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白冠王国旧領奪回戦記  作者: Chroe


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第三話 大義は踊る、されど進まず



大義は、よく響く。


東領保全評議会の議場は、古い穀物倉を改築したものだった。

天井は高く、壁は厚く、声がよく回る。

王都の議場ほど華やかではない。だが、粗末でもなかった。

梁には東領の薬草束が吊るされ、正面の壁には評議会の紋が掛けられている。


交差する麦穂。

その下に、開かれた台帳。

さらにその下に、短い言葉。


東の安寧を保ち、東の民を救う。


議長オルフェンは、その紋の前に立つのがよく似合う男だった。

声が大きいわけではない。だが、よく通る。身振りが派手なわけでもない。

だが、手を上げるだけで人の視線が集まる。


「王国は、東を見捨てた」


オルフェンは言った。

議場のざわめきが静まる。


「飢饉の年、王都の救援は遅れた。薬草地が荒れた年、王宮の役人は台帳の不備を責めた。道が流され、棚が腐り、子どもが熱で死んだ時、王都は何をしたか。地図の上で、東領は王国の一部だと言い続けただけだ」


誰かが頷く。

別の誰かが拳を握る。

その中には、オルフェンの言葉を初めて聞く者もいた。

だが、何度も聞いている者の方が多かった。

それでも、彼らは熱心にその言葉に耳を傾け続けた。

オルフェンの言葉には、嘘がなかったからだ。

正確には、彼が真実しか語っていなかっただけなのだが。


かつてオルフェンは、王都へ嘆願書を運んだことがあった。

雨で泥になった街道を越え、薬草袋を担いだ農夫たちと同じ宿に泊まり、王宮の外で三日待った。

ようやく得た返事は、印の押された保留通知だった。

救援は検討中。税の減免は確認中。薬草地の荒廃は現地報告待ち。

その間に、東では熱で子どもが死んだ。

オルフェンは、その子の名を覚えていた。


「ならば、我々が保つしかない」


オルフェンは続けた。


「薬草地を守る。道を整える。住民を記録する。不正な徴収を止め、混乱を整理し、東領を東の民の手に取り戻す。王国が遅れるなら、我々の手が先に届かねばならない」


拍手が起きた。

熱のある拍手だった。


先の大飢饉。

飢えた子を見た者がいた。

薬草棚を腐らせた者がいた。

王都へ嘆願書を送り、返事を待ち続けた者がいた。

税だけは徴収され、救援だけは遅れる理不尽に怒った者がいた。


そして、行き場を失った人々を受け入れた者も。

王都の周縁で畑を失った家族。

税を払えず、家を手放した者。

水害で村を流され、王都の門前で何日も待たされた者。

兵役を終えて戻る畑のない男。

親を亡くし、奉公先にも入れなかった子ども。


彼らは、王国の恩寵からこぼれていた。


評議会は、彼らにも手を差し伸べた。

東には土地がある。

保全された薬草地がある。

家を建てる場所がある。

棚を直せば、仕事がある。


そう言って、評議会は彼らを東へ迎え入れた。

公文書では、それを保全区再配置計画と呼んだ。

別の通知では、東方定住扶助とも呼ばれた。


それらは救済の名の下に行われ、実際に救われた者もいた。


雨漏りする王都外縁の小屋から、東の新しい家へ移った者がいた。

飢えた子に薬草粥を与えられた母がいた。

評議会の印のついた扶助札を握り、初めて自分の棚を持った男がいた。


だからこそ、オルフェンの言葉は響いた。

