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白冠王国旧領奪回戦記  作者: Chroe


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第四話 夜明け前の渡り 後編


夜明け前、評議会本部に最初の報告が届く。

オルフェンはまだ起きていた。

議場の奥で、地図を広げたまま、何度も同じ場所を見ている。


東第一保全路。定住扶助受入地。薬草棚。カーヴの蔵。王国軍の推定進路。


眠れるはずもない。


転がり込むように議場へと入ってきた伝令の顔は、泥だらけだった。

息が続かず、言葉が切れる。


「裏手に」


オルフェンが顔を上げた。


「何だ」

「裏手に、王国軍です」


議場の空気が止まった。


「正面の橋ではないのか」

「橋には来ていません」

「東第一保全路は」

「まだ、異常はありません」

「では、どこから来た」


伝令は答えられなかった。


「分かりません。水鳴り側の駐留が崩されました。灰家の者が、道を開いたようです。王国兵が、東峠の裏に」

「灰家が、王国を?」


オルフェンの顔から血の気が引いた。


「なぜだ」


その問いは、誰に向けたものでもなかった。

評議会は東を救うために立った。

王国が遅れたから、評議会が進んだ。


そのはずだった。

なのに、彼らは王国軍を通そうとしている。


オルフェンには、それが裏切りに思えた。

同時に、裏切りと呼ぶ資格が自分にあるのかも分からなかった。


「水鳴りの者たちは」

「一部が西へ。ほかは不明です。駐留兵が混乱しています」


ネストルが、静かに視線を上げた。


「議長」

「いや」


オルフェンは額を押さえた。


「違う。違うのだ。彼らも東の民だ。しかし、王国に合流すれば、戦になる。戦になれば、人が死ぬ」

「すでに戦です」


ネストルは言った。

その声は冷たかった。

だが、狼狽していないという意味では、必要な冷たさだった。


「対応を」


オルフェンが言う。

ネストルはすぐに答えた。


「裏手の搬入口を閉じます。正面の兵は戻すな。戻せば正面も崩れる」

「通達は」

「今からでは遅い」


オルフェンが息を呑んだ。


ネストルは続けた。


「記録を移します」

「記録?」

「保全区台帳、再配置記録、扶助対象者名簿、通達控え。王国軍が中へ入る前に、分けます」

「分ける?」

「王国に見せてもよい記録。こちらで持ち出す記録。今は伏せる記録」


ネストルはそこで一度、言葉を切った。


「そして、カーヴに渡してはならない記録です」

「カーヴに?」


オルフェンは、そこで初めて別の恐怖に気づいたような顔をした。


「彼は評議会の正式記録を持っていないはずだ」

「持っていません」


ネストルは即答した。


「持たせていない。だが、商会には商会の記録があります。借用証、採草権、扶助札の写し。正式な台帳がなくても、あの男はそれだけで人を縛れる。」

「商会の記録なら、商会のものではないのか」

「違います」


ネストルの声が鋭くなる。


「それは、民を縛るための記録です。王国に見られれば、我々は裁かれるでしょう。だが、カーヴに握られれば、民が裁かれ続けます」

「裁かれ続ける?」

「家を失った者にも、東へ入れられた者にも、あの男は同じ顔で貸しを差し出す。そして返せなければ、採草権で調整すると言う。正式な台帳がなくても、借用証が残れば人は縛れる。承認印がなくても、写しが残れば取り立てはできる」


