誠司はスピーカーにした。
「誠司、帰ってきたのね。明日、文哉のところで家族会議をするから、二人で来なさい」
「兄さんの家の話ですか」
「絵里さんが間違ったことをしたから、みんなで直してあげるの」
「分かった。行く」
通話が切れてから、私は言った。
「夫婦の喧嘩に、他人が六人も行くものですか」
「あの家では行く」
誠司は湯呑みを置いた。
「俺が中学のときから、ずっとそうだ」
「明日は、私も裁かれますか」
彼は笑わなかった。
「させない」
*
29日の午後、文哉さんの家に着いた。
玄関の靴べらには、駅前の靴屋の犬の絵が入っている。持ち手のところだけ塗りが剝げていた。
客間には、もう全員がそろっていた。弘子さん、文哉さん、桃子さん、晃平さん。
桃子さんは9月に籍を入れて、福永の姓になっている。腹が、コートの前で丸くなっていた。
「誠司兄さん、お帰り」
「ああ」
「もう五か月なの。男の子か女の子かは、まだ」
桃子さんは腹に手を添えてみせてから、私のほうへ目を動かした。
「沙穂さんも、よく来られましたね」
「桃子」
文哉さんが短く言って、座布団を指した。誠司と私は並んで座る。
二階から、子どもの足音がした。
杏奈ちゃんは降りてこない。部屋にいなさい、と言われているのだろう。
絵里さんが台所から盆を持って出てきて、湯呑みを配った。弘子さんから、文哉さん、桃子さん、晃平さん、誠司、私。
六つ配り終えて、彼女は盆を胸に抱えたまま立っていた。
座る場所がない。
座布団はすべて埋まっていて、部屋の中央だけが空いている。そこに、木の椅子が一脚、置いてあった。
背もたれのまっすぐな、食卓で使うほうの椅子だ。座面が、こちらを向いている。
「絵里さん、座って」
弘子さんが言った。
絵里さんは盆を壁際に置いて、その椅子に腰を下ろした。
膝をそろえて、手を膝の上で重ねる。慣れた座り方だった。
「じゃあ、絵里から」
文哉さんが腕を組んだ。
「自分で理由があると思うなら、先に言っていい」
「はい」
絵里さんは、顔を上げないまま話した。
「毎年、お義母さんに服を贈っています。桃子さんと晃平さんにも、お祝いのときには」
「それは、嫁の務めだと思ってやってきました」
「でも、自分の母には、何もしていませんでした」
「実家が遠くて、何年かに一度しか帰れません。この秋に帰ったとき、母の布団の綿が薄くなっていたので、一組だけ送りました」
「一万円もしません。それを、相談しなかったのは、悪かったと思います」
桃子さんが、湯呑みを置いた。
「お義姉さんに孝行の心があるのは、いいことです。そこは認めます」
「でも、結婚したら、稼いだお金は二人のものでしょ」
「家のために使ったんじゃないお金なら、文哉兄さんには知る権利がある」
「ひどい言い方をすると、もし知らない男の人に何か買っていたら、兄さんは傷つくよね」
「もちろん、お義姉さんがそんなことをしないのは分かってます」
「だったら、なおさら言えばよかったの。兄さんの名前で送ればいい。お母さんも喜ぶし、兄さんも顔が立つ」
「そういうことだよ」
文哉さんが肯いた。
「絵里、11年も一緒にいて、僕の気持ちが分からないか。黙って実家に送られたら、外の人は僕をどう見る。婿が不孝だと言われるのは僕だ」
「わかりました、お義母さん」
絵里さんが顔を上げたのは、そのときだけだった。
「次からは、買う前に相談します」
「それでいい」
文哉さんが妻の肩を叩いた。
弘子さんが湯呑みを両手で持って、ゆっくり回した。
「絵里さん。あなたは杉本の家に入ったのよ」
「はい」
「入ったからには、あなたの全部はこの家のものなの。自分のお金、なんて言い方をしないで」
「そうしないと、文哉だって、あなたに黙って勝手に使うかもしれないでしょう。よその女の人に使われたら、あなた、平気?」
絵里さんの背中が、椅子の上で一度だけ固くなった。
「母さん、何を言い出すんだ」
文哉さんが笑った。
「僕がそんなことするわけないだろう」
「ほらね。文哉はあなたに誠実なの。夫婦はお互いに誠実で、家のお金は外に出さない。それだけのことよ」
「……はい」
絵里さんは椅子から立ち上がった。盆を持ち直して、台所のほうへ歩いていく。
「絵里、支度を頼む」
文哉さんが背中に言った。
「今日は母さんも弟たちも、わざわざ集まってくれたんだ。何品か、いいものを出してくれ」
「はい」
私はその背中を見送ってから、誠司の横顔を見た。彼は湯呑みに口をつけていなかった。
窓に面したカーテンは、裾の折り返しが片側だけ長く、床に少し溜まっている。
夕食のあいだ、絵里さんはほとんど座らなかった。
鍋を運び、取り分け、空いた皿を下げ、途中で二階に上がって娘の分を届け、また下りてきた。
「絵里さんのお料理、上手ですよねえ」
弘子さんが箸を置いて言った。
「わたしが教えたわけでもないのに」
「母さんのほうが上手だよ」
文哉さんが言った。
「絵里のは味が薄い。母さんのは、ちゃんと味がついてる」
「あら、そんなこと」
台所で水の音がしている。誰も、その音のほうを見なかった。
桃子さんが煮物を一つ取って、確かに薄いね、と言った。晃平さんは何も言わずに食べている。
皿が下げられ、茶が入れ替わり、桃子さんが果物を食べ終えた頃、文哉さんが立ち上がった。
部屋の中央に戻って、木の椅子の背に手をかける。
座面を、こちらへ向け直した。




