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白冠王国旧領奪回戦記  作者: Chroe


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第一話 白冠の東征

本作の執筆にあたり、生成AIを構成の検討、設定や展開の整理、文章表現の推敲・校正補助として使用しています。生成された文章や提案はそのまま採用せず、作者が内容を確認し、取捨選択・加筆修正したうえで最終稿を作成しています。物語の企画、設定、人物造形、主題、最終的な文章および作品に関する責任は作者にあります。


『勇者ではなく、測量士』本編より、およそ四十年前。

白冠王アルベリクはいかにして王となったのか。

灰家衆はなぜ生まれ、王国は何を取り戻し、何を取りこぼしたのか。


『勇測』本編では過去の出来事として語られていた「旧領奪回戦」を、全六話で描きます。

本編未読のままでも、一つの戦記としてお読みいただけますので、お楽しみいただけたら幸いです。




アルセリアの王は、代々、白冠王と呼ばれる。

初代王が、敵将の血に濡れた冠を白い布で包んだという故事に基づく王号だった。

血を拒むのではない。血を忘れないために、白で包む。

その矛盾を、アルセリアの王は代々白冠という形で受け継いできた。


だがその朝、アルセリア王アルベリクの戴く冠は、白くなかった。彼の額にあるのは、空位期間が生じた場合に代理人が被る簡素な飾り付けの鉄冠。

その暗く鈍い輝きは、まさしく彼が今、王として直面している葛藤を象徴しているようにも見えた。



東門の外には、王国軍の列が伸びていた。

槍兵。弓兵。荷馬車。治療役。測量役。補給役。御者。旗手。書記板を胸に抱えた若い記録官。

夜営具を縛り直す兵の手は、朝露で少し濡れている。

門前に集まった民は、王国軍の出立を見ていた。

歓声はあった。しかし、熱狂の類ではない。

誰もが分かっている。これから向かう東は、ただ取り返せば済むような土地ではない。


十数年にわたり、この「東領」と呼ばれる地域は王国の手から離れていた。

東は、昔から王国の中で扱いの難しい土地だった。

都からは遠く、道は細く、川と湿地が多い。雨が続けば馬車は沈み、乾けば薬草地を守るために道を選ばなければならない。

広い軍道を通せば早いが、肥沃な採草地が荒れてしまうだろう。


それでいて、東は王国にとって捨て置いておけるような土地でもなかった。

王都の施療院で使われる薬草の多くは東から来る、というのが理由の大部分を占めているが、もっとも王都の頭を悩ませていたのは、東領に暮らしていたのは獣人だけではないという事実だ。

街道沿いには人間の農家があり、宿場があり、河港があり、薬草を集める市があった。

古い王国の出張所には小役人が詰め、税を数え、許可札を写し、薬草袋に印を押していた。


一方、湿地の縁や山裾には、獣人たちの生活圏が点在していた。

彼らの暮らしは、家だけで完結していない。棚、水場、干し場、季節で変わる道。それらがつながって、ようやく一つの生活になる。

そのため、王国の台帳へ写そうとすると、いつも何かがこぼれた。

しかし、人間と獣人の生活圏が完全に分かれていたというわけでもない。

薬草市では獣人が採った葉を人間の商人が買い、河港では人間の荷運びが獣人の干した袋を積み、施療所では種族を問わず熱のある子が寝かされた。

祭りの日には、獣人と人間が同じ酒場に座ることもあったという。


同じ東に暮らしていた。

だが、同じ形で暮らしていたわけではない。


人間の家は、王国の台帳に載りやすかった。戸があり、畑があり、税があり、家長の名があったからだ。

一方、獣人の道は、載りにくかった。季節で変わり、棚と水場と仮小屋を結び、夜の耳と匂いに支えられていたからだ。

王国はその違いを、長く曖昧なままにしてきた。

定住しているのか、通っているのか。家なのか、採草小屋なのか。道なのか、獣道なのか。棚なのか、屋根なのか。王都の役人が紙の上で分けようとすると、いつも何かがこぼれた。

