第一話 捨てた餃子を、どうぞ
冷凍庫の扉を開けると、冷たい空気が首まで下りてきた。
保存容器が三つ。蓋にマスキングテープが貼ってあって、義母の字で日付と「ぎょうざ」と書いてある。
私は三つとも抱えて、台所のごみ箱の前に立った。一つ目の蓋を外す。
凍った餃子が、かたまりのまま袋の底に落ちた。
音は思ったより乾いていて、そのあとは何も聞こえない。二つ目を傾けているとき、玄関の鍵が回った。
「沙穂さん、わたし、お財布を忘れ――」
義母の声が途中で止まる。
私は容器を持ったまま振り返った。義母の目は私の手にも顔にも来なくて、ごみ箱の中だけを見ている。
それから、エプロンのポケットからスマートフォンを出した。指は震えていたけれど、画面を横にする手つきに迷いはない。
「見てください、みなさん。お嫁さんに作った餃子が、全部」
レンズがごみ箱を映す。
「わたし、何をしたんでしょうか。どうして、こんなに憎まれるんでしょう」
送信の音が、狭い台所でよく響いた。家族のグループに、動画が一本。
私は容器を流しに置いた。
弘子さんは撮り終えると、袖をまくって、ごみ箱に手を入れた。一つずつ、丁寧に拾う。
私は黙って冷凍庫から空の容器を出し、蓋を開けて、彼女の手の届く位置に置いた。彼女はそこへ並べていく。
袋の中で凍っていたから、ほとんどは無事だった。皮が破れて餡がのぞいているものが、十数個。
弘子さんはそれを別のボウルに分けて、粉を出し、水をはかり、まな板を拭いた。皮を打ち直すつもりらしい。
私は洗った手を拭いて、彼女の作業が終わるまで、流し台の端に立っていた。
泣きながらでも、彼女の手は正確だ。餡をすくう匙の角度も、皮の縁を合わせる指も。
30分ほどで、破れていた分はすべて包み直された。私は容器を急速冷凍の段に戻す。
その間、どちらも一言も言わなかった。こういうときの私たちは、驚くほど息が合う。
チャイムが鳴ったのは、それから20分後だった。
*
玄関で弘子さんの泣き声が高くなった。続いて、低い男の声。
「母さん、まず座って。沙穂さんは」
義兄の文哉さんだ。そのうしろから、靴を脱ぐ音が三つ。
「沙穂さん。出てきてください」
桃子さんの声は、廊下の途中からもう尖っていた。
「桃子。呼び方があるだろう」
「呼び方? あの人に、お義姉さんって言えってこと?」
私は台所の戸口を出て、居間に入った。五人が立ったまま、ばらばらの方向を向いている。
ベランダに面した椅子だけが空いていた。この三か月、弘子さんが一日の大半を過ごしている場所だ。
弘子さんは文哉さんの腕を掴んで、床を見ている。
絵里さんは湯呑みを乗せた盆を持ったまま、置く場所を探している。晃平さんは、桃子さんと私の間に、体半分だけ入っていた。
「沙穂さん、座ってください」
文哉さんが自分の向かいの席を示す。私は座った。
桃子さんは座らなかった。
「私のお母さんが、何をしたんですか」
「ニラを一本ずつ洗って、朝の4時から」
「手が冷たくなるまで包んで、あなたのために冷凍庫に入れて」
「それを、ごみ箱」
一息に来る。
私は口を開いた。
「あの餃子は」
「まだ何か言うんですか」
桃子さんの声がかぶさった。
「実家では何もしなくてよかったんでしょうね。お母さん、掃除も洗濯もしてたって聞いてます」
「年金は全部あなたに使ってるって、本人が言ってました。それ、どういうことか分かってますか」
弘子さんが、ここで初めて顔を上げた。
「桃子、いいのよ。わたしが至らないから」
「よくない。お母さんはいつもそう」
文哉さんが手のひらを下に向けて、妹を制した。
「沙穂さん、あれがどうやって出来ているか、知っていますか」
「母さんは、ニラの根元を一本ずつ開いて、砂を落とすんです」
「豚も、脂身が苦手だと聞いてから、ずっともも肉です。機械で挽いた餡は香りが立たないと言って、包丁で叩く」
「皮まで手で打つ人は、今どきそういません。市販のものを買えば十分なのに」
それは本当だ。婚約中に初めてこの人の餃子を食べたとき、私は皿を見て、店で出るものより美味しいと言った。
言ったことを、いま取り消すつもりはない。
弘子さんが、膝の上のハンカチを握り直した。
