第二話 灰家の季節
獣人たちは、東の土地を不便だとは思っていなかった。
王都の馬車が嫌う湿地は、薬草の根が太る場所だった。
人間の兵が迷う細道は、子どもが帰るための道だった。
屋根を鳴らす強い風は、干した葉を早く乾かし、川の音は、暗がりの中で方角を教えた。
彼らの暮らしは、ひとつの家だけで完結していない。
春には川沿いの棚を使い、夏には湿地の縁へ仮小屋を出し、秋には山裾の風で葉を干す。
冬には低い家へ戻り、傷んだ紐を替え、次の季節の道を子どもに教える。
だから、王都の役人が「どこに住んでいる」と尋ねると、答えはいつも少しだけずれた。
家はある。だが、家だけでは暮らしていない。
道があり、棚があり、干し場があり、水場があり、夜に戻るための印がある。
それらがつながって、ようやくひとつの暮らしになる。
東は、彼らにとって辺境ではなかった。身体が覚えている土地だった。
水鳴りという名は、もともと村の名ではなかった。
川音が二つ重なる場所。
夜に道を見失った子どもが、耳で帰ってこられる場所。
獣人たちはそこを、水鳴りと呼んだ。
しかし王国の役人が地図に写した時、その名はミナリ村になった。
風待ちは、山裾の風で葉を干す場所だった。
石ぬくみは、昼の陽を抱いた石が夜まで温かく、年寄りや熱を出した子どもが休む場所だった。
鹿戻りは、山裾の獣道と人の帰り道が重なる斜面の名だった。
草の倒れ方を見れば、先に通ったのが黒鹿か、人か、追われている者かが分かった。
枝結びは、山道と川道と干し場へ向かう細道が重なる分岐だった。
そこでは、枝に紐を結ぶ。低く結べば帰る者の印。高く結べば採りに行く者の印。葉を裏返せば、追われている者の印。
王国の地図では集落とも道とも呼びにくい場所。
けれど、獣人たちにとっては、それらのすべてが生活圏だった。
そして川には、橋だけがあるのではない。
浅くなる季節だけ通れる石の列があり、雨の後には消える砂の筋があり、子どもなら通れるが荷を背負った大人なら沈む場所がある。
水鳴りの者たちは、そうした場所をまとめて渡りと呼んだ。
橋ではない。王国の管理下にある道でもない。
けれど、迷わず戻るためには必要な場所だった。
水鳴りの朝は、薬草の匂いから始まる。
夜のうちに湿りを含んだ葉を、日が高くなる前に一度だけ返す。
風が強ければ棚の高さを下げ、南から雨の気配が来れば、軒下へ移す。
古い者は空を見て決め、若い者はその手つきを見て覚える。
水鳴りの家々は、家だけで建っているわけではない。
軒先から薬草棚が伸びている。
木の柱を四本、あるいは六本立て、割った枝を格子のように渡した棚だった。
高いものは大人の胸ほどあり、低いものは子どもでも葉を返せる。棚の上には薬草の葉、根、花、蔓、種を包んだ布が並ぶ。
場所によっては、日除けのための薄い草屋根や、雨を逃がすための編んだ葦が掛けられていた。
風を通すため、壁はない。
だが、そこは外でもなかった。
棚の下には、雨を避けた鶏が丸くなり、子どもが隠れ、熱を出した者が寝かされることもあった。
柱には、子どもの背丈を刻んだ傷が残っている。
椅子を置けば、年寄りが葉を選り分けながら座れる。
薬草を束ねる手元で、誰かが誰かの噂をする。
それは確かに、棚だった。
だが、棚だけというわけでもない。
家の外へと伸びた、もう一つの部屋だった。
だが、王国の地図にも、東領保全評議会の台帳にも、そこまでは書かれていない。
棚は棚として数えられる。
家は家として数えられる。
その二つが繋がって、ようやく暮らしになることは、彼らの欄には入らなかった。
ラウカは、その棚の下で細い紐を結んでいた。
灰色の布切れに、乾きかけの薬草の葉を一枚。結び目は緩く、ほどけそうでほどけない。風が吹くと、布が小さく鳴る。
ラウカは、水鳴りの生まれではない。枝結びの出だった。
枝に紐を結び、人の行き先と戻りを知らせる集落。
評議会の札が立った日、その印は無許可標識として外された。
そうしてラウカは、まだ評議会の手が伸びていない水鳴りへと身を寄せたのだ。
