表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白冠王国旧領奪回戦記  作者: Chroe


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/7

第四話 夜明け前の渡り 前編


灰家衆は、既に動き始めていた。

水鳴りの北、湿地へと落ちる細い道の手前に、灰色の布が三つ結ばれている。


ひとつは低い枝に。

ひとつは折れた杭に。

もうひとつは、誰かが捨てた古い荷紐に。


ロイドはその印を見て、足を止めた。


「境ですね。ここから先は、王国の道ではありません」


湿地の奥で、枝が鳴った。

近衛が剣に手をかける。

アルベリクは、それを手で制した。


「出てきてくれ」


返事はない。

代わりに、闇の中から声がした。


「王は、どこまで来るつもりだ」


声は若かった。

だが、ただ若いだけではない。

人に命じることに慣れ始めた者の声だった。


「評議会本部まで」


アルベリクは答えた。

闇の中で、弓弦がかすかに鳴る。


「なら、この道は貸せない」

「今夜、この道を軍道にするつもりはない」

「本部へ行くなら同じことだろう」

「違う」


アルベリクは、湿地の奥を見た。


「評議会へ届くために、水鳴りへの道を踏み荒らすつもりはない。だが、ここを越えられなければ、王国軍はまた正面の橋へ戻ることになる」

「王国の都合だ」

「そうだ」


アルベリクは否定しなかった。


「だが、王国の都合だけでもない。水鳴りにはまだ人がいる。しかし正面の道は、彼らを止めるための道になっている」


闇の中で、何かが動いた。


「それを、なぜ王が知っている」

「知らなかった」


アルベリクは言った。


「だから今、こうして聞きに来た」


闇がしばらく沈黙した。

やがて、獣人の若者が一人、姿を見せた。

ハウゼンだった。


その背後には、さらに数人の影。

誰も王国軍に近づかない。

矢を番えている者もいる。

刃を握っている者もいる。


「結局、攻めるのか」


ハウゼンが言った。


「攻める」


アルベリクは答えた。


「だが、ここを攻めるための道にはしない。今夜借りたいのは、評議会へ進むための軍道ではない。検問の先に取り残された者たちを安全に逃がすための道だ」


ハウゼンの目が細くなった。


「言葉は、いくらでも選べる」

「だから、条件を聞きに来た」

「条件」

「王国軍がこの道を使う条件だ」


ハウゼンはすぐには答えなかった。


その少し後ろに、ラウカがいた。

枝に結ばれた布を指で押さえながら、王国兵の足元を見ている。

重い鎧を着ている者の足。

湿地に慣れていない者の足。

恐怖で前だけを見ている者の足。

そのすべてを見ているようだった。


さらに離れた木陰には、ローゼスがいた。

彼だけは、こちらを見ていなかった。

評議会の方角をじっと見据えている。

獲物の匂いを追う獣のように。


「貸せば、返すのか」


ハウゼンが言った。


「返す」

「王国は、借りたものを返すのか」


その問いに、グレンが息を呑んだ。

アルベリクはすぐには答えなかった。

軽く答えてはいけないと思った。


「いや、返してこなかった」


アルベリクは言った。

湿地の音が、一瞬だけ大きくなった。


「王国は、お前たちの道を知らず、棚を知らず、名を知らず、それでも東は王国のものだと言ってきた。借りたものを返してこなかった」


ハウゼンは動かなかった。

ラウカも、ローゼスも。


アルベリクは続けた。


「だから、今ここで信じろとは言えない」

「なら、何を出せる」

「命令を出せる」


ハウゼンの表情がわずかに動いた。


「王国の命令など、俺たちには関係ない」

「お前たちを縛るためではない。王国軍を縛るためだ」


ラウカが小さく頷く。

ハウゼンは言った。


「灰家衆を前に立たせるな」

「分かった」

「俺たちは盾じゃない」

「盾にはしない」

「王国兵が道を踏み荒らしたら、その時点で終わりだ。先へは通さない」

「分かった」

「印を写すな。地図に残すな。王国の道にするな」


グレンが反射的に顔を上げる。


「それは――」


アルベリクは彼を止めた。


「続けろ」


ラウカは、枝に結ばれた布を一度だけ見た。


「逃げてくる者を分けるな。再配置の対象者もいる。評議会の下働きもいるだろう。子どもを抱いた者も、怪我人を背負った者もいる」

「全員を通せと」

「あくまで逃げてくる者は、だ」


ハウゼンが言った。


「灰家衆は敵を討つための組織ではない。逃げる者を渡すためにある。戻る者のために印を残すためにある。だが、逃げる者を追う奴は止める。火を持つ奴は止める。道を塞ぐ奴も止める」


