第6話 帳簿の在処
イサークという男に会うまで、数日かかった。
書記官は、いつも忙しい。
人目につかず話す機会を、マレナさんが作ってくれた。
会計室の、裏の小部屋。
そこに、その男はいた。
痩せた、神経質そうな人だった。
眼鏡をかけている。
私たちが入ると、彼は眼鏡を押し上げた。
「……何の用だ」
その目は、警戒していた。
私は、思い出した。
あの夜の廊下。
眼鏡が光ったような、あの瞬間。
もしかして。
あのとき聞いていたのは、この人?
でも、確証はなかった。
だから、口には出さなかった。
「帳簿のことで、来ました」
私は、まっすぐ言った。
イサークの肩が、びくりと動いた。
「……何のことか、分からないな」
「寄進が、大司祭様の部屋に運ばれてた」
私は言った。
「私、見たんです。金貨を」
「証拠でもあるのか」
「ない。だから、あなたに会いに来た」
イサークは、黙った。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて。
彼は、ため息をついた。
「帳簿は……ある」
私は、息を呑んだ。
「寄進の、本当の使い道。
表向きの帳簿とは、別に。
もう一つ、ある」
「やっぱり」
マレナさんが、低く言った。
「だが」
イサークは、首を振った。
「私には、どうにもできない。
逆らえば、私が消される」
その声には、恐れがあった。
私は、彼を見た。
敵だと思っていた。
神殿の手先だと。
でも。
この人も、怯えている。
「あなた」
私は聞いた。
「本当は、嫌なんじゃないですか」
イサークが、顔を上げた。
「私はね」
彼は、ぽつりと言った。
「命じられたんだ。
聖女の食費を、もっと削れ、と」
私は、自分の薄いスープを思い出した。
「断れなかった。
断れば、私の立場がなくなる。
だから、削った」
イサークの手が、震えていた。
「あの薄いスープは……私が作った数字だ。
君たちを、飢えさせてるのは、私だ」
その告白に、私は胸が痛んだ。
怒りより先に。
この人もまた、追い詰められているのだと、分かった。
「あなたも」
私は、静かに言った。
「被害者なんじゃないですか」
イサークが、目を見開いた。
「私たちと同じ。
神殿の仕組みに、縛られてる。
逆らえないように、されてる」
私は、彼に手を伸ばさなかった。
脅しもしなかった。
ただ、本当のことを言った。
「一緒に、変えませんか。
この、おかしな仕組みを」
イサークは、長いこと黙っていた。
眼鏡の奥の目が、揺れていた。
葛藤しているのが、見て取れた。
良心と、保身の間で。
「……すぐには、答えられない」
やがて、彼は言った。
「私にも、守るものがある。
立場が。
それを、簡単には捨てられない」
「分かります」
私は、うなずいた。
無理に、迫らなかった。
「だが」
イサークは、続けた。
「考えさせてくれ。
君たちが、いつか動くつもりなら……その日までに、答えを出す」
決行の日までに。
それは、拒絶ではなかった。
希望が、わずかに残った。
「待ってます」
私は言った。
私たちは、小部屋を出た。
廊下を歩きながら、マレナさんが言った。
「あの男、信じられると思う?」
「分からない」
私は、正直に答えた。
「でも、悪い人じゃない気がする」
「甘いわよ、あんた」
マレナさんは、肩をすくめた。
「裏切られても、知らないからね」
私は、何も言わなかった。
ただ、信じたかった。
力で人を従わせるより。
良心で、人が動くことを。
その夜。
私は、たまたま廊下で見てしまった。
大司祭オルゲンが。
イサークを、自室に呼びつけているのを。
「最近、聖女どもが騒がしい」
オルゲンの声が、漏れ聞こえた。
「お前、見張れ。
妙な動きがあれば、すぐ報告しろ」
私は、息を殺した。
イサークは、板挟みになっている。
私たちと、大司祭の間で。
彼は、どちらを選ぶのか。
胸の奥が、ひやりと冷えた。