「また印か」
背後から声がした。
ハウゼンだった。
まだ若い。肩は広いが、後年のような重さはない。
立ち方にも、少し余分な力がある。
ラウカは振り向かずに言った。
「戻るための道が増えたからな」
「塞がれただけだ」
「だから、印を増やす」
ハウゼンは舌打ちした。
薬草棚の向こうに細い道がある。村の裏を通って、低い川へ出る道だ。
子どもなら走れる。荷を背負った大人でも、少し身を低くすれば通れる。
だが馬車は無理だ。兵の列も無理だろう。
昔からあった道だった。
ただ、名前はひとつではなかった。
村の者は裏の川道と呼び、子どもは秘密の道と呼び、薬草を採る者は朝の道と呼んだ。誰が使うかで、道の名は変わった。
しかし評議会が来てから、その道は未登録通路になった。
名がついた途端、そこは通れない道になった。
「昨日、東の検問で止められた」
ハウゼンが言った。
「誰が」
「ノルの母親だ。薬草袋を二つ持っていただけだ。保全印がないから戻れと言われた」
「帰ってこれたのか」
「帰れなかった。鹿戻りまで回った。夜までかかった」
ラウカは紐を結び終えた。
結び目を指で確かめる。
「なら、やっぱりこの印は要る」
「印ばかり増やしても、道そのものが増えるわけじゃない」
「でも、迷う者は減る」
ハウゼンは言い返そうとして、やめた。
ラウカはいつもこうだった。怒りを否定しない。だが、怒りのまま走ることもしない。
誰がどこを通り、誰が戻らず、誰が夜に足を滑らせたかを覚えている。
それが、ハウゼンには少し苛立たしかった。
もっと怒れ、と思う。もっと歯を剥け、と思う。
だが、ラウカが印を結んでいなければ、昨日のノルの母親は帰れていなかったかもしれない。
「ハウゼン」
別の声がした。
ローゼスだった。
黒い髪を短く切り、目つきだけで人を黙らせるような男だ。
手には弓を持っている。狩りの弓ではない。弦の張りが強く、近い距離で確実に相手を止めるための弓だった。
「北の棚に、とうとう札が貼られた」
「何の札だ」
「無許可薬草棚。三日以内に撤去」
ハウゼンの耳がぴくりと動いた。
「誰の棚だ」
「ミラ婆のところだ」
ラウカの指が止まった。
ミラ婆の棚は、村で一番古い。柱の一本には、子どもの背丈を刻んだ線が残っている。
ハウゼンの線も、ローゼスの線も、ノルの線もある。
棚の奥には、古い火傷跡のある椅子が置かれていた。ミラ婆の夫が生きていた頃からある椅子だ。
ミラ婆の棚は、まさに水鳴りの歴史そのものであった。
そこが、無許可薬草棚。
ハウゼンは歩き出した。
ラウカも立ち上がる。
ローゼスは真っ先に向かった。
*
北の棚には、人が集まっていた。
ミラ婆は棚の前に立っている。
小柄な獣人の老婆で、背中は曲がっているが、目は強い。
手には古い木の札を握っていた。
評議会の札ではない。王国統治時代の採草許可札だった。
端は欠け、文字はかすれている。
その前に、評議会の者が三人いた。
兵が二人。そして、若い官吏が一人。
その男は、鎧を着ていなかった。
濃い色の外套をまとい、胸には評議会の小さな印章が留められている。
腰に剣はあるが、手はかけていない。
手にしているのは紙束と、薄い板だった。
声を荒げてはいなかった。
それが、かえって冷たく見えた。
「登録番号がありません」
男は言った。
「この棚は、旧王国の採草許可に基づくものです」
ミラ婆が木の札を差し出す。
若い官吏は、それを一度だけ見た。
「その許可は、現在の保全台帳へ移行されていません」
「移行?」
「再登録です」
「誰がそんなことを決めた」
「東領保全評議会です」
男は少しも迷わずに答えた。
ラウカはその声を聞いた瞬間、嫌なものを感じた。
怒鳴る者の方が、まだ分かりやすい。
この男は怒っていない。嘲ってもいない。面倒そうですらない。ただ、すでに決まっていることを読み上げている。
人の家の前で。人の棚の前で。何十年も葉を返してきた手の前で。
「ここは家の棚だ」
ハウゼンが言った。
若い官吏が顔を向けた。
目が合う。