ローゼスが木陰から初めて声を出した。


「火を持つ者は斬る」


その声は低く、迷いがなかった。


アルベリクはローゼスを見た。


「誰であってもか」

「誰であってもだ」

「王国兵でも」

「火を持って棚へ向かうなら」


近衛の一人が怒りかけたが、アルベリクは制した。


「分かった」


ローゼスは、そこで初めてアルベリクを見た。


「分かった、で済むのか」

「済まない。だから、命令にする」


アルベリクはグレンを見た。


「書け」


グレンは一瞬戸惑った。


「ここで、ですか」

「ここでだ」


グレンは携えていた小さな書板を取り出した。

アルベリクは言葉を選んだ。


一、王国軍は、灰家衆を盾として前面に置いてはならない。

一、現地の印、夜間帰路、未登録通路を軍道として接収してはならない。

一、退避する民を、評議会所属、定住扶助対象、登録外の別によって妨げてはならない。

一、武装を解き、退避に従う者は、所属を問わず保護する。

一、火を用いて棚、家屋、帰路を焼く者は、所属を問わず制止する。

一、灰家の道を、追撃のために用いてはならない。


最後の一文を書いた時、グレンの筆が止まった。


「陛下。これは、かなり兵を縛ります」

「縛るために書いているからな」


アルベリクは言った。


「剣を抜いた後で考えさせるより、先に縛る」


ハウゼンは、そのやり取りを黙って見ていた。


ラウカは書板ではなく、アルベリクの手を見ていた。

王の手が、本当に剣ではなく言葉を先に選ぶのかを見ていた。


ローゼスは、まだ信じていなかった。

それでよかった。

信じる必要はない。

今夜必要なのは信頼ではなく、互いがどこまで踏み込まないかの線だった。


「これで、道を貸してくれるか」


アルベリクが問う。


「道を貸せば、王国軍は本部へ届くだろう」


ハウゼンは言った。


「だが、その後で水鳴りを押さえられれば終わりだ」

「終わり?」

「奇襲に成功しても、残った者が捕まる。人質にされれば、灰家は迂闊に動けなくなる」


ラウカが布の結び目を変えながら言う。


「だから、評議会に気付かれる前にまずは水鳴りにいる者を全員、逃がす。本部を攻めるのはそれからだ」


ハウゼンは深く息を吸った。


「同盟じゃない」

「分かっている」

「王国を信じたわけでもない」

「分かっている」

「今夜だけだ」

「それでいい」


ハウゼンは低く言った。


「道を貸す。ただし、壊したらその瞬間に、正面の橋まで戻ってもらう」


アルベリクは頷いた。


「ついて来い。夜が明ける前に渡してやる」


その瞬間、王国軍と灰家衆は、同じ方向を向いた。

同盟ではない。握手もない。誓約もない。


ただ、閉じる前に渡すために、互いの刃を一晩だけ下ろした。


     *


夜の道は、昼の道とは違う。


昼ならば、道は線のように見える。

馬の蹄の跡。車輪の溝。踏み固められた土。橋。杭。標識。

兵はそこを見て、進むか、止まるか、壊すかを決める。


だが、夜の道は線ではなかった。


匂いがある。

水音がある。

土の沈み方がある。

草の倒れ方がある。

枝に結ばれた布がある。


昨日は通れた場所が、今夜は水を含んで沈むこともある。

昼は何もないように見える場所が、夜には戻ろうとする者だけを通すこともある。


その夜、王国軍は初めて、軍道ではない道を進んだ。


王国軍の先頭に立ったのは、ロイドだった。


灰家衆はさらに前にいる。

だが、それは先導というより、道が壊れていないかを確かめ、危ない場所の印を変え、戻る者のために別の道を残すための動きだった。

ロイドはその印を読み切れない。

読み切れないからこそ、勝手に広げなかった。


腰には小さな灯皿、片手には細い杭。

低い灯だ。

遠くから見れば、湿地に紛れた蛍ほどの光にしか見えない。

だが、足元に目を凝らせば、泥の深さと草の切れ目を教えてくれる。


彼は、その灯をよく知っていた。