オルフェンは言葉を失った。

その時、別の伝令が飛び込んだ。


「カーヴ商会の東蔵に火が!」


ネストルの目が、初めて鋭くなった。


「どの蔵だ」

「借用証と保管箱のある蔵です」


ネストルの舌打ちが議場に響く。


オルフェンは立ち上がった。


「なぜ火をつける」


ネストルは低く言った。


「あの男は、選んでいます」

「選ぶ?」

「評議会の承認印が濃く残るものは燃やす。自分の取り立てに使える薄い写しは持ち出す。燃えれば自分だけが困らなくなるものを、燃やしている」


オルフェンの顔が青ざめた。


「そんなことを、今」

「今だからです」


ネストルは言った。


「生き汚い者ほど、火の前で何を持つべきかを知っている」


     *


セヴランが東蔵へ走り出したのは、誰かに命じられたからではなかった。


ネストルは、まだ議場の奥にいた。

オルフェンは、伝令の報告を聞いている。

エルマーがどこにいるのかも、分からない。


書記局の者たちは、火災報告の写しを作り、封蝋を溶かし、誰に何を伝えるべきかで声を荒げていた。

その中で、誰かが叫んだ。


「東蔵に火が入った!」


その一言で、セヴランの手が止まった。

東蔵。カーヴの蔵。借用証。採草権を担保にした契約。

扶助札の写し。保管箱の台帳。評議会の承認印が押された取引控え。

それらが燃える。

そう思った瞬間、セヴランの頭に浮かんだのは、帳簿の革表紙ではなかった。


川音が二重に聞こえる場所。

薬草棚のそばに置かれた椅子。

古い採草許可札を握っていたミラ婆の手。

加害者の列には見えなかった、と言ったエルマーの声。


灰家衆。

家が灰になったから、そう呼ばれた者たち。


カーヴの札。

カーヴの蔵。

カーヴの借り。


セヴランは、自分がそれらを書いた日のことを覚えていた。


余白に書いた。

別紙に移した。

正式な記録ではないと言われた。

だが、書いた。


書かなければ、消えると思ったからだ。

火が入れば、それらはまた別の名で呼ばれる。


火災。混乱。退去。未詳。整理済み。貸付不履行。採草権移動。


セヴランは立ち上がった。


「どこへ行く」


隣の書記が問う。

セヴランは答えなかった。

答えれば、止められると思ったから。


ネストルの命令ではない。

評議会の大義でもない。

王国へ渡すためでもない。


ただ、今日まで書いてきたものが、彼を東蔵へと走らせていた。


記録は、人を救うとは限らない。

ネストルの声が、胸の奥で蘇る。


だが、記録がなければ、奪われたことさえ別の名で呼ばれる。


それだけは、絶対に阻止しなければならないことだった。


     *


カーヴは、東蔵の奥にいた。

帳簿を抱えている。

重い革表紙の商会正本ではない。

あれには評議会の承認印と、過剰な利の記録と、移動前後の棚地の差分が残っている。

王国に見られれば面倒になる。


彼が抱えているのは、薄い写しだった。


誰にいくら貸したか。

誰が何を担保にしたか。

どの採草権が、いずれ商会の名義に移るか。

どの扶助家族が返済不能になるか。

どの灰家の者が、怒りながらも食糧を借りざるを得ないか。


正本が燃えても、借りは消えない。

借りは、覚えている者がいれば残る。

カーヴは、それをよく知っていた。


「急げ」


彼は商会の手代に命じた。


「奥の薄い写しを水路へ。重い正本は捨てていい。表の棚には水をかけるな」

「ですが、評議会の承認印が」

「だからだ」


カーヴは短く言った。


「承認印は多すぎると困る。その点貸しは覚えてさえいれば事足りる」


手代は震えながら頷いた。

蔵の外では怒号が飛び交っている。

評議会の兵か、灰家か、王国軍か。

そんなことはどうでもいい。

大事なのは、どの出口がまだ空いているかだった。

カーヴは帳簿を胸に押し当てた。


その時、蔵の入口に若い書記が飛び込んできた。


セヴランだった。

煙に咳き込みながら、彼は蔵の中を見た。

床に積まれた正本。

火の近くへ寄せられた保管箱。

水路へ運ばれようとしている薄い写し。


カーヴが何をしようとしているのかは、すぐに分かった。


「その箱を置け」


セヴランは言った。

カーヴは振り向き、一瞬だけ、眉を上げる。

それから商人の顔になった。