黒くも薄くもない、普通の目だった。だが、その普通さが妙に怖い。
相手を憎んでいる目ではない。相手を見ているようで、相手の後ろにある欄を見ている目だった。
「住居登録は確認しています」
「なら分かるだろう」
「住居登録と薬草棚登録は別です」
ハウゼンの喉が鳴った。
ローゼスが一歩前に出る。
ラウカが腕をつかんだ。
「やめろ」
「聞いたか。別だとよ」
ローゼスは笑っていない。
「婆さんがこの棚で何人の熱を下げたか、こいつの紙には別なんだと」
若い官吏は板に目を落とした。
「三日以内に撤去してください。撤去されない場合、保全隊が整理します」
「整理?」
ミラ婆が呟いた。
若い官吏は、もう一度同じ声で言った。
「無許可棚の整理です」
ハウゼンが前へ出た。兵が槍を構える。空気が固まる。
若い官吏は動かなかった。
怯えた様子もない。勝ち誇った様子もない。ただ、書かれた文字の外に出るつもりがないように立っている。
「名は」
ハウゼンが言った。
「何?」
「お前の名だ。紙に書かれた文言じゃなく、お前の名を言え」
一瞬、若い官吏の目が揺れた。
それは本当に一瞬だった。
「エルマー」
男は言った。
「東領保全評議会、執行補助官エルマー」
「補助官」
ローゼスが低く笑った。
「人の家を奪いに来るにしては、ずいぶんと軽い肩書きだな」
エルマーは答えなかった。
代わりに、板へ何かを書き込んだ。
ラウカは、その手を見ていた。
細い手だった。
剣より筆に慣れた手。だが、指先は少し荒れている。現場に来たことのない書記ではない。
木札を剥がし、戸を叩き、抵抗する者の前に立ってきた手だった。
その手が、ミラ婆の棚を別の名前に変えていく。
「何を書いた」
ラウカは思わず聞いた。
エルマーは顔を上げた。
「告知済み、と」
「それだけか」
「本日の処理は告知です」
「ここで話したことは」
「必要な事項は記録しました」
「何が必要かは、誰が決める」
エルマーは少しだけ黙った。
兵の一人が苛立ったように槍を握り直す。
エルマーは言った。
「決まっています」
それは答えではなかった。
だが、彼にとっては答えなのだと、ラウカには分かった。
決まっています。
誰が、なぜ、何を見て決めたのか。
そこはもう問わない。問わないことで、立っていられる。
ハウゼンが低く言った。
「三日後に来るなら、俺がいる」
エルマーは板を閉じた。
「抵抗があれば、保全妨害として扱われます」
「好きに扱え」
「あなた一人では済みません」
ハウゼンの目が変わった。
エルマーは続けた。
「この棚の所有者、同居者、採草協力者、周辺未登録通路の利用者。抵抗が確認されれば、関連者の登録を確認します」
ミラ婆の手が震えた。
ハウゼンは動けなかった。
自分一人なら、前へ出られる。
だが、ミラ婆の名が出た。ノルの母親の薬草が出た。印を結んでいるラウカの道まで、見えない糸で引かれた。
エルマーは脅している。それも、怒鳴らずに。
暴力で制圧する代わりに、人の周りにある名前を数えている。
ローゼスの指が弓に伸びた。
ラウカはそれを強く押さえた。
「今じゃない」
「いつならいい」
「ここで撃てば、婆さんの棚どころじゃ済まない」
ローゼスは、ラウカを見た。
「もう済んでない」
その声は静かだった。
エルマーたちは去っていく。
兵が二人、先に道を開ける。エルマーは一度も振り返らなかった。
ミラ婆は、手に持った古い札を見ていた。
「昔は、これを見せればよかった」
誰も答えなかった。
「これを見せれば、採っていいと。売っていいと。病人に渡していいと」
木の札は、もう何も通さない。
ハウゼンは拳を握った。
爪が掌に食い込む。
ラウカは棚の柱を見た。背丈の線がいくつもある。誰かが幼い頃に刻んだ線。
ハウゼンの線は、他より少し深い。
ローゼスの線は斜めに曲がっている。
ノルの線は、まだ新しい。
この棚は、無許可棚ではない。だが、無許可棚と書かれた。
書かれたものは、三日後に来る。
*
三日後、棚は壊されなかった。
ミラ婆が、自分で下ろしたからだ。