「わたし、朝の4時から、手がこんなになるまで作ったのに」
「ひと口も食べてくれないのね」
「お義母さん、私は」
「いいの、いいの。わたしが悪いんだから」
彼女は顔を伏せて、肩を小さく震わせた。文哉さんが妹より先に口を開く。
「順番に話そう。沙穂さん、理由を聞かせてください」
私は息を整えた。
「誠司が、前に言ってたんです。食べたくないものは、無理に食べずに捨てていいと」
「誠司がそんなことを言うわけがない」
文哉さんの声から、さっきまでのなめらかさが消えた。
「弟は今、連絡が取れない。いないときに弟の名前を出すのは、いちばんやってはいけないことだ」
「本当に言われたんです。結婚する前に」
「じゃあ、証明してください」
桃子さんが手を出した。
「今すぐ電話して、確かめてもらえばいい」
できない。
3月の末に出港してから、夫の私物の携帯は預けられたままだ。寄港しても返されない。
彼らはそれを知っていて言っている。
「お義母さんには、私も助けてもらってます」
絵里さんが、盆を胸の前で持ったまま言った。
「うちにも来ていただいて、杏奈の送り迎えをお願いしてました。差をつける方ではないと思います」
「僕も、お義母さんが誰かを差別するとは思えません。ここで言い合っても……」
晃平さんが言いかけて、口をつぐんだ。
「ほら」
桃子さんが私を見た。
「お義姉さんも晃平も、杉本の血は入ってないんです。それでも同じように可愛がってもらってる」
「あなただけ特別扱いされてるっていうなら、それは、あなたが何かしたからです」
「朝ごはん、昼ごはん、晩ごはん。全部お母さんが作って、あなたの前まで運んでた」
「床を拭いて、洗濯をして、あなたの下着まで畳んでた」
「この三か月、あなたが自分でしたこと、一つでも言えますか」
私は洗濯機の使用履歴を思い浮かべた。言っても、この場では数字が数字として聞かれない。
私はもう一度言おうとした。
「あの餃子を捨てたのは」
「謝ってください」
桃子さんの声が、また上にかぶさった。
「私のお母さんにそんなことして、まだ仕事の話?」
仕事の話は、まだ一言もしていない。
締切のことも、昨日まで三晩続けて明け方まで書いていたことも、この部屋の誰にも言っていない。言えば、それは言い訳という名前に変わる。
私は膝の上で指を組んで、桃子さんの靴下の縫い目を見ていた。
*
時計が12時を回った。
私は立ち上がった。
「お昼、用意します」
「わたしが」
弘子さんが腰を浮かせる。
「沙穂さんは、お料理は」
「できないなら覚えればいい」
桃子さんが母親の肩を押し戻した。
「嫁いだんだから、するのは本人でしょ。お母さんがいつまでやるの」
「味が保証できないわよ」
「かまわない。出てきたものは食べます。何でもね」
「桃子、言い方」
「本当のことだから。お義姉さんだって、うちのお母さんの餃子、もう三か月食べてないでしょ」
「……ええ」
絵里さんが盆を下ろした。
「わたしのは、冷凍庫にあるんです」
弘子さんが言いかけて、私を見た。
「毎朝、一人分ずつ茹でて食べられるように、と思って」
「では、今日はみなさんで召し上がってください」
私は台所へ向かう。うしろで桃子さんが何か言ったが、換気扇を回したので聞こえなかった。
いちばん大きな鍋を出した。水を張って、火にかける。
冷凍庫から三つの容器を出して、蓋を開けた。湯が立ちはじめたところへ、全部入れる。
浮いてくるまでの間に、酢を小皿に移した。底に値札の糊が残っていて、指に引っかかる。
茶碗を六つ並べた。文哉さん、絵里さん、桃子さん、晃平さん、弘子さん、私。
爪で糊を削ったが、きれいには取れない。そのまま卓に置いた。
最後の一つだけ、盆に乗せる前に蛇口の下へ持っていった。
湯気が薄くなる。盆に乗せて、二回に分けて運んだ。
「どうぞ」
一つずつ、全員の前に置いていく。弘子さんの前にも置いた。
彼女は茶碗を見て、膝の上で手を重ねた。
「お義母さんも、召し上がってください」
「……あとで」
「よく煮えてます」
酢の小皿が回る。
文哉さんが箸を取って、湯気に息を吹きかけた。
晃平さんが絵里さんに小皿を渡す。
桃子さんは箸先をまっすぐ茶碗に入れて、いちばん上の一つをつまみ上げた。




