第二話 作った人だけ、箸をつけない
酢をつけた一つ目を、桃子さんが口に入れた。噛む音が二回して、それから止まる。
「熱い」
そう言って湯呑みに手を伸ばし、二つ目を取った。この人は昔から、食べる速さで機嫌を直す人らしい。
「やっぱりお母さんのが一番。文哉兄さん、食べないの」
「食べてる」
「三か月ぶりだからね。お母さん、二番目の家にばっかり行ってるんだもん」
桃子さんは三つ目を口に入れて、四つ目に箸を伸ばした。絵里さんと晃平さんも、酢の小皿を回しながら食べている。
文哉さんは最初の一口を飲み込んでから、二つ目を割った。
「母さん、今日のは味が」
「口に合いませんか」
私は自分の椅子に座って、茶碗を前に置いたまま聞いた。
「いや。少し、塩が」
「塩じゃなくて、油じゃない?」
桃子さんが口を動かしたまま言った。
「ちょっと重いよね。でも、お母さんが朝から作ったんだから」
絵里さんが口元を押さえて、箸を置いた。指先で何かをつまみ出す。
湿った、白いもの。
「……これ」
丸まったティッシュだった。餡の色がしみて、縁が灰色になっている。
「お義姉さん、それ」
晃平さんが自分の口から、米粒と、揚げ物の衣らしいものを手のひらに出した。
「僕のにも、何か入ってます。米と……カレーの匂いがする」
文哉さんが二つ目を吐き出して、卓に置いた。細い、切れた麺が餡から出ている。
「これはなんだ」
「麺、ですね」
私は答えた。
「餃子の中に麺は入れません」
「じゃあ、なんで入ってる」
「それは、包んだ人に聞いてください」
「作ったのは母さんだ」
「ええ」
私は肯いた。
「今朝、この台所で。最初から最後まで、一人で」
そのとき、桃子さんの奥歯で硬い音が鳴った。
「痛っ」
口元を押さえて、手のひらに何か落とす。
小さな骨だった。鶏の、脚の先のあたりの。
「なにこれ」
「骨です」
「聞いてない。それに、皮が変。土みたいな味がする」
「土」
晃平さんが自分の皮を割って、匂いを嗅いだ。絵里さんは箸を置いたまま、もう手を伸ばさない。
桃子さんは水を飲んで、口をゆすいで、また飲んだ。四人の前の茶碗は、どれも残っている。
「さっきまで、誰よりも褒めていらっしゃいましたよね」
私は弘子さんを見た。
「お義母さん。召し上がってください」
弘子さんの茶碗からは、もう湯気が上がっていない。彼女は膝の上の手を組み替えただけだった。
「わたしは、いいの」
「どうしてですか」
「食欲がなくて」
「私には毎朝食べろって言って、ご自分は食べないんですか」
弘子さんの目が、初めて私を正面から見た。
*
「沙穂さん」
弘子さんの声が変わった。
「あなた、餡と粉に、何を入れたの」
居間の空気が動いた。文哉さんが私を見て、桃子さんが立ち上がる。
「お母さん、それ本当?」
「わたし、朝から作っただけなのに」
「沙穂さん、答えてください」
文哉さんが立ち上がった。
「これは、もう家の話では済まない。あなたは家族に何を食べさせた」
「今朝、ごみ箱に入っていたものです」
「……は?」
「動画をご覧になったでしょう。お義母さんが撮って、みなさんに送った動画です。あそこに映っていたものを、お義母さんが拾って、包み直して、冷凍庫に戻した。私はそれを茹でました」
桃子さんが口を押さえた。
「そう言いますか」
私は自分の茶碗を持った。
「そう言うんですね」
持ち上げて、弘子さんの顔の高さで傾けた。
茹で汁と餃子が、彼女の額から胸まで落ちていった。
「あっ!」
弘子さんが悲鳴を上げて、両手で顔を覆う。
「沙穂さん、何を」
晃平さんが椅子を倒して立った。絵里さんは口を押さえたまま後ろへ下がる。
「お母さん。お母さん、見せて」