東領は、確かに王国にとって必要な土地だったが、王国という形だけでは、うまく掴めない土地でもあった。


始まりは飢饉だった。

次に薬草地の荒廃が来た。

王都からの徴税と救援は遅れ、東の貴族たちは互いに責任を押しつけた。

そこへ立ったのが、東領保全評議会だった。


彼らは言った。


王国が見捨てた土地を、我々が保全する。

薬草地を守り、道を整え、住民を記録し、無許可の滞在を整理する。


最初、王都はそれを黙認した。東を立て直すだけの手が、王宮には足りなかったからだ。

しかし、やがて評議会は、王国の印章よりも自分たちの通行証を重くした。

王税よりも保全費を先に集めた。

古い村の名を保全区に変え、薬草棚に番号を振り、住んでいた者と通っていた者を別々の欄へ分けた。

東は、戦で奪われたのではない。

少しずつ、紙の上で別の土地にされていったのだ。

とはいえ王国も、ただ黙って見ていたわけではない。

これまでにも、幾度か東へ手は伸ばされた。


最初は使節。次は、護衛を伴った監察官だった。その次は、討伐の名を帯びた小隊。

だが、いずれも東領保全評議会の中枢には届かなかった。


ある時は、道が流された。

ある時は、橋の補修を理由に足止めされた。

ある時は、薬草市が閉じ、補給の見込みを失った。

ある時は、案内人が姿を消した。

ある時は、進軍路の先に、兵ではなく、薬草袋を背負った農夫たちが集まっていた。

報告書に並ぶ理由は、そのたびに違った。


悪天候。現地事情。補給不備。住民保護の必要。評議会側との調整未了。


どれも嘘ではなかった。

だが、どれも全体ではなかった。

ゆえに王都の会議では、いつも同じ結論になった。


東は複雑である。

次は、より大きな兵を出すべきである。

次は、より強い権限を持つ監察官を送るべきである。

次は、より明確な王命を携えるべきである。


そして次もまた、評議会には届かなかった。


東領は、城壁で閉ざされていたわけではない。だが、王国の手はいつも、どこかで止まった。

だからこそ、今日の出立を人々は「東征」と呼んだ。

けれどアルベリクだけは、その言葉をまだ口にできずにいた。


「陛下」


背後から声がした。


振り返ると、若い士官が一礼していた。名はグレン。

まだ若さは残るが、目だけはよく動く。


「先発隊、準備整いました」

「荷車の間隔が狭いな」


アルベリクが言うと、グレンはすぐに視線を動かした。


「三列目ですね。確かに補給馬車と治療馬車が近すぎます。直ちに戻します」


「治療馬車を先に通せ」

「補給より先に、ですか」


「補給が詰まっても兵は待てるだろう。しかし治療は、一刻を争う」


グレンは一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。


「了解しました」


命令が飛び、兵の列が少しずつ形を変える。動きは遅い。だが、動かないよりいい。

アルベリクはその様子を見ながら、腰に下げた剣の柄へ触れた。


剣は必要だ。

だが、まずは剣を抜けば済む局面まで、軍を運ばなければならない。

兵を並べ、荷を通し、傷ついた者を戻し、命令が命令を塞がぬようにする。

戦とは、刃が触れ合う前から崩れ得るものなのだと、彼はこの数年で少しずつ学び始めていた。


東領奪回を決めた会議の場で、重臣の一人は言った。


「反逆者どもを捕らえて首を刎ねればそれで済みます」


別の者は言った。


「評議会の台帳など焼き払えばよろしい。王国の地図が正式です」


アルベリクは、その時だけ黙った。

確かに王国の地図には、東領とはっきり書いてある。

川があり、街道があり、古い村名があり、薬草地が緑で塗られていた。

だが、評議会の台帳には別のものがあった。

保全区。再配置地。管理薬草棚。臨時居住者。退去済み。通行許可番号。採草権保留。借用証未清算。

王国の地図だけを信じれば、評議会は反逆者に見える。

評議会の台帳だけを信じれば、そこに昔から暮らしていた者たちは、勝手に入り込んだ者に見える。

どちらの紙にも、家の匂いはなかった。


それでも、今日、軍は王都から出陣する。

でなければ、東は戻らない。戻らなければ、王国は王国でなくなる。

そう言い聞かせるには、十分な大義があった。

だが、大義だけでは道は開かない。


「陛下」


別の声がした。


今度は、灯油の匂いをまとった男だった。兵ではあるが、鎧よりも道具の方が多い。

腰には小さな灯皿、紐、金槌、杭、そして折り畳んだ地図。

名はロイド。外路を知る者として徴用され、今は先導補助に付いている。


「東街道の三里先、古い橋が使えません」

「壊れているのか」

「壊れてはいません。使えないんです」


ロイドは地図を開いた。

そこには王国の街道が一本、まっすぐ東へ伸びている。橋は川を越える場所に小さく記されていた。


「橋そのものは残っています。ただ、橋の向こうに評議会の検問所があります。通行証がなければ荷を止められる。証があっても、薬草袋は検査。治療具は保全物資扱い。馬は徴用対象になる可能性がある」