響きすぎるほどに。


オルフェンが「東の民」と言う時、そこにはもちろん獣人も含まれている。

少なくとも、彼自身はそう信じていた。

だが、彼がその言葉で最初に思い浮かべる顔は、街道沿いの農夫であり、宿場の女将であり、施療所で薬を待つ子どもであり、税を納めながら救援を待ち続けた家々だった。


水鳴りの獣人たちも、彼の大義の中では救うべき東の民だった。

けれど、その暮らしがどのように道と棚と水音に結ばれているのかを、彼は知らない。


後方の書記席で、ネストルは黙ってその声を聞いていた。


細い男だった。

背は高いが、痩せている。顔色は悪く、目だけが乾いている。

美辞麗句を嫌うような顔をしているが、大義を軽んじる男ではない。

むしろ逆だ。

彼は大義と呼ばれるものが、紙の上で腐るのを何度も見てきた男だった。


救援せよ。保護せよ。記録せよ。正しく配れ。住まわせよ。


言葉は、いつも美しい。

だが、美しい言葉だけでは、荷馬車は動かない。

誰に薬草を渡すのかも決まらない。

昨日ここにいた者が、今日も同じ場所にいるとは限らない。


誰を住民と呼ぶのか。

どの棚を保護するのか。

どの道を整えるのか。

どの渡りを道として扱うのか。

どこまでを東領と呼ぶのか。

誰を入れ、誰を移すのか。


それを決めなければ、どんな大義もただの絵空事だ。


大義は踊る。


されど進まず。


だから、ネストルは台帳を作った。


     *


演説を終えたオルフェンは、議場の奥に下がった。

扉が閉まると、拍手の音は壁に吸われ、急に遠くなった。

オルフェンは椅子に座らず、立ったまま紋の刺繍された袖口を指で押さえていた。

掌には汗がにじんでいる。


「今の言葉でよかったか」


ネストルは書類を揃えながら答えた。


「ええ、これで人は動きます」

「人は、か」


オルフェンは小さく笑った。

苦笑いだった。


「東は救えるか、と聞くべきだったな」


ネストルはすぐには答えなかったが、その沈黙だけで、オルフェンは十分だった。


「分かっている」


オルフェンは言った。


「君は、できることしか言わない」

「そのためにおります」

「だから、頼りにしている」


オルフェンはそう言って、ようやく椅子に腰を下ろした。

若い給仕が茶を運んでくる。オルフェンはその少年を見て、名を呼んだ。


「テオ。母君の咳はどうだ」


少年は驚いたように顔を上げた。


「昨夜は、少し眠れました」

「薬草は届いたか」

「はい。評議会の印で、先に回していただいたと」

「そうか。よかった」

「ありがとうございます。本当に。」


オルフェンは心から安堵した顔をした。

テオの一家は、東の生まれではない。

もとは王都の外縁に暮らしていたが、父は荷運びで腰を壊し、母は冬の咳をこじらせた。

租税を払えなくなり、王都の施療院では順番待ちのまま何日も過ぎた。

評議会が来たのは、その後だった。


東方定住扶助。

そう書かれた札を渡され、東へ行けば家と仕事があると言われた。

母には薬が回され、テオは議場の給仕として雇われた。


少年が下がると、彼はネストルを見た。


「こういう声を、私は失いたくない」

「声、ですか」

「評議会が来てくれてよかった、と言ってくれる声だ」


ネストルは書類から目を上げなかった。

オルフェンは続けた。


「王国は遅かった。いつも遅かった。だから東の者たちは、自分たちの名がどこにも届かないと思っていた。王都の外れにいる者たちも同じだ。彼らの名も、王宮には届かない。私は、それを変えたい。」