「書記局の方ですか。ならば、なおさらここは危ない。避難を」

「その箱を置け」

「これは商会の控えです」

「人を縛る控えだ」

「人は必要に縛られるのです」


カーヴは言った。


「紙ではありません。明日になれば、誰かがまた食糧を欲しがる。棚材を欲しがる。薬を欲しがる。家を焼かれた者も、家を与えられた者も、同じです。必要は燃えない」


セヴランが一歩踏み出す。

その瞬間、天井の梁から火の粉が落ち、床に積まれていた紙束へと移る。

セヴランの視線が揺れた。


カーヴか。

記録か。


セヴランが一瞬遅れたその隙に、カーヴは身を翻した。

手代を押しのけ、帳簿を抱えて奥の水路へ向かう。


「待て!」


セヴランは叫んだ。

追おうとした。

だが、火が紙を舐めている。

そこには、水鳴りから移された者の貸付控えがあった。

ミラ婆の採草権を担保にした契約写しがあった。

定住扶助者の保管箱台帳があった。

灰家と記された未清算貸付の束があった。

今カーヴを追えば、それらが燃える。

燃えてしまう。


セヴランは歯を食いしばった。

火のついた紙束を蹴り離し、上着で叩いた。

煙が目にしみる。

手が熱い。指先の感覚が鈍る。


水路の方で、水音がした。

カーヴが逃げた音だろう。


だが、セヴランは振り返らなかった。

今ここで彼が追えば、紙の中にある暮らしが消える。

セヴランは箱へと手を伸ばす。


その時、蔵の裏手の扉が乱暴に開いた。

入ってきたのはエルマーだった。

腕には、書記局の封印箱を抱えている。

箱の側面には、評議会の印が押されていた。


「セヴラン!」

「エルマー」


セヴランは咳き込みながら、彼を見た。


「なぜここにいる」

「東蔵を封鎖する命令だ」

「誰の」

「ネストル書記長の」


エルマーは蔵の中を見回した。

火の近くへ寄せられた正本。

床に散らばった借用証。

採草権を担保にした契約控え。

扶助札の写し。

評議会の承認印が押された取引控え。


彼の顔が強ばった。


「やはり、選んでいるな」

「カーヴがか」

「他に誰がいる」


エルマーは封印箱を床に置いた。


「商会側の記録を回収する。王国には渡さない」

「渡さない?」

「そうだ」

「誰の手の中に置くつもりだ」

「評議会の管理下に戻す」


セヴランは、火の回り始めた紙束を踏み消した。


「戻す、か」

「何がおかしい」

「ここにあるのは、商会の記録だ。だが、そこに書かれているのは人だ。水鳴りから移された者。棚を担保にした者。扶助札を握らされた者。家が灰になって、それでも食糧を借りた者」

「だから回収するんだ」

「回収して、伏せるのか」


エルマーは答えなかった。

その沈黙で、セヴランは分かった。


見せる記録。

伏せる記録。

持ち出す記録。

そして、カーヴに渡してはならない記録。


ネストルが分けたその境目を、エルマーは運んでいる。


「伏せるなら、伏せたことも残せ」

「今はそんな場合じゃない」

「今だ」

「火が回っている」

「だから今だ。今見なければ、何が燃え、何が残り、誰がどこへ持ち出したのか分からなくなる」


エルマーは封印箱を抱え直した。


「お前はいつもそうだ。今ではないものを、今だと言う」

「お前はいつもそうだ。今見なければならないものを、手順の後ろへ隠す」


煙が濃くなった。

蔵の外で、誰かが叫んでいる。

カーヴの姿はもうない。

彼の手つきだけが、蔵の中には残されていた。


燃やしてよいものを火の近くへ。

握るべきものを箱の中へ。

困った者の名を、借用書の欄へ。


セヴランは、初めてはっきりと実感した。

記録は、残すだけでは足りない。

誰の手の中に残るかで、それは次の暴力になる。


「その箱を開けろ」


セヴランは言った。


「できない」

「なぜ」

「命令だ」


エルマーの声が荒くなった。


「王国に渡れば、全てが裁かれる」

「裁かれるべきものもある」

「そうだろうな」


エルマーの顔が歪んだ。


「だが、そうなれば、俺たちは全部悪にされる。オルフェン議長も、ネストル書記長も、全部だ。飢饉で誰が薬を回したか。誰が道を直したか。誰が王都からこぼれた家族を入れたか。そんなことは誰も見ない。火災、再配置、借用証、採草権。都合の悪い欄だけを見て、全部悪だったと言う」