「どけ」
文哉さんが母親の腕を掴んで、台所へ引きずるように連れていった。蛇口をひねる音。
「顔を出して。早く」
「文哉、待っ――」
「いいから」
私は戸口から見ていた。文哉さんは弘子さんの後頭部に手を置いて、水を張ったシンクへ、そのまま押し込んだ。
弘子さんの足が床を蹴る。
「やめて」
絵里さんが夫の腕にしがみついた。晃平さんが反対側から肩を引く。
「文哉さん、離して。離してください」
引き剥がされた弘子さんが、シンクの縁を掴んで咳き込んだ。
水が口から出て、続けて出ない。息が入っていかないらしい。
「冷やさないと皮が」
「冷やす必要はありません」
私は言った。
「熱くありませんから」
「何を言っている」
「ご自分でお触りになれば分かります」
文哉さんが母親の頬に手を当てた。
当てて、手を引いた。もう一度当てた。
そのあいだに、桃子さんが私の前まで来ている。
「あんた、何なの」
腕が上がる。
私はもう一つの茶碗を掴んで、彼女の足元に叩きつけた。
陶器が割れて、餃子と汁が床に散った。桃子さんが跳ねるように後ろへ下がる。
「桃子、下がって。そこに破片がある」
晃平さんが腰を抱えて、彼女を卓の向こうへ引いた。
「私のお母さんが、この年まで、こんな目に遭わされたことある?」
「私もありません」
私は割れた茶碗を見ながら答えた。
「今日が初めてです」
*
桃子さんがスマートフォンを出した。
「警察を呼ぶ。傷害だから」
1、1、と押した指が三つ目へ行く前に、文哉さんが取り上げた。
「やめろ」
「なんで」
「家のことで警察なんて、恥だ」
「恥? お母さんが火傷させられてるのに!」
台所から、弘子さんの声が届いた。濡れた髪が顔に貼りついたまま、彼女は戸口に立っていた。
「わたしが悪いのよ」
「お母さん」
「年を取って、役に立たなくなったから、疎まれるの」
彼女は玄関のほうへ歩き出した。
「もういい。外へ出て、車にひかれて死んでやる」
サンダルを引っかけて、扉を開けて、出ていった。
「母さん」
文哉さんが走る。桃子さんと晃平さんが続き、絵里さんは盆に湯呑みを集めてから、それを置いて出ていった。
廊下の足音が遠くなり、エレベーターの音が二回。
窓から下を見ると、文哉さんが母親の肘を支えて、駐車場のほうへ歩いていた。桃子さんが横で何か言っている。
弘子さんは道路のほうを見なかった。
私は居間に戻る。
割れた茶碗を新聞紙に包み、床の汁を拭いて、餃子を拾った。
全部で38個あった。それをまとめて、袋の口を縛る。
酢の小皿を洗うとき、底の糊がやっと爪から落ちた。
呼んでもいない神様を、三か月かけて、やっと送り出した。
*
鍵屋に電話をしたのは、午後2時過ぎだった。
「今日中に来られますか」
「玄関の交換でしたら、夕方には伺えます」
作業は40分で終わった。新しい暗証番号を打ち込んで、二度確認する。
その人が帰ったあと、玄関の内側から、扉をもう一度押してみた。動かない。
スマートフォンには、家族グループの通知が二十件以上たまっていた。開かずに、通知だけ切る。
義母の部屋の窓を開けて、布団を畳み、荷物をまとめて、段ボールと一緒に玄関に寄せた。明日、誰かが取りに来るだろう。
台所の換気扇を回したまま、窓も開けた。
私は自分の部屋に入り、椅子を引いて、机に向かう。
この椅子は、私が自分で選んで、自分の金で買った。座面の高さも、背もたれの角度も、私に合わせてある。
画面には、四日前に止まったままの原稿がある。第三章の途中、会話の返しが決まらずに放り出した行だ。
締切まで、あと17日。
カーソルが点滅していた。
私はその行を消して、打ち直した。




