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栄華を極めた筈の愛の王国の没落記  作者: ふーわ
第1章 山裾の村での幸福だった日常
7/24

エレノアの娘


「明日は晴れるよ」




セレスは、泣きそうになるのを堪えながら言った。




「だって今日は星が見えるもん」




窓の外。

雪雲の切れ間から、淡い星明かりが覗いている。


エレノアは静かに目を細めた。




「そうね」




微笑む。

その笑顔は、ひどく穏やかだった。




「春も、もうすぐでしょうか」


「それは、まだだよ」




セレスは首を振る。




「こんなに雪積もってる」


「ふふ……そうでした」




小さく笑う。

その笑い声さえ、今は弱々しい。


セレスはたまらなくなって、母の手を握った。


冷たい。

昼よりずっと。




「お母さま」


「はい」


「春になったら、花見に行こうね」




エレノアが少し目を見開く。




「この前言ってた青い花のところ」


「……ええ」


「だから、ちゃんと元気になって」




沈黙。

ほんの数秒なのに、やけに長く感じた。


やがてエレノアは、そっと頷く。




「約束ですね」




その言葉に、セレスは少しだけ安心する。


約束した。

なら、きっと大丈夫だ。

子どもみたいな考えだと分かっていても、そう思いたかった。


セオドアは黙ったまま、その様子を見ていた。


苦しそうに。

何かに耐えるみたいに。




「兄上」




エレノアが静かに呼ぶ。

セオドアが顔を上げた。




「少しだけ、お話をしても?」


「……ああ」




彼は立ち上がり、寝台の傍へ歩み寄る。


エレノアはセレスを見る。




「セレス、少しだけお茶を淹れてきてくださる?」




セレスは一瞬迷った。

本当は離れたくない。


でも。




「……うん」




小さく頷く。

台所へ向かいながら、背後を振り返る。


エレノアとセオドアが何か話している。


声は聞こえない。

けれど。

セオドアの顔がどんどん苦しそうに歪んでいくのだけは見えた。


セレスは胸がざわついた。

嫌な感じがする。

でも盗み聞きするのも悪い気がして、黙って湯を沸かす。


しばらくして。

微かに、セオドアの掠れた声が聞こえた。




「……本当に、伝えなくていいのか」




何の話だろう。

続くエレノアの声は小さすぎて聞き取れない。


ただ。

次に聞こえたセオドアの声は、痛いほど苦しげだった。




「……あまりにも酷い」




セレスは思わず手を止める。


酷い?

何が?