「評議会の印を見て、助かると思ってほしい。評議会の者が来たと聞いて、隠れるのではなく、戸を開けてほしい」


それは、素朴な願いだった。

そして、危うい願いでもあった。

信じてほしい。

来てくれてよかったと言ってほしい。


それは一見、支配を望む者の言葉ではなかった。

だが、支配というものは得てして、そのような願いの形から始まる。


ネストルは静かに言った。


「信じてもらうには、結果が要ります」

「結果か」

「薬草が届くこと。道が使えること。借りが整理されること。誰がどこにいるか分かること。誰をどこへ住まわせるか決めること」

「そして台帳、か」

「はい」


オルフェンは目を閉じた。


「私は、君の台帳が少し怖い」


ネストルの筆が止まった。


「ならば、お止めになりますか」

「止めない」


オルフェンはすぐに言った。

その早さに、自分で少し傷ついたような顔をした。


「止められない。私の言葉だけでは、あの少年の母に薬は届かない」


ネストルは何も言わなかった。


「獣人たちも、東の民だ」


オルフェンは言った。

その言葉に嘘はなかった。

だがネストルは、嘘がないことと、見えていることは違うと思った。


「そう記録しています」

「記録だけでは足りない」

「存じています」

「水鳴りの件は」


ネストルは書類を一枚抜いた。


「本日午後、再配置資料が上がります」

「荒れるだろうな」

「ええ、間違いなく」

「避けられないか」

「避けるには、定住扶助の十二戸を別の場所へ回す必要があります」

「できるのか」

「今からでは難しい。すでに扶助札を交付し、棚材も出ていますから」


オルフェンは、指先で茶器の縁をなぞった。


「彼らも、やっと家を持てると思っている」

「はい」

「水鳴りの者たちも、家を奪われると思っている」

「はい」

「同じ言葉なのに、向いている方が違うのだな」


ネストルは答えなかった。


オルフェンは、茶に手を伸ばした。

その指先はまだわずかに震えていた。


     *


東領は、評議会にとって都合のいい土地だった。

それは、豊かだからではない。

曖昧だったからだ。


家と仮小屋の境が曖昧だった。

道と獣道の境が曖昧だった。

採草と居住の境が曖昧だった。

定住者と季節の滞在者の境が曖昧だった。

水場と作業場と祈りの場所が、同じ場所に重なっていた。

橋ではない渡りが、道として使われていた。


王都の役人は、長らくその曖昧さに手を焼いてきたが、ネストルは違った。


誰かがそこに住んでいたという事実は、強い。

だが、その人間が「登録済み居住者」なのか「臨時滞在者」なのかを分ければ、動かせる。

誰かが薬草を干していたという事実は、強い。

だが、その棚が「許可薬草棚」なのか「無許可棚」なのかを分ければ、撤去できる。

誰かがそこを通っていたという事実は、強い。

だが、その道が「保全路」なのか「未登録通路」なのかを分ければ、封鎖できる。

そして、誰かがいた場所を「整理済み土地」と呼べば、そこは次の誰かの「定住扶助地」になる。


事実を消す必要はない。

事実の置き場所を変えてしまえばいい。


「書記長」


若い声がした。

ネストルは顔を上げる。


セヴランだった。

まだ二十歳になったばかりの書記官で、字がきれいだった。きれいすぎるほどに。

線に迷いがなく、数字を揃える手つきも早い。


だが、ときどき筆が止まる。

それが、ネストルには少し気になっていた。


「水鳴りの再配置資料です」


セヴランは束ねた紙を差し出した。

ネストルは受け取り、目を通す。


東第二保全区外縁。

旧称、水鳴り。

登録済み居住者、二十三名。

臨時滞在者、四十六名。

無許可薬草棚、十九。

未登録通路、七。

再配置対象者、十二戸。

定住扶助受入予定、十二戸。

保全妨害の可能性、高。


数字は整っていた。

だが、余白に小さな字があった。


ネストルは目を止める。

 

旧称「水鳴り」は、現地では村名ではなく、川音が二重に聞こえる一帯を指す呼称。

夜間帰路の目印として用いられる。

棚、水場、仮小屋、低地家屋、祈り石が一体となって生活圏を構成する。


さらに別の余白。


周辺生活圏として、風待ち、石ぬくみ、鹿戻り、枝結びの呼称あり。

現地ではそれぞれ干し場、休息地、尾根道、分岐印を含む。

台帳上は保全乾燥所予定地、臨時滞在物置群、通行危険区域、無許可標識設置地点として整理中。


さらに別の余白。


定住扶助受入予定十二戸のうち、八戸は王都外縁からの移入者。二戸は水害被災村より移入。

一戸は兵役終了者家族。一戸は施療院紹介。いずれも困窮度高。救済対象であることは事実。

ただし、受入予定地が既存生活圏と重複。


ネストルは余白を指で叩いた。


「これは何だ」

「現地処理簿と旧台帳を照らした補足です」

「欄がない」

「欄がなかったので、余白に」

「余白は記録ではない」


セヴランは唇を結んだ。


「ですが、再配置の判断に関わると思いました」

「どう関わる」

「水鳴りを単なる居住地として扱うと、そこを離れることが、家屋の移動以上の意味を持ちます。道や水場や夜間の帰路も含まれるので」

「だから?」

「臨時滞在者と分類された者の中にも、実質的には生活圏の一部としてそこを使っている者がいます」


ネストルはセヴランを見た。


「実質的には、という言葉を台帳に入れるな」

「ですが」

「実質を拾い始めれば、台帳は閉じられない」


セヴランは黙った。


ネストルは紙束を机に置いた。


「我々は王都ではない。遠くの議場で、きれいな言葉だけを投げる者たちとは違う。薬草を動かし、道を直し、病人に根を届けなければならない。家を失った者に、次の家を与えなければならない。そのためには、閉じられる台帳が要る」