壊される前に、近所の者たちが集まり、薬草を移し、柱を外し、屋根板を運んだ。
誰も大きな声を出さなかった。出せば、抵抗として記録されるかもしれないからだ。
子どもたちは家の中へ入れられた。
だが、隙間から見ていた。
ハウゼンは柱を担ぎながら、何度も足を止めた。
「やめろ」
自分に言ったのか、周りに言ったのか分からない、そんな声。
ミラ婆は、古い椅子だけを最後まで残した。
「これは、棚じゃない」
そう言って、椅子に手を置いた。
「これは、あの人の椅子だ」
誰も、何も言えなかった。
夕方、エルマーが来た。
兵を二人連れていた。
棚はもうない。柱も屋根板も外されている。薬草も移されている。
残っているのは、地面に薄く残った柱の跡と、古い椅子だけだった。
エルマーは周囲を見た。
「撤去済み」
板に書く。
ミラ婆が言った。
「椅子は」
「棚の構成物でなければ、対象外です」
「では、持っていていいんだね」
「対象外です」
「いいのかと聞いてるんだよ」
エルマーは一瞬、言葉に詰まったように見えた。
だが、すぐに戻った。
「台帳上、対象外です」
ミラ婆は椅子を抱えた。
それ以上は聞かなかった。
ラウカは、エルマーを見ていた。
この男は、たぶん自分を冷酷だとは思っていない。
むしろ、線を守っている。棚はだめ。椅子は対象外。抵抗がなければ、これ以上はしない。決められた範囲を越えない。
だからこそ怖い。
人を見て冷たくしているのではない。
人を見ないことで、冷たくならずに済ませているような。
ハウゼンが言った。
「お前、夜に眠れるのか」
エルマーは顔を上げた。
「職務です」
「それで眠れるのかと聞いてる」
「……必要な整理です」
「違う。眠れるのかだ」
エルマーは答えなかった。
兵の一人が口を挟む。
「もういいだろう。撤去は済んだ」
エルマーは板を閉じた。
「次の区域へ行きます」
彼らは去った。
その背中に、ローゼスが小石を投げようとした。ラウカが止める。
ローゼスは小石を握り潰すようにして、地面へ落とした。
「撃てばよかった」
「撃たなくてよかった」
「何が違う」
「婆さんの椅子が残った」
ローゼスはラウカを睨んだ。
「椅子だけ残って、何になる」
ラウカは答えられなかった。
その夜、水鳴りの灯は少なかった。
薬草の匂いも、少し薄くなった。
*
それからも、札は少しずつ増えていった。
無許可棚。未登録通路。臨時居住区域外。採草権保留。退去確認予定。
言葉はどれも整っていた。怒鳴らず、殴らず、燃やさずに置ける言葉だった。
だが、置かれた場所で、人が動けなくなる。
道はあるのに通れない。
家はあるのに住んでいたと言えない。
棚はあるのに棚ではない。
昔の札はあるのに、今の欄にはない。
水鳴りだけではなかった。
風待ちの干し棚には、保全乾燥所移管予定という札が貼られた。
石ぬくみの季節小屋は、臨時滞在物置と書かれた。
鹿戻りの斜面は、通行危険区域として封鎖された。
そして枝結びの古い分岐には、無許可標識撤去済みという小さな札が立った。
そのたびに、誰かが言った。
あそこは棚ではない。
あそこは小屋ではない。
あそこは標識ではない。
あそこは、帰る場所だ。
だが、そこにあった声は紙の上に載らなかった。
水鳴りの者たちは、昼の道を減らし、夜の道を増やしていった。
灰色の布に薬草の葉。枝を三本。紐の結び目を右へ一度。
戻る者には低く。隠れる者には高く。追われている者には、葉を裏返す。
最初は、ただの目印だった。
夜に迷わないため。検問を避けるため。戻らない者を探すため。
しかし、やがて誰がどの印を知っているかも、慎重に選ばなければならなくなった。
ローゼスは、その変化をいち早く受け入れた。
「印を見つけるのは、こちらだけとは限らない」
彼は言った。
「なら、嘘の印も要る」
ラウカは首を振った。
「嘘の印を置けば、戻る者も迷う」
「敵を迷わせずに、味方だけ通す都合のいい道なんてない」
「それでも、戻る道を罠に使うべきじゃない」
「戻れなくされたから、こうなってる」