子どもの頃、北門の外に置かれていた古い灯籠。

立派な名などなかったし、雨の日には消え、風の日には頼りなく揺れた。

それでも、夜に帰ってこようとする者は、まずその灯を探した。


高く掲げられた灯ではない。

遠くの者を呼ぶための灯でもない。

ただ、帰る場所を知っている者が、最後に見つける灯だった。


「そこは踏まないでください」


ロイドは低く言った。

後ろの兵が足を止める。


「道ではないのか」

「道です。ですが、そこは出る者が使う道です。武装した兵が踏むと崩れます」


兵は困ったように足を引いた。


ロイドは杭を一本、湿った土に刺した。

強く刺さない。

目印として残るだけの深さ。

軍の標識ではない。

帰る者が見つけられる程度の、小さな印。


グレンは、その様子を見ていた。


兵を動かすなら、もっとはっきりした印がいる。

列を乱さないためには、進む場所と止まる場所を明示しなければならない。


「ロイド」


グレンは小声で呼んだ。


「この印で、後続は迷わないか」

「迷う、かもしれません」

「それでは困る」

「しかし、はっきり置けば、道の意味が変わります」


ロイドは振り返らずに言った。


「ここは、王国軍の道にしてはいけません」


グレンは答えに詰まった。

彼の仕事は、兵を迷わせないことだった。

だが、いま足元にあるのは、進むために使えばいとも簡単に壊れてしまう道。


「では、どうすればいい」

「兵を信じるしかありません」

「兵を?」

「すべての道を軍道にしなくても、小さい灯を見落とさないように歩ける、と」


グレンは後ろを見た。


軽装の兵たちは、不安そうに湿地を見ている。

大盾も馬も置いてきた。

鎧も減らした。

槍は短く、荷は少ない。

それはもはや王国軍というより、夜逃げの列に近かった。


「わかった」


グレンは息を吐き、兵たちに命じた。


「列を詰めるな。前の足跡をただ踏むな。灯だけを見るな。隣の息を聞け。誰かが沈んだら、助ける。遅れた者を置いていくな」


兵たちの顔に戸惑いの色が浮かぶ。

それは、とても進軍の号令とは思えないものだったが、今夜、王国軍には確かにそれが必要だった。


     *


灰家衆はその更に前を進んでいた。


先頭はハウゼンだ。

若い。外見だけで言えば少年と呼べる年に近い。

だが、暗がりの中で彼が手を上げると、灰家衆は静かに止まった。

指を二本立てれば二手に分かれ、拳を握れば伏せる。


号令に声は使わない。

声を使えば、道を示すあらゆる音を聞き分けられなくなるからだ。


「経路を確認しておく」


ハウゼンは囁いた。


「年寄りはラウカの印へ。怪我人はロイドの灯へ。子どもは二人一組。ひとりにするな。薬草袋は捨ててもいい。人を先に逃がす」


灰家衆の若者が頷く。


「王国兵は」

「渡りまでは先導する」


ハウゼンは答えた。


「だが、あまり前に出させすぎるな。鎧の重みで草の根が切れる。足場が沈めば、次に逃げる者が渡れなくなるだろう」

「信じるのか」

「信じない」


ハウゼンは即答した。


「だから、条件を飲ませた」


若者は黙った。

少し離れた場所で、ラウカが低い枝に結んだ布の位置を変えている。

ひと結びをほどき、別の向きに結び直す。

その手つきは速いが、荒くない。


「道はいくつ残っている」


ハウゼンが問う。


「三つ。ひとつは王国兵に貸したこの道。もうひとつは年寄りと子どもを外へ出す道。最後のひとつは、追われた時のための逃走経路だ」

「追われた時?」

「王国軍も、評議会も、道を一本だと思う。一本なら塞げばそれで終いだろ?」


ラウカは、湿地の奥を見た。


「一本には寄せない。そこを押さえられたら、逃げる者も戻る者も動けなくなるからな」


ハウゼンは頷いた。

彼はまだ、ラウカほど先を見られない。

だが、ラウカが戻る道と言う時、それはただ逃げるための道ではないことを知っていた。