「閉じるために、こぼれるものは」

「必ず出る」


ネストルは即答した。

セヴランの顔がわずかに強張る。


「こぼれをゼロにする帳簿などない。だが、帳簿がなければ、こぼれたことすら分からない」

「では、余白は」

「余白ではなく、別紙にしろ」


セヴランは目を上げた。


「別紙、ですか」

「正式な判断資料には入れない。だが、捨てるな。後で必要になることもある」


セヴランは一瞬、安堵したような顔をした。

ネストルはその表情を見て、少しだけ苛立った。

甘い、と思う。

だが、嫌いではなかった。


若い書記が余白に事実を書きたがることは、まだ組織が完全に腐っていない証拠でもある。

すべての若者が欄だけを見るようになれば、その時こそ終わりだ。

だからネストルは、セヴランを切らなかった。

ただし、台帳の中心には置かない。


「セヴラン」

「はい」

「お前は、記録を広げようとする。悪いことではない。だが、広げた記録は、人を救う前に、判断を止める」

「止まってはいけませんか」

「いけない」


ネストルは議場の方を見た。

オルフェンの声が、まだ遠くに残っているようだった。


「大義は、止まった瞬間にただの飾りになる」


     *


その日の午後、執行補助官エルマーが戻ってきた。

外套には煙の匂い。


セヴランは、それに気づいた。


「水鳴りか」


エルマーは頷いた。

彼はセヴランの幼い頃からの友人だった。

二人とも東領の小役人の子で、王都の学校へは行っていない。

評議会の書記局が人を集めた時、同じ日に採られた。

同じ部屋で字を習い、同じ台帳を写し、夜には粗末な寝台で互いの誤字を笑った。


最初は、同じものを見ていたはずだった。


王都の遅さ。東の混乱。

誰がどこにいるのかも分からない現場。

救えるはずのものが、硬直した形式の遅れで腐っていく苛立ち。


だから二人とも、評議会の門を叩いた。


セヴランは、書くために。

エルマーは、動かすために。


「火が出たと聞いた」


セヴランが言うと、エルマーは板を机に置いた。


「整理中の事故だ」

「事故」

「風が悪かった」

「人は」

「登録上の死者は確認されていない」


 セヴランは、エルマーを見た。


「登録上?」

「登録外の者は、確認中だ」

「それは、死者がいないことを意味しない」


エルマーは黙っていた。


セヴランは低く言った。


「何があった」

「再配置地の整理だ」

「エルマー」

「空き家とされた建物に火を入れた。病と害獣を防ぐためだ。だが、風が回り。棚に移った」

「誰が命じた」

「現地責任者の判断だ」

「お前は止めなかったのか」


エルマーの顔がわずかに動いた。

怒りではない。

疲れでもない。

自分の中に入ってきそうなものを、押し戻す顔だった。


「止める権限はなかった」

「火を止めるのに、権限が要るのか」

「要る」


エルマーは言った。


「現地で命令系統を崩せば、もっと混乱する」

「もっと?」

「そうだ」

「今より?」

「今よりだ」


セヴランは言葉を失った。


エルマーは板を開き、報告書を机に置いた。


東第二保全区外縁、無許可居住群、整理中に火災。

被害家屋、登録外につき算定不能。

臨時滞在者、複数名退去。

保全作業、一部延期。

定住扶助受入、一時延期。

抵抗者、未詳。


セヴランは報告書を見た。


文字は整っている。

エルマーの字ではない。現地書記の字だ。だが、エルマーはそれをそのまま持ってきた。


「定住扶助の人たちは」

「いた」


エルマーは短く答えた。


「もう?」

「棚材が届いていて、二戸は既に仮小屋に入っていた。鍋を抱えた女に、子どももいた。とても加害者の列には見えなかった」

「誰にとっての加害者だ」


エルマーは答えなかった。


セヴランは報告書に目を落とした。

火災。退去。延期。受入。

同じ紙の上に、追われる者と入る者が並んでいる。


「これで出すのか」

「出す」

「家とは書かないのか」

「登録外だ」

「暮らしとは書かないのか」

「報告欄がない」

「作ればいい」

「俺にその権限はない」


セヴランは机を叩きそうになった。

だが、叩かなかった。

エルマーは冷たい。

そう見える。

実際、冷たいのかもしれない。


だがセヴランには、もっと嫌なことが分かっていた。

エルマーは冷酷であろうとしているのではない。

冷酷にならずに済む場所へ、自分を置いている。


欄の中へ。権限の中へ。命令系統の中へ。