「だから伏せるのか」

「守るんだ」

「何を」

「残すべきものを!」


その言葉は、煙の中でひどく苦しそうに聞こえた。

セヴランは、友人の顔を見た。

エルマーは記録を消そうとしているのではない。

記録を守っているつもりなのだ。

だが、守るために誰にも見せない記録は、やがて何を守るのか分からなくなる。


「俺は、紙だけを守りたいんじゃない」


セヴランは言った。


「そこに書かれた者たちが、別の名で呼ばれないようにしたい」

「同じことだ」

「違う」

「何が違う」

「お前は記録の行き先を見ている。俺は、そこに書かれた人を見ている」


エルマーは黙った。

短剣に手が伸びる。

セヴランは動かなかった。


「どけ」

「どかない」

「セヴラン」

「どかない」


短剣が抜かれた。

その瞬間、蔵の奥で梁が落ちた。

火の粉が舞う。


悲鳴が上がった。

奥にいたのは、カーヴの手代だった。

足を挟まれ、動けない。

腕には帳簿箱を抱えている。


エルマーは一瞬だけ迷った。

セヴランは確かにその迷いを見た。


次の瞬間、エルマーは封印箱をセヴランへ押しつけた。


「持て」

「エルマー」

「持て!」


エルマーは煙の中へ走った。


セヴランは箱を抱えたまま立ち尽くした。

友人を追うか。

記録を自分の手に残すか。


既に、答えは出ていた。

名も、道も、椅子も、泣き声も、古い札も、灰になった家も、箱の中でまだ息をしている。


ならやるべきことは、ひとつしかない。


セヴランは箱を抱え直し、火の外へと走っていった。


     *


王国軍が評議会本部の裏手に着いた時、東の空はかすかに白み始めていた。

夜明け前。


もっとも寒く、もっとも人の判断が鈍る時刻。

そこに、評議会の裏門があった。

裏門というより、穀倉時代の搬入口だった。

薬草袋を運び入れ、保全物資を積み下ろし、商会の荷を一時的に置くための低い門。

人を迎えるための門ではない。

まして、進軍を迎え撃つための門ではない。


だから、そこには十分な兵がいなかった。


だが、人はいた。

書類を抱えて逃げる書記。

扶助札を束ねた箱を運ぶ下働き。

先の橋の戦いで負傷した評議会兵。

一時的に本部に収容されている定住扶助の家族。

煙に追われ、子どもを抱いたまま裏門へと向かう女。


そこにいた者たちは誰一人、同じ顔をしていないように見えた。

少なくとも、家を焼かれた者たち以外の目には。


「評議会だ」


誰かが低く言った。

その声は、すぐに別の声を呼んだ。


「棚を燃やした奴らだ」

「水鳴りを消した奴らだ」


灰色の布が、闇の中で一斉に揺れた。

ハウゼンが前へ出た。


若い顔に、夜の怒りと、戻せなかった名の重さが残っている。

彼は裏門の前に立つ評議会兵を見た。

 