だが、それ以上は聞こえなかった。


やがて二人の会話が終わった気配がして、セレスは慌てて茶器を持って戻る。

セオドアはいつもの無表情に戻っていた。


でも目だけが赤い。

泣いていたのかもしれない、とセレスは思った。




「ありがとう」




エレノアが柔らかく笑う。

セレスはお茶を差し出しながら、そっと母を見る。


やっぱり顔色が悪い。

笑っていても分かる。

呼吸も浅い。




「……今日はもう寝よう?」




エレノアは少しだけ考えるように目を伏せた。


そして。




「そうですね」




静かに頷いた。

セレスは寝台の横へ椅子を寄せる。




「私、ここにいるから」


「ベッドで眠りなさい」


「嫌」




即答だった。


エレノアが困ったように笑う。

セオドアも小さく息を吐いた。




「頑固だな」


「お母さまが心配なの」




そう返すと、セオドアは何も言えなくなる。

エレノアはそんな二人を見て、くすりと笑った。




「本当に、似た者同士ですね」




その声は穏やかで。

幸せそうですらあった。


夜は静かに更けていく。

暖炉の火が小さく揺れる。


セレスは母の手を握ったまま、必死に眠気へ抗っていた。


もし眠ってしまったら。

次に目を開けた時、母がいなくなってしまう気がして。


怖かった。




気づけば、うとうとしていたらしい。


はっと目を覚ました時、暖炉の火は小さくなっていた。


窓の外はまだ暗い。

夜明け前。


静まり返った家の中で、薪の爆ぜる音だけが微かに響いている。




「……お母さま」




反射的に寝台を見る。


エレノアは眠っていた。


穏やかな顔。

呼吸も、落ち着いているように見える。


セレスは小さく安堵の息を吐いた。


よかった。

そう思った瞬間だった。




「起きたか」




低い声。

振り返ると、セオドアが窓際に立っていた。


ずっと起きていたのだろう。


外套を羽織ったまま、外の雪景色を見ている。


「……公爵様、寝てないの?」


「眠れん」




短い返事。

セレスは少し迷ってから、小声で尋ねた。




「お母さま、大丈夫そう?」




セオドアは答えなかった。

その沈黙だけで、全部分かってしまう。


胸がぎゅっと痛む。




「……嫌だ」




ぽつりと零れた。




「嫌だよ……」




セオドアが目を伏せる。

その横顔は、ひどく疲れて見えた。




「……セレス」


「なに」


「エレノアは、強い人だった」




突然の言葉に、セレスは瞬きをする。




「誰より優しくて、誰より誇り高かった」




静かな声。




「だから私は、あいつならどんなことでも耐えられると思っていた」




後悔が滲む。




「……でも違った」




セレスは黙って聞いていた。




「人は、壊れる」




その一言が、重く落ちる。

セオドアは窓の外を見つめたまま続けた。




「どれほど強い人間でも、傷つき続ければ壊れてしまう」




セレスの脳裏に、母の笑顔が浮かぶ。


優しくて。

綺麗で。

でもどこか、ずっと寂しそうだった。




「私は、それに気づくのが遅すぎた」




掠れた声。

セレスは胸が痛くなる。


この人も、苦しんでいる。

母を守れなかったことを、ずっと後悔しているのだ。




「……でも」




セレスは小さく口を開く。




「お母さま、公爵様のこと好きだと思う」




セオドアが僅かに目を見開いた。




「だって、来てくれて嬉しそうだった」




あんな顔、初めて見た。


安心したみたいな。

泣きそうな顔。


セオドアはしばらく何も言わなかった。

やがて、ふっと苦く笑う。




「……そうだと、いいんだがな」




その時だった。




「兄上……セレス……」




か細い声。

二人が同時に振り返る。

エレノアが目を開けていた。




「お母さま!」




セレスは慌てて傍へ駆け寄る。


だが、その瞬間。

心臓が凍りついた。


エレノアの顔色が、昨日までより明らかに悪い。


青白い。

呼吸も浅く、途切れ途切れだ。




「水……!」




セレスが震える声を上げる。

セオドアがすぐ杯を持ってくる。


だがエレノアは、少し口をつけただけで苦しそうに咳き込んだ。




「っ……!」




赤い血が、白い布を汚す。

セレスの頭が真っ白になる。




「お母さま……!」




震える手で背をさする。


冷たい。

身体が、恐ろしいほど。


エレノアは息を整えようとしながら、それでも微笑んだ。




「そんな顔をしないで」


「できないよ……!」




涙が溢れる。




「嫌だ、嫌だよ……!」




エレノアはゆっくりと娘へ手を伸ばした。

細い指先は震えている。




「セレス」




優しい声だった。




「貴女に会えて、幸せでした」




その言葉に。

セレスの中で、何かが崩れた。




「やめて……」




理解したくなかった。

でも分かってしまう。


これは、別れの言葉だ。




「やめて、お母さま……!」




エレノアは涙を流す娘を見つめ、泣きそうに微笑んだ。




「愛しています」




その瞬間。

窓の外で、朝日が雪を照らした。


長い冬の終わりを告げるような、淡い光。




「お母さま……!」




セレスは縋るようにエレノアの手を握った。


冷たい。

あまりにも。




「嫌、嫌だよ……!」




涙が止まらない。


視界が滲む。

エレノアの顔がぼやけて見えた。

それでも母は、穏やかに笑っている。


どうして。

どうしてそんな顔ができるの。




「……泣かないで」




掠れた声。

息をするだけでも苦しいはずなのに、エレノアは娘を安心させようとしていた。




「無理だよ……!」




セレスは何度も首を振る。




「だって、お母さま、いなくなっちゃう……!」




エレノアの瞳が揺れる。

その目に、初めてはっきりと涙が浮かんだ。




「ごめんなさい」


「謝らないでよ……!」




苦しい。

胸が裂けそうだった。


どうして人は死ぬの。

どうして母じゃなきゃいけないの。




「……兄上」




エレノアが静かに呼ぶ。

セオドアが寝台の傍へ膝をついた。


彼はずっと黙っていた。

けれど今、その顔は痛々しいほど歪んでいる。




「頼みます」




短い言葉。