そこにいれば、目の前で燃えたものを、火災と書ける。

追い出された者を、退去と書ける。

名前を失った者を、未詳と書ける。

入ってきた家族を、定住扶助対象者と書ける。


「お前、見たんだろう」


セヴランは言った。


「水鳴りを」

「見た」

「何が見えた」


エルマーは少し黙った。

それから、言った。


「撤去対象、移動対象、再配置予定地」


セヴランは息を呑んだ。


「本気で言ってるのか」

「そう見なければ、動かせない」

「違う」

「違わない」


エルマーの声が初めて強くなった。


「お前は書記席にいるから言える。余白に書けるから言える。現地では、誰かが言わなきゃならない。ここは棚ではない。ここは道ではない。ここは居住地ではない。動いてください。退去してください。抵抗しないでください。ここは扶助地になります。人が入ります。誰かが言わなきゃならない」

「それで燃えた」

「ああ、燃えた」


エルマーはすぐに言った。

その早さが、セヴランには痛かった。


「燃えたさ。だから報告する。だから次は火を使わない手順に変える。だから再配置前の確認を増やす。だから」

「だから?」

「だから、止めるな」


セヴランは、エルマーの顔を見た。

それは昔から見てきた友人の顔だった。


だが、その顔の奥には、自分のまだ知らない硬さが潜んでいた。

燃えた家を見ても、なお進むための硬さ。

進むために、燃えた家を報告欄へ押し込む硬さ。


「大義のためか」


エルマーは答えなかった。

だが、その沈黙は、肯定に近かった。


     *


夕刻、ネストルはローデン・カーヴを自身の執務室に呼んだ。

太ってはいない。痩せてもいない。いつも清潔な服を着ている。

指には商人らしい柔らかさがあり、目には値を測る鋭さがあった。


彼は評議会の正式な議員ではない。

だが、薬草地を動かすには、この男の商会が不可欠だった。


カーヴ東方薬草商会。


王都へ送られる東領産の薬草袋の多くに、その印が押されている。

だが、現地の者たちは別の呼び方をした。


カーヴの札。

カーヴの蔵。

カーヴの借り。


その方が、何を握られているのかが分かりやすかった。


「水鳴りの件で、荷が乱れています」


カーヴは穏やかに言った。


「再配置は予定より早かった」


ネストルが言うと、カーヴは軽く頭を下げた。


「承知しております。ただ、現地の棚が失われたことで、乾燥の工程に遅れが出ます。湿った葉は値が落ちる。値が落ちれば、保全費の回収にも影響する」

「代替地は」

「用意できます」


カーヴは迷わず答えた。


「ただし、移動する者たちには借用証が必要です。棚材、乾燥布、保管箱、運搬費。すべて評議会が持つのは難しいでしょう」

「彼らに負わせるのか」

「貸すのです」

「返せなければ」

「採草権で調整できます」


ネストルはカーヴを見た。

カーヴは微笑んでいる。

その顔に悪意は感じられない。


それが面倒だった。


露骨な悪人ならば切りやすい。だがカーヴは、いつも必要の顔をして現れる。

実際、必要でもあった。彼の商会がなければ、東の薬草は王都へ届かない。

届かなければ、評議会は東を救うと言えなくなる。


「定住扶助の十二戸は」

「そちらにも貸付が必要です」

「そちらにも、か」

「家材、鍋、干し台、初回の種根、乾燥布、保管箱。彼らは何も持たずに来ています」

「彼らにも借用証を」

「扶助札だけでは暮らせません」

「返せなければ」

「収穫分で調整できます」

「採草権は」

「最初の三年は共同権扱い。四年目以降に個別配分。評議会の案に合わせます」

「ずいぶん詳しいな」

「ええ、暮らしには、段取りが要りますから」


カーヴは穏やかに言った。

その言葉だけは、間違っていなかった。


「借用証で縛れば、不満が増える」

「何も貸さなければ、彼らは食えません」

「採草権を担保に取れば、元からいた者は自分の土地で採れなくなる」

「採草地は評議会の保全下にあります」

「言葉を選ぶな」


カーヴは少しだけ笑みを薄くした。


「では、率直に。水鳴りの者たちは今、移動させられ、棚を失い、荷を失っています。怒りもあるでしょう。ですが、彼らも食わなければならない。乾かさなければならない。売らなければならない。そこで商会が貸す。買い取る。運ぶ。記録する」

「そして握る」

「保全、ですよ」

「定住扶助の者たちも同じです。家を与えられたと思っている。けれど、家だけでは暮らせない。棚材が要る。道具が要る。最初の食糧が要る。そこで商会が貸す。買い取る。運ぶ。記録する」