ハウゼンは二人の間に立つことが増えた。
ハウゼン自身も、ローゼスの言うことが分かる。二度と奪われないためには、相手に夜を恐れさせる必要がある。そう思う日がある。
だが、ラウカの言うことも分かる。
道は、戻るためにある。
それを忘れた時、何かが変わってしまう。
その「何か」が意味するものを、まだ誰も知らなかった。
*
最初の灰は、風待ちから来た。
干し棚の一つが燃えた。
評議会の記録には、乾燥所火災と書かれた。
次の灰は、鹿戻りから来た。
尾根の道小屋と、枝に結ばれていた戻り印が焼けた。
通行危険区域内の火災と書かれた。
石ぬくみでは、季節小屋が崩された後、残った柱が燃えた。
不要物処分と書かれた。
どれも、小さな火だった。
小さい、と紙には書けた。
だが、そこに暮らしていた者にとっては、家の一部だった。
眠った場所。
熱を冷ました場所。
薬草を置いた場所。
子どもが隠れた場所。
そして、もう戻れないと分かった場所。
灰は風に乗って、水鳴りまで届いた。
洗った布にも、乾かした葉にも、子どもの毛にも、灰の匂いがついた。
その頃から、誰かが言い始めた。
家が灰になる季節だ、と。
*
その日の昼は、風が悪かった。
南から湿った風が上がり、薬草棚の残った木片がきしんだ。
家々の煙は低く流れ、川沿いへ落ちた。
年寄りたちは空を見て、早く戸を閉めろと言った。
夕方、エルマーがまた来た。
今度は兵だけではなかった。
荷馬車が二台。縄。解体用の斧。空になった家へ印をつけるための白い石灰。そして、油の壺。
背後には、見知らぬ人々もいた。
人間の家族が数組。
不安そうで、痩せていて、子どもを抱えている。
母親らしい女は、こちらと目が合うとすぐに逸らした。
男は評議会兵の背中だけを見ている。
ローゼスが低く言った。
「何だ、あいつら」
エルマーが板を開いた。
「本日をもって、この区域は東第二保全区再配置地に移行します」
誰もすぐには理解できなかった。
ミラ婆が前に出る。
「ここは水鳴りだ」
「旧称です」
「旧称?」
「現在の登録上、この区域は東第二保全区、再配置予定地です」
ラウカは、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
再配置。
つまり、誰かがここに入り、誰かがここから出されるということ。
「我々はどこへ行けと」
ハウゼンが聞いた。
「登録済み居住者には、臨時滞在区への移動が案内されます」
「臨時って何日だ」
「状況に応じて更新されます」
「戻れるのか」
「保全計画に従います」
ローゼスが笑った。
短い笑いだった。
「全部、答えじゃないな」
エルマーはローゼスを見た。
「移動に応じない場合、保全妨害として扱われます」
「またそれか」
「またです」
エルマーは初めて、少しだけ強く言った。
だが、怒りではなかった。
自分の言葉を揺らさないために、声を固めたように聞こえた。
「何度問われても同じです。登録にない居住は認められません。無許可棚は撤去されます。未登録通路は封鎖されます。再配置地には、再配置対象者が入ります」
ハウゼンが一歩出た。
「俺たちは何だ」
「臨時滞在者です」
その言葉が落ちた瞬間、水鳴りの音が消えた。
臨時。
ハウゼンは、自分の足元を見た。
この土で転んだ。
この道で走った。
この棚で背を測った。
この川で水を飲んだ。
この家で熱を出した。
この渡りで、迷った子どもを背負って帰った。
この村で、誰かを埋めた。
それが、臨時。
「エルマー」
ラウカが言った。
自分でも、なぜ名を呼んだのか分からなかった。
エルマーがこちらを見る。
「あなたは、この村を見ているか」
「見ています」
「何が見える」
「撤去対象、移動対象、再配置予定地です」
「それだけか」
エルマーは黙った。
ラウカは続けた。
「薬草棚の下の線は見たか。ミラ婆の椅子は見たか。川道の印は見たか。渡りの水の引き具合は見たか。ここで生まれた子の名は見たか」
「必要な事項は確認しています」
「必要じゃないものは、どこへ行く」