「王国軍にもか」

「評議会の台帳では、あの辺りは王国街道ではなく、東第一保全路です」


近くにいた年嵩の将が吐き捨てた。


「評議会の青二才めが。紙の上で名を変えれば、道まで変わると思っているのか」


その男の名は、ヴァルター・オルグ。

北境の冬戦で敵陣を割り、三度の攻城戦で先陣を務めた古参の将だった。彼は、通れる道を探すより、通すことを好む。


ロイドは頭を下げたまま、少しだけ言葉を選んだ。


「現地では、変わっています」


ヴァルターが眉を吊り上げる。


しかしアルベリクは制した。


「続けろ」

「橋を通るなら衝突は避けられません。ですが、戦になれば橋の周りは混戦状態になるでしょう。そうなれば、こちらの荷も、逃げてくる者も戻ることができなくなります」


ヴァルターが笑った。


「これから攻めるのに、逃げる者の心配をしてどうする」


ロイドは返事をしなかった。

 

アルベリクは地図を見た。

東へ進む線。西へ戻る線。

紙の上では同じ道だった。


「正面を避けたところで、評議会が我々を見逃すとも限らん」


ヴァルターは言う。


「むしろ、王国軍が王国街道を捨てたと見られる。こちらが最初から迂回すれば、兵の士気も下がるでしょう」

「だが、正面で詰まれば」

「押し通します」


王国が誇る歴戦の将は、短くそう答えた。


「道は、通る者が通してこそ道です。王国の街道を評議会の通行証で止められては、東は永久に戻りません」


それは乱暴な言葉だったが、正論だった。


王国軍が出た。

王が冠を戴いて立っている。

それなのに、王国の古い街道を、評議会の検問所に避けて通る。


その姿を見れば、東の民は何を思うか。


アルベリクは剣の柄に触れた。

それから、治療馬車の方を見た。

荷を縛り直している兵を見る。

門の影でこちらを見ている子どもを見る。


「まずは橋を取る」


アルベリクは言った。


ロイドが顔を上げた。


「ただし、潰すな」


満足そうに頷いていたヴァルターの眉が動いた。


「橋を取るなら、迷わず取るべきです。すべてを見ながら進めば、兵は満足に動けなくなる」

「それでもだ」


アルベリクは地図から目を離さなかった。


「それができなければ、我々は東を取り戻す前に、守るべき民を踏むことになる」


ヴァルターはしばらく黙っていた。

そして、深く頭を下げた。


「承知しました。橋は私が開けましょう」

「開けるだけでは足りない」

「ならば、通します」


東門が開いた。

重い鉄の軋む音が朝の王都に響く。


王国軍は、東へと出陣した。     


     *


初日の進軍は、思ったように進まなかった。

王都を離れて半日も経たないうちに、道の幅が変わった。

古い王国街道は残っている。だが、左右に新しい杭が立っていた。杭には焼き印が押されている。


東領保全評議会。

これより評議会管轄下の保全路につき無許可通行を禁ず。


兵たちは笑った。


「王国軍に無許可も何もあるか」


だが、その笑いはすぐに止んだ。


杭の向こうに、浅い溝が掘られていた。

馬の脚を折るほどではない。だが荷馬車の車輪は取られる。

溝の手前には、細い杭が斜めに差し込まれ、抜くには人手がいる。

横に迂回すれば、薬草地とされる湿地に足を取られる。

戦場ではない。だが、進めない。


「嫌な道の塞ぎ方をする」


グレンが呟いた。


先頭の兵が杭を抜き始める。二本抜けば三本目が車輪に当たり、溝を埋めれば湿地の水が流れ込む。

兵は苛立ち、馬は鼻を鳴らす。後列では荷馬車が詰まり、治療馬車も止まった。


その時、ロイドの耳に聞こえてきたのは、微かな子供の泣き声だった。

行軍を停止させ周囲を見渡すと、道の脇、崩れかけた石垣の陰に、現地民と思わしき人々がいた。

老婆と、若い女と、子ども。

彼女らは人間族ではなかった。

濡れた外套の隙間から、獣の耳が見える。