「そして握る」


カーヴは、今度は否定しなかった。


「書記長。秩序は、理念だけでは維持できませんよ。人は、必要な場所へ集まります。水、薬、食糧、道、貸し、守り。そこを誰かが握る。王国が握らないなら、評議会が握る。評議会が握りきれない分は、商会が補う」

「補う、か」

「必要なことです」


必要。


ネストルはその言葉が嫌いではなかった。

大義と違い、必要は嘘をつかない。

だが、必要は、もっともらしい顔で人を縛る。


「評議会は、大義を掲げてください」


カーヴは言った。


「値と借りは、商会が引き受けます」


ネストルの目が細くなった。


「嫌われ役を買う、と?」

「役割です」

「商人らしい言い方だ」

「民は、評議会を信じたいのです。議長閣下は、信じるに足るお顔をしておられる。ならば、評議会がすべてを握る必要はありません。貸す時の顔、取り立てる時の顔、値切る顔、倉を閉じる顔。そういうものは、商会が持てばいい」

「そして評議会は感謝される、と」

「救う者が嫌われる必要はありません」


カーヴは静かに微笑んだ。

その言葉は、オルフェンが聞けば傷ついただろう。

そしてネストルが聞くには、あまりに正確だった。


「カーヴ」

「はい」

「借用証の写しは、すべて書記局へ提出しろ。水鳴りの者も、定住扶助の者もだ」

「もちろんです」

「利率は評議会が確認する」

「適正に」

「採草権の移動も、書記局の承認を通せ」

「承知しました」

「現地で、評議会の名を使って勝手に貸すな」

「そのようなことは」

「するな」


カーヴは一拍置いて、恭しく頭を下げた。


「承知しました」


彼の背を見送りながらネストルは、必要な男。ゆえに危険だと、そう思った。

だが、その危うさをどの欄に置けばいいのか、ネストルにはまだ分からなかった。


     *


夜、書記局の灯は遅くまで消えなかった。


セヴランは机に向かっていた。

正式報告書は、すでに清書した。


東第二保全区外縁、整理中火災。

保全作業一部延期。

臨時滞在者複数退去。

定住扶助受入一時延期。


その字は、やはり整っていた。


セヴランは別の紙を出した。

正式な用紙ではない。余り紙だった。端に傷があり、公文書には使えない。

セヴランは、机の上に散らばった紙を見た。


エルマーの現地処理簿。

旧王国採草許可の控え。

定住扶助の受入名簿。

カーヴ商会から回された貸付案。

そして、正式報告には写されなかった走り書き。


それらを一枚ずつ照らしながら、彼はその別紙に書き始めた。


水鳴り。

現地では村名ではなく、川音が二重に聞こえる一帯を指す。夜間、帰路の目印。獣人の子ども、老人、怪我人にとって重要。


薬草棚。

家屋付属物として扱われたが、現地では乾燥、休息、看病、集会、帰路確認を兼ねる。単独の棚ではなく、生活の一部。


渡り。

橋ではない。季節、水深、荷の重さ、年齢によって通れる者が変わる戻り道。台帳上は未登録通路として扱われる。


風待ち。

干し棚と風除けの低い小屋を含む。保全乾燥所予定地として整理中。


石ぬくみ。

休息、看病、冬越しのための季節小屋を含む。臨時滞在物置群として整理中。


鹿戻り。

尾根道、道小屋、戻り印を含む。通行危険区域として整理中。


枝結び。

分岐の枝に結ばれた印によって、行き先、帰路、危険を伝える。無許可標識設置地点として整理中。


ミラ婆。

旧王国採草許可札を保持。現行台帳へ移行されず。棚撤去。椅子のみ残存。本人発言、「昔は、これを見せればよかった」。


保全区再配置計画。

水鳴り周辺では、旧来の生活圏を整理済み地として扱い、東方定住扶助の受入地とする運用あり。

扶助対象者は困窮者であり、救済対象であることは否定できない。

ただし、受入地は既存の獣人生活圏と重複。

双方に対し、家という言葉が異なる意味で用いられている。


エルマー。

執行補助官。水鳴り再配置に同行。

現地で「撤去対象、移動対象、再配置予定地」と発言したとの聞き取りあり。

本人も否定せず。定住扶助対象者について「加害者の列には見えなかった」と発言。


セヴランの筆が止まった。

友人の名を書くことに、わずかなためらいがあった。

だが、書いた。

書かなければ、残らない。

残らなければ、なかったことになる。

彼はさらに書いた。


現地呼称「灰家衆」。