戻れる道を失った時、人は刃になる。

だが、戻れる道があれば、刃を置ける者もいる。


ラウカは水鳴りの方角へ視線を向けた。


「駐留している兵がいるな」

「どこだ」

「水鳴りの外れ。恐らく、逃げる者の監視だろう」

「評議会か」


ハウゼンの声に、近くの灰家衆が少しだけ動いた。

刃の気配が濃くなる。

ハウゼンも同じだった。


ラウカは言った。


「逃げるだけの者は通す、だろ」

「分かっている」


ハウゼンは答えた。

その声は熱を帯びている。

分かっている者の声ではあった。

しかし、止まれる者の声ではなかった。


「ローゼスは?」


若者が問う。

ラウカは森の奥を見た。


「もう先に行った」


     *


ローゼスは、灰家衆のさらに先を進んでいた。


この道を、評議会は知らない。

知られていないからこそ、今夜の救護は成り立つ。

そして知られてしまえば、次からその道は罠になる。


ゆえにローゼスの役目は、道を守ることではなく、知られてしまう可能性を先に潰しておくことだった。


水鳴りの外れ、焼け跡を囲う低い柵のそばに、評議会の駐留小屋があった。

数は多くない。

あの火災以降、本部から派遣された兵。

反乱分子を監視し、水鳴りから逃れようとする者を捕らえるための兵。


当然彼らも、灰家の道を知っているわけではない。

上からの指示通り、ただ集落を見張っているだけに過ぎない。


最初に気づいたのは、若い兵だった。

王国兵の鎧が闇の中でわずかに鳴った。

その音に、男は顔を上げた。


「誰だ」


声はまだ小さかった。

ローゼスが動く。


男が角笛を口へ運ぶ前に、ローゼスの柄が喉元を打った。

男は声を出せずに崩れた。


二人目は警鐘の紐へ手を伸ばした。

ローゼスはその手を弾き、紐を切った。

鐘は鳴らなかった。


三人目は、通行札の束を抱えたまま後ずさった。

兵ではない。

駐留小屋の書付役だ。

腰に刃はある。だが、抜いていない。

ただ、何が起きたのか分からない顔で震えている。


ローゼスはそれを見た。

逃がすつもりはなかった。

だが、踏み込もうとした瞬間、倒れていた兵が泥の中から腕を伸ばした。


警鐘の紐ではない。

その奥にある、予備の小笛へ。


ローゼスは舌打ちし、その手を踏み砕いた。


しかしその刹那、書付役が、柵の脇の崩れた板を潜った。

ローゼスが振り向いた時には、男の背はもう湿地の低い霧に紛れていた。


「待て」


声は出した。

だが、追えなかった。


まだ角笛が残っている。

まだ小屋の内側に、報告箱がある。

そしてもう一人、起き上がろうとしている兵がいる。


ローゼスは、書付役が逃げた方角を睨んだ。


追えば斬れるかもしれない。

だが、今ここを空ければ、また別の音が上がるだろう。

起き上がろうとしていた兵を処理し、連絡手段を破壊する。


取り逃がした。


その事実が、腹の底に重く残った。


ローゼスは通行札の束を掴み、地面へ叩きつける。


紙が泥に散った。

水鳴りの夜間通行許可証。

定住扶助対象者移動控え。

再配置区域境界札。


どれも、人の足を止めるための紙だった。


     *


王国軍が水鳴りの渡りに着いた時、東の空はまだ黒かった。


水鳴りは、村ではなかった。

少なくとも、そこに暮らしてきた者たちにとってはそうだった。


二つの水音が重なる場所。

夜に戻る子どもが、目ではなく耳で家の方角を知る場所。

薬草棚と干し場と、祈りの石が、暮らしをかたどっていた場所。

だが、今やそこは既に検問の内側だった。


焼け残った棚の影に、人が集まっている。

怒りで残った者もいる。

怖くて動けなかった者もいる。

どこへ行けばいいのか分からず、夜が来るたびに身を縮めていた者もいる。

しかし、王国軍が姿を現した時、最初に起きたのは歓声ではなく、悲鳴だった。

当然だろう。

王国軍もまた、彼らにとっては踏み潰す側のものなのだから。