槍を持つ者。

通達板を抱えた者。

扶助札の束を持つ者。


どれも、彼には同じものに見えていた。


「止めろ」


ハウゼンが言った。


「評議会の者を、一人として逃がすな」


灰家衆が動いた。

速かった。

王国兵よりも早く、灰家衆の何人かが裏門の脇へ回り込んだ。


逃げようとした評議会兵の足を払う。

書類を抱えた男を壁へ叩きつける。

扶助札の箱を運んでいた下働きが悲鳴を上げる。


ローゼスは、もっと早かった。

彼は声をかけなかった。

裏門の影から飛び出し、最初に槍を構えた兵の喉元へ刃を入れた。

次の兵は火打ち石を握っていた。

ローゼスはその手首を切り落とすように斬った。

血が飛ぶ。


裏門の前にいた人々が、一斉に崩れた。

恐怖で。怒りで。何が起きているか分からないまま。


「待て!」


グレンが叫んだ。

だが、その声は届かなかった。


灰家衆は、王国軍と合流し初めて評議会の背に届いたのだ。

そこには、長く探していた顔があった。

帳簿を書いた手。

通行証を拒んだ声。

棚を無許可と呼んだ口。

火災を混乱と記した紙。

誰がそれをしたのか。

本当に目の前の者なのか。

そんなことを確かめる前に、夜は刃になった。


「ハウゼン!」


ラウカの声が飛んだ。


ハウゼンは振り返らなかった。


「そこを塞げ! 書記を逃がすな! 札を持つ者も止めろ!」

「札を見るな!」


ラウカが叫んだ。


その声は、灰家衆の声の中で異物のように響いた。


「手を見ろ! 火を持っているか、刃を持っているかを見ろ!」


ローゼスが、書類を抱えた若い書記へ向かっていた。

書記は腰を抜かしていた。

火は持っていない。

刃も持っていない。

ただ、紙束を胸に抱いているだけだった。


ローゼスの刃が動く。


その前に、ラウカが間に入った。


「どけ」


ローゼスが言った。


「火は持っていない」

「紙を持っている」

「紙は火じゃない」

「紙で燃やした」

「そうだ」


ラウカは否定しなかった。


「だが、今そいつを斬れば、何を持っていたのかも分からなくなる」


ローゼスの目が細くなった。


「分からなくていい」

「よくない」

「お前はまだ残すのか」

「残す」


ラウカは言った。


「だから、今は殺すな」


ローゼスは答えなかった。

刃を下ろしもしなかった。


その間にも、裏門の前では混乱が広がっていた。

評議会兵が扉を閉めようとする。


灰家衆がそれを阻む。

王国兵が前へ出ようとする。

逃げる者が押し戻される。

誰かが転ぶ。

その上へ、別の誰かが倒れかける。

ここで押し込めば、人が死ぬ。


アルベリクが前へ出た。


「ヴァルター」

「はっ」


老将はすでに鎧を着け直していた。

夜道を歩くには重すぎる鎧だった。

だが、ここではそれが必要だった。


「本部への道を開け」


アルベリクは言った。


「ただし、押し込むな。追うな。逃げる者の背を斬るな。灰家衆が斬りかかるなら止めろ。王国兵が押し潰すなら、そちらも止めろ」


ヴァルターの眉が動いた。


「敵だけではなく、味方も止めろと」

「味方とは限らない」


アルベリクは言った。


「だが、今ここで混乱を起こし得る者は全て止めろ」


ヴァルターは裏門を見た。


「相変わらず陛下は無理難題を言いなさる」


ヴァルターは不敵に笑う。


「然らば、ここが私の戦場、ということですな」


「任せたぞ」

「任されました」


ヴァルターは大剣を抜いた。


「盾を前へ。槍は突くな、押せ。扉を壊すな、金具を抜け。道を塞ぐ者だけを倒せ。刃を捨てた者は通せ」

「逃げる背に刃を向けた者は、王国兵でも灰家衆でも私が止める」


その声に、王国兵の空気が変わった。

ヴァルター・オルグ。

北境の冬戦で敵陣を割り、三度の攻城戦で先陣を務めた古参の将。

通れる道を探すより、通すことを好む。

だがその朝、彼が通したのは軍だけではなかった。


ヴァルターが先頭に立つ。

評議会兵が槍を構える。


「王国軍だ!」

「裏門を閉じろ!」

「保全記録を守れ!」


声が飛ぶ。

ヴァルターは答えなかった。

大剣の腹で最初の槍を叩き落とし、盾で二人目を押し倒す。

刃は深く入れない。

だが、踏み込みは重い。

老いた体ではない。

何度も戦場を越えた身体だった。


評議会兵が崩れる。

王国兵が進む。

しかし、ヴァルターは追撃を許さなかった。


「止まれ!」


その声だけで、兵の足が止まる。


「陛下は本部までの道を開けと言った。敵を追えとは言っていない!」


その隙間を、ラウカが通した。

年寄り。子ども。怪我人。

定住扶助の家族。評議会の下働き。

誰かの名を呼びながら泣く女。