家を焼かれた者、家であったことを消された者たちの自称として発生した可能性あり。

ただし当人たちは、現時点では軍ではない。

夜間に逃げ遅れた者を探し、戻る道を示す者たち。


カーヴ東方薬草商会。

水鳴り再配置後、棚材、乾燥布、保管箱、運搬費の貸付を提案。

定住扶助対象者に対しても、家材、種根、乾燥布、食糧の貸付を予定。

借用証、採草権移動、保管庫利用を通じて生活再建を支援する形式を取る。

ただし、現地では「カーヴの札」「カーヴの蔵」「カーヴの借り」と呼ばれ、強い警戒あり。


そこまで書いて、セヴランは息を吐いた。

これは記録ではない。


少なくとも、書記局の正式な記録ではない。

余白だ。

だが、余白にも字は残る。


「まだ残っていたか」


背後から声がした。

セヴランは振り返った。

ネストルだった。


セヴランは慌てて立ち上がろうとしたが、ネストルが手で制した。


「座っていろ」

「これは」

「別紙か」


セヴランは黙った。

ネストルは机の紙を見た。

怒るでもなく、褒めるでもなく、ただ読んだ。


「エルマーの名まで書いたのか」

「必要だと思いました」

「本人を守れなくなるぞ」

「書かなければ、彼が何をしたのかも、何を見たのかも消えます」

「友人だろう」

「だから書きました」


ネストルはセヴランを見た。

若い。

だが、その若さは、まだ切るべきものではない。


「定住扶助のことも書いたな」

「必要です」

「扶助対象者は、本当に困っている」

「分かっています」

「水鳴りの者たちも、本当に困っている」

「分かっています」

「両方を書くと、判断が鈍る」

「片方だけを書けば、もう片方が消えます」


ネストルは黙った。

一瞬言い過ぎたとも思ったが、セヴランは取り消さなかった。


「カーヴ商会のことも書いたな」

「必要です」

「あの男が好む言葉だ」

「だから書きました」


ネストルは少しだけ口元を動かした。

笑ったのではない。

痛みに似た何かを、表情にし損ねたようだった。


「それを正式記録に混ぜるな」

「分かっています」

「見つかりやすい場所に置くな」

「では」

「隠せ」


セヴランは目を見開いた。

ネストルは静かに言った。


「捨てるな。だが、掲げるな。大義に掲げられた記録は、次の大義に使われる。怒りに掲げられた記録は、次の火種になる。残すなら、読む者を選べ」

「なぜ、そこまで」

「私にも、分からないことがある」


ネストルは窓の外を見た。

外では、議場の明かりがまだ少しだけ残っている。

オルフェンが誰かと話しているのだろう。大義は夜でもよく響く。


「私は、東を救うために台帳を作った」


ネストルは言った。


「だが、台帳は救うためだけには動かない。分ければ、動かせる。動かせば、奪える。許可すれば、取り消せる。空ければ、入れられる。私はそれを知っていた」

「なら、なぜ」

「知った上で動かずにいれば、もっと悪辣な者がそれを実行するからだ」


セヴランは答えなかった。

その言葉が正しいのか、逃げなのか、分からなかった。

たぶん、両方だろう。


ネストルは続けた。


「大義だけでは進まない。だから私は手順を作った。だが、手順だけが進むと、今度は大義が後ろに置かれる」

「では止めますか」

「止められない」

「止めない、ではなく?」


ネストルはセヴランを見た。


「止めれば、東はまた王都の遅さに戻るだろう」

「しかし進めば、誰かの暮らしが燃える」

「そうだ」

「では、どうすれば」


ネストルはすぐには答えなかった。

答えがあるなら、とっくに台帳にしている。


「記録しろ」


やがて、彼は言った。


「正式なものも、正式でないものも。今は役に立たない。おそらく、今の我々を止めることもできない。だが、後で誰かが確かめる時には要る」

「誰か、ですか」

「我々ではない誰かだ」


セヴランは、机の上の余り紙を見た。


水鳴り。灰家衆。ミラ婆。エルマー。保全区再配置計画。カーヴ東方薬草商会。


紙の上では小さい。

けれど、書かなければ消える。


「分かりました」


セヴランは言った。

ネストルは何も返さなかった。


ただ、部屋を出る前に一度だけ振り返った。


「セヴラン」

「はい」

「記録は、人を救うとは限らない」

「はい」

「だが、記録がなければ、奪われたことさえ別の名で呼ばれる」