エルマーの指が板の端を握った。
その時だけ、彼の顔にわずかな陰が差した。
だが、すぐに消えた。
「移動を開始してください」
兵が前へ出た。
誰かが泣き出した。
誰かが怒鳴った。
誰かが戸を閉めた。
ローゼスが弓を抜いた。
ハウゼンがそれを押さえた。
「今じゃない」
「またそれか」
ローゼスの声は低かった。
「今じゃない、今じゃない。じゃあ、いつだ」
ハウゼンは答えられなかった。
兵たちは家々を回った。
戸を叩き、人を外へ出す。
中を一度だけ確認し、入口へ白い印を引く。
外へ出された者の名を、書記が板へ書く。
だが、誰もが素直に出たわけではない。
寝たきりの老人がいた。
棚の下に隠れた子どもがいた。
荷をまとめるまで待ってくれと頼む者がいた。
家族が戻るまで動けないと言う者がいた。
それでも、白い印は増えていった。
「退去確認」
書記が読み上げる。
「次」
「待て」
ラウカが言った。
「その家には、まだ婆さんがいた筈だ」
「登録上の居住者は移動済みです」
別の官吏が答えた。
「いると言っている」
「確認対象名簿にはありません」
「名簿になければ、人じゃないのか」
官吏は答えなかった。
エルマーが顔を上げると、家の奥から咳が聞こえた。
その音は彼にも聞こえていたはずだった。
しかし、遅れて到着した現地責任者は言った。
「日没前に処理を始める。風が強くなる前に終えるぞ」
兵が油壺を下ろした。
ハウゼンが目を見開く。
「何をする気だ」
「残置物の処理です」
エルマーが答えた。
「害獣と病を防ぐため、退去確認後の不要物は焼却します」
「家を焼くのか」
「家屋ではありません」
エルマーの声が、わずかに詰まった。
「登録外建造物と、残置物です」
ローゼスが弓を引いた。
「同じだろうが!」
矢が放たれる前に、ハウゼンが腕を掴んだ。
兵たちが一斉に槍を構える。
その間にも、油はまかれた。
最初に油をかけられたのは、外された棚板だった。
次に、取り壊された小屋の柱。
濡れて腐った葦。
評議会の書類では、すでに不要物とされたもの。
だが、その柱には、子どもの背丈を刻んだ傷があった。
その葦は、病人を寝かせた屋根だった。
その棚板には、昨日まで薬草が干されていた。
「まだ人がいる」
ラウカが言った。
エルマーは現地責任者を見た。
「退去確認が終わっていない家があります」
「登録済みの居住者は移動した」
「登録外の者が」
「確認対象ではない」
現地責任者は短く、ただそう言った。
「執行補助官。処理簿を」
エルマーは油壺を見た。
白い印のついた家を見た。
閉じた戸を見た。
そして、何かを書き込んだ後、処理簿を閉じ、静かに言った。
「残置物処理、開始」
彼の号令と同時に、評議会兵が一斉に点火した。
積まれた棚板の下で、乾いた草が、ぱち、と鳴った。
その時、吹き上げた風によって低く流れていた煙が、突然持ち上がる。
火の粉は軒先へ飛び、乾かしていた薬草の束へ移った。
「火を消せ!」
誰かが叫んだ。
兵が水桶へ走る。
住民が家へ戻ろうとする。
別の兵がそれを押し返す。
「まだ中にいる!」
「退去済みだ!」
「いると言っている!」
油壺が一つ倒れた。
地面を走った火が、別の棚へと届く。
薬草の束が黒く縮んだ。
草屋根が燃え上がる。
水鳴りの風は、棚から棚へ火を運んだ。
ミラ婆が椅子を守ろうとする。
ラウカが子どもを抱える。
ローゼスが兵を殴り倒す。
ハウゼンが戸を蹴破る。
エルマーは何かを叫んでいた。
「処理を中止しろ」
「水を回せ」
「中に人がいる」
だが、最初の命令を止めなかった声が、火の後で何を叫んでも遅かった。
水鳴りの音が、燃える音に消されていく。
ハウゼンは、焦げた戸板を掴んだ。
熱い。
掌の皮が剥ける。
それでも離さなかった。
これは家だ、と彼は思った。
登録外建造物ではない。
残置物ではない。
不要物ではない。
家だった。
燃えたあとでも、それは家だった。
*
夜明け前、川道の奥に人が集まった。
怪我人。子ども。年寄り。荷を持てなかった者。何も持たずに来た者。煙を吸って声の出ない者。