それだけで十分だった。


セオドアは目を閉じ、深く頷く。




「ああ」




掠れた声。




「必ず守る」




エレノアが安堵したように息を吐く。

そして再び、セレスを見る。




「セレス」


「……なに」


「貴女は、誰より幸せになれる子です」




セレスは泣きながら首を振る。




「お母さまがいないのに、幸せになんかなれない」




その言葉に、エレノアは少しだけ困ったように笑った。




「そんなことありません」


「あるもん……!」


「ありませんよ」




静かな声。


優しく言い聞かせるような。




「貴女は、優しいから」




セレスは唇を噛む。

優しいなんて分からない。

今の自分の中には、苦しくて黒い感情しかない。




「……憎まないで」




不意に、エレノアがそう言った。

セレスが目を見開く。




「お母さま?」


「誰かを憎み続けるのは、とても苦しいことだから」




王家のことだ、と分かった。

昨日から芽生え始めた黒い感情。


それを、母は気づいている。




「でも……!」




許せない。

母をこんな目に遭わせた人たちを。




「私はね」




エレノアが微笑む。




「貴女と過ごせて、幸せでした」




穏やかな声だった。




「だから、もう十分なのです」




セレスには理解できない。


どうしてそんなふうに言えるの。

全部奪われたのに。

傷つけられたのに。


それでも母は、最後まで優しい。




「……お母さま」




涙で声が震える。




「私、お母さまみたいになりたい」




エレノアの目が大きく見開かれた。

まるで、予想もしなかった言葉を聞いたみたいに。




「だから、いなくならないで」




子どもじみた願いだった。

でも止められない。




「もっと教えてよ……」




勉強も。

花のことも。

お茶の淹れ方も。

優しい笑い方も。


まだ何も足りないのに。


エレノアは泣きそうに目を細めた。


そして。

震える指で、そっとセレスの頬を撫でる。




「……ありがとう」




掠れた声。




「そんなふうに言ってもらえて、私は幸せです」




呼吸が乱れる。

苦しそうに咳き込み、小さく血を吐く。


セレスは悲鳴みたいな声を漏らした。




「お母さま!」




セオドアも顔を歪める。

だが、もうどうしようもないのだと分かってしまう。


エレノアは浅い呼吸を繰り返しながら、それでも娘から目を離さなかった。




「セレス」


「……っ」


「愛しています」




その言葉は、呪いみたいに優しかった。


セレスは泣き崩れる。

エレノアの手を握ったまま、何度も首を振った。


嫌だ。

行かないで。

一人にしないで。


だが。


細い指先から、少しずつ力が抜けていく。




「お母さま……?」




返事はない。

セレスは呆然と母を見つめる。


涙で滲んだ視界の中、エレノアは静かに目を閉じていた。

まるで眠っているみたいに穏やかな顔。




「……やだ」




震える声が漏れる。




「やだ、お母さま……」




握った手は冷たい。

さっきまで、ちゃんと動いていたのに。




「起きてよ……」




肩を揺する。

けれど、エレノアは動かない。




「お母さま……!」




声が裏返る。

呼吸が苦しい。


胸が痛い。

こんなの嘘だと思いたかった。




「お母さまぁっ……!」




泣き崩れるセレスを、セオドアはただ見つめていた。

その顔には深い悲痛が刻まれている。

やがて彼は静かにエレノアの額へ触れた。


長い沈黙。

そして。




「……エレノア」




掠れた声で妹の名を呼ぶ。


それだけだった。

それ以上、何も言えなかった。


セレスは母へ縋りついたまま泣き続ける。


嫌だ。

認めたくない。


だってさっきまで笑っていたのに。

優しく名前を呼んでくれたのに。


どうして。

どうしてこんな簡単にいなくなってしまうの。




「……っ、ぅ……!」




涙が止まらない。


息ができない。

そんなセレスの背へ、そっと大きな手が置かれた。


セオドアだった。




「……泣け」




低い声。




「今は、それでいい」




その声も震えていた。


セレスは顔を上げる。

初めて見た。


この人が泣いているのを。

灰青色の瞳から、静かに涙が落ちていた。


きっと。

この人も、大切だったのだ。


母のことが。




「……公爵様、」




掠れた声で呼ぶ。

セオドアは静かにセレスを見た。


その目には、深い痛みと、明確な決意があった。




「セレス」





彼はゆっくり膝をつく。

少女と視線を合わせるために。




「エレノアは、お前を誰より愛していた」




セレスの唇が震える。




「だから」




セオドアの大きな手が、そっとセレスの頭を撫でた。




「お前は、一人じゃない」




その言葉に。

セレスの涙がまた溢れた。


一人じゃない。

そんなこと、今は信じられない。

母がいない世界なんて、全部空っぽだ。


でも、それでも。

この人は、自分を置いていかないと言っている。




「……お母さま、との約束だから?」




泣きながら尋ねる。

セオドアは少しだけ目を見開いた。


そして。




「そうだ。兄は、妹との約束は破らない。」




たったその一言が。

凍えた胸へ、じんわり染み込んだ。


セオドアは立ち上がる。

窓の外では、朝日が雪を照らしていた。


白い世界。

けれどどこか、冬の終わりを感じさせる光だった。




「……エレノアを弔って、王都へ行く準備をしよう」


「王都……。」


「セオドア・フォン・アルヴェインの名に誓って、セレスを決して1人にはしない。」




その言葉に、セレスは顔を上げる。


王都。

母が追われた場所。

傷ついた場所。


そして。

自分の知らない全てがある場所。


セレスは静かに、眠る母を見つめた。


憎まないで。と、最後に言われた言葉が蘇る。


けれど。

胸の奥へ落ちた黒い感情は、まだ消えなかった。


優しかった母を壊した世界。

それを。


セレスは、まだ許せそうになかった。




これが。


後に王国を滅ぼすことになる、一人の少女の始まりだった。


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