扉が閉まった。


セヴランはしばらく動けなかった。


     *


翌朝、議場にはまた人が集まった。

オルフェンが立つ。

薬草束の下で、台帳の紋の前で、彼は前日と同じように手を上げた。


「東の安寧を保つために、我々は進まねばならない」


拍手が起きる。

強い拍手だった。


水鳴りの火災は、すでに議場の言葉の中で形を変えつつあった。

不幸な事故。保全作業の困難。

王国による長年の放置が生んだ混乱。

より厳格な登録制度の必要性。

定住扶助計画の一時遅延。

再配置計画の迅速化。


オルフェンは、何度も言葉を選んだ。

事故という語の前に、少しだけ沈黙を置いた。

犠牲という語を言いかけて、飲み込んだ。

混乱という語に替えた。

誰もそれに気づかなかった。

たとえ気づいたとしても、議事録には残らない。


彼は、確かに傷ついていた。

だが、自分たちが誰かを傷つけたとは、まだ言えなかった。

言ってしまえば、評議会を信じて戸を開けた者たちの顔を、どう見ればいいのか分からなくなるからだ。

水鳴りの者たちだけではない。

扶助札を握って東へ来た者たちがいる。

やっと家を持てると思った者たちがいる。

王国に捨てられ、評議会に救われた者たちがいる。

だから彼は、進むと言った。

王国が遅れたのなら、我々は進まねばならない。

その言葉は、彼の怒りであり、祈りであり、逃げ場でもあった。


大義は踊る。

声を得て、拍手を得て、旗を得て、紋を得て、前へ進むように見える。


だが、進んでいるのは大義ではない。

台帳だった。


保全区が増える。

通行証が増える。

許可番号が増える。

扶助札が増える。

借用証が増える。

退去済みの欄が増える。

受入予定地が増える。

未登録通路の札が増える。

通行危険区域が増える。

無許可標識撤去済みの欄が増える。

カーヴの札が増える。


セヴランは書記席で筆を動かした。

正式な議事録を書く。

その下に、見えない別の記録が増えていく。


エルマーは議場の端に立っていた。

外套は替えられていた。煙の匂いはもうない。

だが、彼の目の奥には、昨日の火が残っているようにセヴランには見えた。


カーヴは来賓席に座っていた。

拍手はしない。ただ、必要な時だけ静かに頷く。

その指には、商会の印章指輪が光っている。

あの指で、これから何枚の借用証に印を押すのだろうか。


ネストルは議長の少し後ろに座っていた。

オルフェンの言葉に頷き、ときおり書類を渡す。

誰もが議長を見ている。だが、次に何が動くかを決めているのは、ネストルの手元にある紙だった。


オルフェンは大義を語る。

ネストルは大義を動かす。

エルマーは大義を執行する。

セヴランは大義を記録し、そこからこぼれるものも書く。

そしてカーヴは、必要を握る。


一方、水鳴りでは、家を焼かれた灰家衆が夜道を歩き始めていた。

そのことは、議場にはまだ届いていない。

届いたとしても、きっと別の名で呼ばれただろう。


無許可集団。

保全妨害者。

未登録武装民。


だが、彼らはその名では歩いていない。

焼けた家の名を持って歩いている。


同じ頃、東へ向かう街道には、扶助札を握った家族も歩いていた。

彼らもまた、加害者ではなかった。

壊れた鍋を抱え、痩せた子の手を引き、王都では届かなかった薬を信じ、東に家があると聞いて歩いていた。

その家が、誰の暮らしを空き地と呼び直して作られたものなのかを、彼らはまだ知らない。

 

セヴランは筆を止めずに、耳だけでオルフェンの声を聞いた。


「我々は進まねばならない」


議場に拍手が満ち、大義は今日も踊る。

そうして、東はまた少し、紙の上で別の土地になった。

だが、その紙の上の東が王国軍を呼び寄せるまでには、

あと二年の歳月を俟たねばならなかった。


王国は、いつも遅い。



お読みいただきありがとうございます。


評議会の大義もまた、最初からすべてが偽りだったわけではありません。

実際に救われた者がいたからこそ、その仕組みは止まれなくなりました。


次回、正面の橋で敗れた王国軍と、家を失った灰家衆が、夜の境で向き合います。

前編と後編、一挙二話公開です。ご期待ください。

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