ラウカは一人ひとりを見ていないようで、見ていた。


「そっちは危ない。右へ」

「その箱を下ろせ。先に人を通せ」

「その子を背負うな。足を引きずっている男を背負え。子どもは歩ける」

「泣いていい。止まるな」


ハウゼンは歯を食いしばっていた。


彼の目の前を、評議会の札をつけた女が通る。

扶助札を抱えた男が通る。

書類を持った若い書記が通る。

止めたい。

そういう衝動が、顔に出ていた。


「ラウカ」


ハウゼンが低く言った。


「あいつらを通すのか」

「逃げる者は通すと言った」

「あれは評議会だ」

「子どもを抱いている」

「札を持っている」

「だが火は持っていない」

「また戻ってくるぞ」

「戻ってきた時に、火を持っていたらその時は止める」


ハウゼンは答えない。

だが、刃は振らなかった。

代わりに、裏門を閉じようとする兵へ向き直った。


「扉を押さえる奴を止めろ!」


その声で、灰家衆が動く。

今度は、逃げる者ではなく、道を塞ごうとする者へと向かった。


ローゼスはまだ書記を見ていた。

ラウカが視線だけで制する。

ローゼスは舌打ちし、別の影のもとへ消えた。


グレンはそれを見ていた。


王国軍の指揮系統ではない。

灰家衆は王国兵ではない。

ハウゼンは王国の指揮官ではない。

ローゼスは命令を待たない。

ラウカだけが、ぎりぎりのところで刃の向きを変えている。


それは危険だった。

軍としては正しくない。

だが、今それを止めれば、人が死ぬ。


「グレン!」


アルベリクの声がした。


「見ているな」

「はい」

「なら、つなげ」


つなげ。


指揮を奪うのではなく、つなぐ。


グレンは理解した。


「王国兵、ハウゼンの声を聞け! 灰家衆が止める者を見ろ! ただし、逃げる者には刃を向けるな!」

「ラウカが通した者は受けろ! ラウカが止めた刃は、王国兵も止めろ! 記録棚に火を入れようとする者は王国兵でも縛れ!」


ハウゼンが振り返った。

ほんの一瞬だけ、目が合った。


礼はない。

信頼もない。


だが、命令は重なった。


それで十分だった。

裏門が開いた。

評議会本部は、まだ落ちていない。


だがそれでも、王国軍の進軍は、この日初めて評議会の中枢に届いた。


     *


裏門は開いた。

だが、そこに勝利はなかった。

本部の中には、まだ逃げ遅れた者がいる。

正面へ出れば捕まる者がいる。

灰家衆を見れば怯える者がいる。

王国兵を見れば膝をつく者がいる。


道は確かにつながった。

だが、つながった瞬間から、そこはまた別の争いの場所になった。


命令は、まだ形になっていなかった。

誰も、誰の指揮下にいるのか分からない。

王国兵は灰家衆の声を聞き、灰家衆は王国兵を睨み、逃げる者はそのどちらも恐れていた。


次の報告が来る。


「東蔵の火が、まだ残っています!」

「投降者の列が崩れます!」

「灰家衆が奥へ入ろうとしています!」

「正面の兵が戻ってきます!」


グレンは一瞬、目を閉じた。

ここにあるのは戦場ではない。

だが、戦場より難しい。


敵を倒せば終わる場所ではない。

逃げる者を通し、追う者を止め、燃える記録を守り、刃になりかけた怒りを押し返さなければならない。


「陛下」


ヴァルターが言った。


「追撃は」

「しない」

「カーヴは逃げたようです。今ならまだ追えます」

「追えば、この道を狩りの道にしてしまう」


アルベリクは即答した。


「灰家の道を借りてここまで来た。それを追撃に使えば、借りた道を奪うことになる」


ヴァルターは不満を隠さなかった。

だが、剣は下ろした。


「承知しました」

「カーヴが逃げたことは残せ」


アルベリクは言った。


「追えなかったことも残せ。今、追わなかったことも残せ」


グレンは顔を上げた。


「この道は」

「軍道として記録しない」

「王国軍が使ったことは記録する。東峠の背面から本部へ届いたことも記録する。救護に用いたことも記録する。だが、道順は残すな」


アルベリクは、煙の向こうを見た。


「王国は、知らなければならないことがある。だが、知ったものすべてを王国のものにしてよいわけではない」


ローゼスが、物置の影から戻ってきた。

刃には血がついている。

火を持っていた者の血か。

道を塞いだ者の血か。

それとも、ただ評議会の札をつけていた者の血か。


誰も聞けなかったが、ただ一人、ラウカだけが言った。


「火は止めたか」

「止めた」

「逃げる者は」


ローゼスは答えなかった。


その沈黙の向こうで、また誰かが叫ぶ。

奥の扉が閉じられた。

記録棚が倒れた。

王国兵が走る。

灰家衆が続く。

評議会兵が投降のために武器を捨てる。