前へ出ようとしたグレンの肩を、ラウカが掴む。


「急に近づくな」

「しかし」

「兵の顔をしている」


グレンは黙った。

ラウカは低い声で言った。


「灯を増やす。名は聞くな。怪我人から先に動かす」

「名を聞かなくていいのか」

「後でいい」


グレンは頷いた。


「ロイド」

「はい」

「灯を頼む。逃げる者の列を分ける」

「承知しました」


ロイドが低い灯を置く。


遠くからは見えない。

だが、足元を見れば分かる。

どこを踏めば沈まないか。

どこを通れば薬草棚を潰さないか。

どこへ行けば、王国兵の列に巻き込まれないか。


ラウカが灰色の布を結び直した。


「年寄りと子どもはこっちだ」


ハウゼンが声を出した。


「怪我人は灯の方へ。薬草袋は置け。まず人を先に出す。」


灰家衆が動いた。


さっきまで評議会兵へ牙を向けていた者たちが、今は子どもを背負い、老人の腕を支え、湿地に沈みかけた荷を蹴り捨てている。

その動きは乱暴で、とても優しいと言えるものではなかったが、早くて正確だった。


アルベリクは、それを見ていた。


「王国兵」


彼は言った。


「ここでは、灰家衆の声を聞け」


兵たちが戸惑う。


「ただし、刃は抜くな。火を持つ者と、道を塞ぐ者だけを止める」

「逃げる者は通せ。評議会の札を提げていても、扶助札を持っていても、だ」


ハウゼンが振り返った。

その目には、納得はなかった。

だが、否定もしなかった。


ラウカは何も言わず、布を結び続けた。


王国軍は水鳴りの渡りを越え、住民を灯の方へ逃がしながら、灰家衆に導かれて東峠の裏へ向かった。

王国の地図には、そこに軍が通る道などなかった。

あるのは、山裾の薬草棚へ向かう細い道と、獣道と、灰家衆だけが知っている戻り道だった。


馬は入れない。

荷車も入れない。

大盾を並べる幅もない。


だから、王国軍は軍の形を捨てて進んだ。

槍は短く持つ。

荷は分ける。

声は出さない。

鉄の鳴るものには布を巻く。


グレンは、後ろを振り返った。


ロイドの低い灯が、水鳴りの渡りに残っている。

薬草袋を捨てた老人が、兵の肩を借りて歩いている。


王国軍が借りているのは、その道だった。

残された者が外へ出るための道。

そこに暮らす者を危険にさらさないための道。

そして、追ってくる者を止めるための道。


その端を今、王国軍が通っている。


東峠の裏から下ると、評議会本部の屋根が見えてきた。


古い穀倉を改修した議場。

その裏に、荷を入れるための低い門がある。

薬草袋や保全物資を運び入れるための搬入口。

ゆえに、そこが評議会の盲点だった。


彼らが見ていたのは、正面の橋。

東第一保全路。

そして、通行証を確認する机。

正面から来る王国軍を、理由と手続きと保全路の名で止めるための場所。

だが、その朝、王国軍はそこへ来なかった。


夜明け前の薄い光の中、王国兵の影が、評議会本部の背に現れた。


グレンは息を呑んだ。


評議会本部の屋根越しに、正面の通達板が見える。

あちらには、まだ灯がある。

兵もいるだろう。

机もあるだろう。

理由も置かれているだろう。


だが、こちらには理由がない。

ただ、裏口がある。


「陛下」


グレンが低く言った。


「気づかれます」

「いや、恐らくもう気づかれている」


アルベリクは答えた。

伝令が一人、本部に入っていくのが見える。


しかし、もう遅い。

灰家衆が先に、評議会の背中へ届いた。






お読みいただきありがとうございます。


王国軍と灰家衆は、同盟を結んだわけではありません。

互いを信じたわけでもなく、ただ一晩だけ、道を借りるための条件を決めました。


後編では評議会側の動揺と本部裏門前での攻防を、このまま続けてお読みいただけます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