第8話 聖女、王都を去る
決行の日が、来た。
三日後の、未明。
空は、まだ暗い。
私は、一睡もできなかった。
胸が、ずっと高鳴っていた。
荷物は、最小限。
着替えと、わずかな食料。
それだけを、布に包んだ。
集合場所は、神殿の裏門。
一人、また一人と、聖女たちが集まってきた。
みんな、痩せていた。
青白い顔。
細い手足。
それでも、目には光があった。
「リーゼ」
小さな声に、振り向いた。
イサークだった。
息を、切らしている。
急いで来た様子だった。
「これを」
彼は、布に包んだものを差し出した。
受け取ると、ずしりと重かった。
「帳簿の、写しだ」
イサークは言った。
「寄進の、本当の使い道。
全部、書き写した」
私は、息を呑んだ。
「あなた……」
「これは、写しだ」
イサークは、繰り返した。
「原本は、私が神殿に残して、いざというとき自分で公開する。
写しは、君が外で、証拠として持っていてくれ」
「決めたんだ」
イサークは、眼鏡を押し上げた。
「君たちと、一緒に変えるって」
その手は、震えていた。
でも、目は、決まっていた。
「でも、私は行かない」
「えっ」
私は、驚いた。
「私は、ここに残る」
イサークは言った。
「内側から、証言する。
神殿が、何をしてきたか。
誰かが、中で証人にならなきゃいけない」
私は、胸が締めつけられた。
危険な役目だった。
残れば、疑われる。
下手をすれば、消される。
「そんな……あなたも、一緒に逃げて」
「だめだ」
イサークは、首を振った。
「逃げる人と、残って暴く人。
両方、いる」
その覚悟に、私は言葉を失った。
敵だと思っていた人が。
今、誰よりも勇敢だった。
「ありがとう」
私は、深く頭を下げた。
「絶対、無駄にしない」
「行け」
イサークは、門の外を指した。
「夜が明ける前に」
私は、帳簿の写しを、しっかりと抱えた。
「行こう、みんな」
聖女たちが、うなずいた。
裏門を、抜けた。
王都の街は、まだ眠っていた。
石畳が、足音を吸い込む。
私たちは、急いだ。
向かうのは、南の大門。
ここを抜ければ、街道に出られる。
でも、問題があった。
門番だ。
夜明け前に、聖女が大勢。
怪しまれるに、決まっている。
「あたしに任せて」
マレナさんが、前に出た。
赤毛を整え、背筋を伸ばす。
その瞬間。
彼女は、貴族の娘の顔になった。
「ご苦労様」
門番に、彼女は微笑んだ。
優雅で、堂々とした態度。
村育ちの私には、真似できない。
「こんな時間に、何用で」
門番が、訝しんだ。
「大祭の準備ですわ」
マレナさんは、すらすらと言った。
「祭壇に飾る、野草を摘みに。
夜明けの露がついたものが、一番清らかですの」
その口調は、自然だった。
よどみが、なかった。
門番は、少し迷った様子だった。
でも。
マレナさんの堂々とした態度に、押された。
「……分かりました。お通りください」
門が、開いた。
私たちは、外へ出た。
街道が、目の前に広がっていた。
南へ続く、長い道。
胸が、震えた。
外だ。
神殿の、外。
私は、振り返った。
王都ヴェルナ。
白い大聖堂が、夜明け前の薄闇に浮かんでいる。
そのとき。
神殿の方で、灯りが揺れた。
一つ、二つ。
慌ただしく、増えていく。
何か、起きている。
そう、感じた。
「気づかれたわね」
マレナさんが、低く言った。
聖女が、いない。
祈る者が、消えた。
神殿が、それに気づき始めたのだ。
「急ごう」
私は言った。
もう、後戻りはできない。
私たちは、南へ歩き出した。
東の空が、わずかに白み始めていた。
夜明けだ。
長い夜が、終わる。
私は、前を見た。
痩せた聖女たちが、荷を背負って歩いている。
重そうだった。
でも、誰も、止まらなかった。
「もう、祈らされない」
誰かが、つぶやいた。
その一言が、胸に染みた。
私たちは、自由に向かって歩いていた。
背後で。
神殿の灯りが、激しく揺れ続けていた。