別の者は、まだ剣を握っている。


夜明けはもう、すぐそこまで来ていた。

だが、それは朝になったことを意味しなかった。


     *


評議会本部の奥に、矢継ぎ早に報告が届く。


灰家衆が道を開き、王国軍がそれを渡った。

水鳴りの一部住民が西へ逃れた。

カーヴの東蔵が焼けた。

一部の商会正本が失われた。

一部の写しが持ち出された。

セヴランも、エルマーも所在不明。

封印箱は未回収。

そして裏門は開いた。開いてしまった。

王国軍はなお、本部の中へと進んでいる。


オルフェンは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。


「なぜ」


彼は呟いた。


「なぜ、こうなる」


誰も答えなかった。

ネストルだけが、報告書を読み続けていた。


「議長」


やがて、ネストルは言った。


「まだ終わっていません」

「何がだ」

「大義です」


オルフェンの顔が歪んだ。


「君は、まだそれを言うのか」

「言います」


ネストルは静かに答えた。


「ここで我々が崩れれば、評議会が救った者たちもすべて投げ出される。定住扶助の者たちも、薬草市も、施療所も、道路修繕も、すべて王国の裁量に戻る」

「それは、悪いことなのか」

「王国がすぐに届くなら、悪いことではありません」


ネストルは書類を閉じた。


「ですが、王国は遅い」


オルフェンは、その言葉を聞いて泣きそうな顔をした。

それは、彼自身が何度も語ってきた言葉だった。


王国は遅い。

だから我々が進む。

だが、その進んだ先で、水鳴りは燃えた。


「私は」


オルフェンは言った。


「私は、救いたかった」

「存じています」

「なら、なぜ」

「この世界には救いたいと願う者ほど、止まれなくなることがあります」


ネストルは言った。


その声には、わずかな疲れがあった。


「私はその手順を作りました」


オルフェンは、ネストルを見た。

初めて、彼がひどく老いて見えた。


裏門の方角からまた怒号が上がった。

王国軍の刃も、灰家の牙も、すぐそこまで迫っている。


それでも、評議会はまだ終わってはいなかった。


     *


夜明け前の渡りは、王国軍にとって勝利ではない。


評議会を破ったわけではなく、

東領を取り戻したわけでもない。

ただ、人が渡った。

灰家の道が、軍道にならずに済んだ。

それだけだった。


そして、それだけで東は救われなかった。

カーヴは逃げた。

オルフェンはまだ議場にいる。

ネストルの台帳も、すべてが押さえられたわけではない。

水鳴りは、もう元には戻らない。

灰家衆の怒りも、刃の形を覚え始めている。


ロイドの低い灯が、煙の中で揺れている。

それは勝利の灯でも、凱旋の灯でもない。

まだ誰かが逃げてくるかもしれないから、消せない灯だった。


アルベリクが鉄冠に触れる。

夜明けの光の中で、その冠はやはり白くなかった。


当然だった。


今日流れた血は、白い布で包めば済む血ではない。

勝利の冠として戴くには、あまりに近い血だった。


グレンが隣に立つ。


「陛下」

「何だ」

「我々は、勝てるでしょうか」


アルベリクは答えなかった。

答えようとした時、また報告が来た。


「議場の扉が閉じられました!」

「東側の廊下に評議会兵が残っています!」

「負傷者が通れません!」


グレンが走り出し、ヴァルターが剣を担ぎ直す。


アルベリクは、ようやく答えた。


「まだ分からない」


その声は、誰に届いたのか分からなかった。


「だが、見誤らずに済んだものはある」


グレンは振り返らなかった。

もう次の廊下へと向かっている。


アルベリクは、裏門から続く細い灯の列を見た。


「道は、進むためだけにあるのではない」


誰も歓声を上げなかった。

誰も勝鬨を叫ばなかった。

その余裕は、誰にもなかった。


誰かがまだ泣いている。

誰かがまだ火を止めている。

誰かがまだ、紙を抱えて逃げている。


その朝、東はまだ取り戻されていなかった。

紙の上で別の土地にされていた場所に、戻るための道が一本、かろうじて残っただけだった。


そしてその道は、残った瞬間から、次に誰が使い、誰が奪い、誰が隠すのかを問われ始めている。




お読みいただきありがとうございます。


ついに王国軍と灰家衆が評議会の背後へ届きました。

しかし、同じ道を進んだからといって、彼らが同じものを見ているとは限りません。


次回、アルベリク・グレン・ヴァルターは評議会の議場へ突入し、ついにオルフェンとネストルに向き合います。

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