水鳴りだけではなかった。
風待ちから来た者がいた。
石ぬくみから来た者がいた。
鹿戻りや、枝結びの者の姿もあった。
それぞれの家が、それぞれの名で灰になっていた。
ハウゼンは肩に火傷を負っていた。
ローゼスの拳は血で腫れている。
ラウカの指は、紐で切れていた。
誰も、眠っていなかった。
遠くで、まだ煙が上がっている。
ミラ婆は椅子を持ってこられなかった。
そのことを、誰も口にできなかった。
ハウゼンは川の音を聞いていた。
水が二つの石に当たって、重なって鳴る。昔からある音だった。
子どもの頃から聞いていた。だが、その夜の音は、別のものに聞こえた。
今はもう、戻れない場所を覚える音。
「このまま逃げるのか」
ローゼスが言った。
誰も答えない。
「逃げ道を結んで、隠れて、次の札を待つのか」
ラウカは顔を上げた。
「逃げたから、ここにいる」
「逃げただけだ」
「逃げられなかった人もいる」
「だから言ってる」
ローゼスは血のついた手を握った。
「次は、逃げる道だけじゃ足りない。向こうが夜を怖がるようにしなきゃならない」
ハウゼンは黙っていた。
それは分かる。
嫌になるほど分かる。
燃える家の前で、何もしないでいることはできない。
誰かがまた来る。札を貼る。告知済みと書く。撤去済みと書く。火災と書く。
なら、来られないようにするしかない。
夜に来たら、戻れないと思わせるしかない。
だが、ラウカが言った。
「夜を怖がらせるだけなら、戻ろうとする人も怖がらせることになる」
「じゃあ何だ」
「道は残す」
「道はすでに燃えた」
「まだ全部燃えたわけじゃない」
ラウカは、濡れた布を広げた。
灰色の布だった。
誰かの家から持ち出したものか、燃え残った幕か、もう分からない。端は焦げている。泥も血もついている。
彼はその布を細く裂いた。
「信じない」
ラウカは言った。
「だから、残す」
ローゼスが笑った。
笑いではなかった。
「ああ、俺も信じない」
彼は弓を握った。
「だから、牙を研ぐ」
ハウゼンは二人を見た。
同じ言葉から、違うものが出ている。
信じない。
だから、残す。
信じない。
だから、牙を研ぐ。
どちらも分かる。
どちらも、自分の中にある。
ハウゼンは、焼けた水鳴りの方を見た。
煙の向こうに、朝が来ていた。
朝は来る。
家が燃えても、来る。
なら、夜にすることを決めなければならない。
ラウカは灰色の布を枝に結んだ。
今までの印より低く、強く。
「これは、戻る道の印だ」
ラウカは言った。
「そして、探しに行く者の印だ」
ローゼスが弓を背負い直した。
「追う者の印でもある」
ハウゼンは二人を見た。
戻る道。探す道。追う道。
その違いを、今はまだ誰も分けられない。
それでも、夜は来る。
来るなら、こちらも夜を歩く。
ハウゼンは灰色の布に手を置いた。
「行くぞ」
誰かが頷いた。誰かが泣いた。
誰かが、焼けた家の方を一度だけ振り返った。
その夜から、家を灰にされた者たちは、夜道を歩くようになった。
最初は、逃げ遅れた者を探すために。
次に、戻る道を守るために。
やがて、追ってくる者を止めるために。
水鳴りの者もいた。風待ちの者もいた。
石ぬくみの者もいた。鹿戻りから来た者もいた。
彼らはまだ、一つの村の名では呼べなかった。
もう、ひとつの村ではなかったからだ。
誰かが、灰色の布を見て言った。
灰の家の者たちだ、と。
帰る場所を灰にされ、なお、その場所の名を捨てなかった者たち。
灰家の季節は、こうして始まった。
そしていつか、その牙は別の名で呼ばれることになる。
ただ、灰の匂いの中で、ハウゼンは初めて刃を握った。
家を取り戻すためではない。
家だったことを、もう二度と消させないために。
お読みいただきありがとうございます。
以上が、夜の牙の前身、灰家衆成立までの経緯です。
ただ暮らし、戻るための印を残していた者たちが、なぜ牙を持つことになったのか。
次回は視点を変え、東領保全評議会の側から、水鳴りで起きたことを描きます。




