初めての友人
「殿下」
落ち着いた女性の声。
全員がそちらを見て、人々が自然と道を開く。
現れたのは一人の少女だった。
セレスティアと同じくらいの年齢。
淡い金髪。
柔らかな桃色の瞳。
華美ではない。
だが目を引く。
気品がある。
立ち姿が美しい。
そして何より、完璧だった。
姿勢も。
礼も。
歩き方も。
何もかも。
アシュレイならきっと百点を付けるだろう。
「ご機嫌よう」
少女はまずセレスティアへ礼を取った。
完璧な淑女の礼。
「初めまして」
穏やかに微笑む。
「マリアンヌ・シュタル・ローゼンベルクと申します」
侯爵令嬢。
王太子の婚約者。
未来の王太子妃。
その人だった。
セレスティアは反射的に礼を返す。
「セレスティア・フォン・アルヴェインです」
マリアンヌは柔らかく微笑んだ。
「お会いできて嬉しいです」
その言葉に嘘は感じない。
本当にそう思っているようだった。
そして、セレスティアは思う。
ああ、この人は善い人なのだろう。
少なくとも、今目の前にいる、明らかに機嫌が悪くなった王太子よりはずっと。
そう思った瞬間。
隣のサイラスが小さく目を閉じた。
ディモンも僅かに眉を動かす。
兄たちも同じ結論に至ったらしい。
そして当の王太子だけが不満そうな顔をしていた。
婚約者が来たそれだけのことではないのだろうか。
むしろ良かったと思う。
先ほどから周囲の視線が少し痛かったから。
「改めまして」
マリアンヌが微笑む。
「お披露目、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「お噂は以前から伺っていました」
柔らかな声だった。
だがその言葉にセレスティアは少しだけ警戒する。
噂。
その言葉の後に続く内容は、良くも悪くも大抵母のことだからだ。
けれどマリアンヌは違った。
「刺繍がお得意だとか」
「え?」
思わず間抜けな声が出た。
マリアンヌが瞬く。
「違いましたか?」
「いえ、確かに、刺繍は得意ですけれど……」
予想外だった。
母ではなく。
刺繍。
「素敵ですわ」
マリアンヌは本当に嬉しそうに言う。
「私、刺繍は苦手なのです」
「そうなんですか?」
「ええ」
少しだけ困ったように笑う。
「先生にはよく叱られます」
その瞬間、セレスティアの中で何かが崩れた。
完璧だと思っていた。
王太子妃教育を受ける侯爵令嬢。
未来の王妃。
王太子に声をかけたときから今まで何もかも完璧な人。
けれど苦手なこともあるらしい。
何だか少しだけ安心した。
「私もダンスは苦手です」
気付けば口にしていた。
「本当に?」
「兄さまによく笑われます」
「それは私もですわ」
二人で顔を見合わせる。
そして小さく笑った。
その光景を見て。
サイラスが目を丸くする。
ディモンも少し驚いていた。
セレスティアは人見知りではない。
だが、初対面の相手へここまで自然に話すことは珍しい。
ましてや貴族相手なら尚更だ。
「アカデミーへ入学されるのでしょう?」
マリアンヌが尋ねる。
「はい」
「楽しみです」
即答だった。
「同じ学年ですもの」
その言葉にセレスティアは少しだけ目を見開いた。
同じ学年。
同じ年齢。
そうだった。
当たり前のことなのに、今更気付く。
「……私もです」
自然と言葉が出る。
マリアンヌは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見てセレスティアは思う。
綺麗な人だ。
容姿ではなく人として心が。
無論、容姿も間違いなく綺麗なのだけれど。
「セレスティア様」
不意にマリアンヌが呼ぶ。
「はい」
「もしよろしければ」
少しだけ遠慮がちに。
「お友達になっていただけますか?」
その言葉にセレスティアは固まった。
友達。
村にはいた。
同年代の子も。
仲の良い子も。
けれど貴族になってからは違う。
皆礼儀正しい。
親切だ。
だが、どこか距離がある。
家柄。
立場。
しがらみ。
色々なものが間にある。
だから初めてだった。
こんな風に言われたのは。
「……はい」
返事はすぐに出た。
「ぜひ」
マリアンヌの表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「はい」
「嬉しいです」
本当に嬉しそうだった。
打算も。
計算も。
感じない。
だから、セレスティアも少し嬉しくなる。
そんな二人を見て、王太子は何とも言えない顔をしていた。
自分が話していた時より楽しそうだ。
そんなことを思っているのかもしれない。
サイラスは内心で溜息を吐いた。
気付いていない。
王太子は全く気付いていない。
目の前の少女がどういう人間か。
何を大切にしているか。
何を嫌うか。
そして、どれほど家族を愛しているか。
気付いていたら。
きっと今みたいな振る舞いはしない。
「マリアンヌさん」
「何でしょう?」
「今度、刺繍をお教えしましょうか」
セレスティアが言う。
するとマリアンヌの目が輝いた。
「本当ですか?」
「私でよければ」
「ぜひお願いします」
その様子が何だか可愛らしくて。
セレスティアは少しだけ笑った。
まだセレスティア自身も気付いていない。
この日。
この場所で。
出会ったこの少女が。
未来において、セレスティア・フォン・アルヴェインが、手放しで『友人』と呼ぶ、唯一の存在になることを。
マリアンヌとの会話はセレスティアにとって不思議なほど心地よかった。
社交界特有の探り合いがない。
言葉を選んではいる。
けれどそれは礼儀としてであって、駆け引きではない。
気付けば二人は刺繍の話から本の話へ。
本の話からアカデミーの話へと話題を移していた。
「寮へ入られるのですか?」
マリアンヌが尋ねる。
「その予定です。兄さまもそうなので」
セレスティアは頷く。
王都にあるアルヴェイン公爵家の屋敷から通えない距離ではない。
だが、アカデミーには貴族用の寮がある。
友人関係を築く意味も含め、基本的には入寮する者が多い。
「マリアンヌ様は?」
「私もです」
少しだけ困ったように笑う。
「けれど、実は少し不安で」
「不安?」
「家族と離れて暮らしたことがありませんから」
その言葉にセレスティアは小さく瞬きをした。
そして少しだけ親近感を覚える。
立場は全く違う。
育った環境も違う。
けれど、不安に思うことは同じなのだ。
「私もです」
「本当に?」
「はい」
正確には違う。
村で母と二人暮らしだった。
だが、今の家族と離れることが不安なのは本当だった。
ヴィオレッタ。
セオドア。
ディモン。
サイラス。
半年しか一緒に過ごしていないのに。
いつの間にか、離れがたい帰る場所になっていた。
「少し安心しました」
マリアンヌが言う。
「私もです」
二人は笑い合う。
その様子を見ていたヴィオレッタが、少し離れた場所で微笑んでいた。
サイラスは呆れたように肩を竦める。
「仲良くなるの早いなあ」
「珍しいな」
ディモンも頷く。
「セレスがあそこまで自然なのは」
「うん」
サイラスは素直に認めた。
「かなり珍しい」
本人は気付いていない。
だが家族から見れば明らかだった。
セレスティアは基本的に礼儀正しい。
誰に対しても誠実だ。
しかしどこか一歩引いている。
深く踏み込まない。
踏み込ませない。
そんな癖があった。
おそらく母を失ったことが理由なのだろう。
だが今のセレスティアにはそれがない。
マリアンヌ相手だけは、本当に年相応の少女に見えた。
やがて、楽団の演奏が変わる。
閉会が近いことを知らせる曲。
招待客たちも少しずつ帰り支度を始める。
「あ……」
マリアンヌが少し残念そうな顔をした。
「もうそんな時間ですのね」
「そうみたいです」
セレスティアも少し寂しい。
もっと話したかった。
そんなことを思う相手は久しぶりだった。
すると、マリアンヌが少し考えた後、意を決したように口を開く。
「セレスティア様」
「はい」
「アカデミーへ入学する前に、お茶会を開きませんか?」
「お茶会?」
「はい」
嬉しそうに微笑む。
「良ければ王都で、おすすめのパティスリーがあるので」
セレスティアは目を丸くした。
そして、すぐに笑顔になる。
「ぜひ」
「本当ですか?」
「はい」
「約束ですよ?」
「約束です」
小指を出しそうになって。
ここが社交界であることを思い出して慌てて止める。
マリアンヌも同じことを考えたのか。
少しだけ吹き出していた。
二人で顔を見合わせる。
また笑う。
その光景を見ながら王太子は何とも言えない顔をしていた。
それをサイラスは見なかったことにした。
それからさらにしばらくして。
お披露目会は無事に終了した。
最後の客を見送る。
玄関ホールにはアルヴェイン家の面々が並んでいた。
「本日はありがとうございました」
セオドアが挨拶する。
ヴィオレッタも優雅に礼を取る。
セレスティアも続く。
今日だけで何度礼をしたか分からない。
だが、不思議と疲労感より達成感の方が大きかった。
最後に帰るのは王家だった。
国王。
王妃。
王太子。
そしてマリアンヌ。
「セレスティア様」
馬車へ向かう前。
マリアンヌが小声で言う。
「忘れませんからね」
「私もです」
「お手紙を書きますわ」
「お返事します」
「絶対ですよ?」
「絶対です」
二人は笑い合う。
その様子を見たヴィオレッタの目が優しく細められた。
やがて馬車が出発する。
遠ざかっていく灯り。
夜風。
静寂。
全ての客が帰った後。
大きな扉が閉じられた。
その音と同時に。
「終わったぁぁぁ……」
セレスティアはその場で力が抜け、綺麗にへたり込んだ。
「おっと、」
「セレス!」
「お嬢様!」
「ちょっと待て」
慌てる使用人たち。
サイラスは盛大に吹き出した。
「だから言ったじゃん」
「兄さま……」
「よく頑張った」
頭を撫でられる。
ディモンも珍しく苦笑していた。
ヴィオレッタはしゃがみ込み、優しく頬へ触れる。
「お疲れ様」
その言葉に、セレスティアは少しだけ笑った。
初めての社交界。
初めてのお披露目会。
初めて出来た友人。
そして、明確な輪郭を得てしまった感情。
忘れられない一日になったことだけは、間違いなかった。
そして半年後。
アカデミーで待ち受ける運命をまだ誰も知らない。