老婆の手の甲には薄い毛があり、子どもは怯えているのか、背後に回した尾をぎゅっと握った。


獣人。


アルベリクは、その名をもちろん知っていた。

東の薬草地に暮らす者たち。湿地の道を知る者たち。王都の施療院へ届く根や葉の多くを採る者たち。

報告書にも、税目にも、古い地図の余白にも、その名はあった。


だが、こうして目の前に立つ獣人を見るのは、初めてだった。

そのことに、アルベリクは一瞬、言葉を失った。

知らなかったのではない。知っていると思っていた。

その違いが、喉の奥に重く残った。


「保護しろ」


アルベリクが言う前に、グレンが兵を向かわせていた。

だが、兵が近づくと、老婆は怯えて後ずさった。


「取らないで」


その声は細かった。


「証なら、もうない。燃えた。通して。西へ行くだけだから」


兵は困って振り返った。


アルベリクは馬を降りた。

王冠を載せたまま近づくと、老婆はさらに身体を縮めた。

王を恐れているのではない。王と名のつくもの全てに、もう疲れているようだった。


「どこから来た」


アルベリクは尋ねた。

老婆はすぐには答えなかった。

若い女が代わりに口を開く。


「東第二保全区の外れです」

「村の名は」

「……昔の名で言っていいんですか」


グレンが表情を変えた。


アルベリクは頷いた。


「構わぬ、言え」

「ミナリです」


その名は、王国の古い地図に残っていた。


ミナリ村。

川音が二つ重なる場所にあり、春には薄い黄花が湿地の縁に咲くと書かれている。


だが、評議会の台帳では別の名だった。

東第二保全区、臨時居住区域外縁。


「そのミナリという村は、まだあるのか」


アルベリクが問うと、若い女は笑った。

笑ったのに、目は動かなかった。


「台帳の上では、もうありません」


老婆が子どもの頭を抱いた。


「家じゃないと言われた。棚も、家も、道具も、全部、勝手に置いたものだと」

「誰に」

「評議会の人に」

「兵か」

「兵もいた。でも、紙を持っていた人が言った」


紙を持っていた人。

その言い方が、アルベリクの耳に残った。

兵よりも紙が先に立つ場所。剣よりも欄が人を退かせる場所。

王国軍は、その場所へ向かっている。


「西へ送れ」


アルベリクはグレンに言った。


「食料も渡せ。名は記録する。ただし、通行証の有無は問うな」


記録官が筆を取る。


老婆が怯えたように顔を上げた。


「記録するんですか」

「あくまで所在を確認するためにだ」


アルベリクは言った。


「縛るためではない」


老婆は、信じた顔をしなかった。

それでいい、とアルベリクは思った。


信じろと言うには、王国は遅すぎたからだ。


     *


二日目の夕刻、王国軍は東第一保全路の橋で敗れた。


大敗ではない。

軍が崩れたわけでもない。

だが、橋は取れなかった。


橋の前には、評議会の兵が並んでいた。

数は多くない。

鎧も揃っていない。

盾の高さも、槍の長さもばらばらだった。


王国兵たちは、それを見て少しだけ息を吐いた。


勝てる。


誰も口にはしなかったが、そう思った者は多かった。


ヴァルターも同じだった。


「盾を前へ。弓は橋上の兵を狙え。槍は欄干を越えて突くな。押して、割れ」


老将の命令は短かった。

迷いがなかった。


王国兵が進む。

盾が揃い、槍の穂先が夕暮れの光を受けた。

橋の入口で、最初の衝突が起きた。


金属が鳴った。

木盾が割れた。

誰かが叫び、誰かが川へ落ちた。


ヴァルターは先頭にいた。

大剣の腹で評議会兵の槍を叩き落とし、盾ごと相手を橋の脇へ押しやる。

その踏み込みは重く、確かだった。


評議会兵は弱い。

少なくとも、一対一なら王国兵に劣る。


だが、退かない。

いや、退き方を知っていた。


押されると、半歩ずつ下がる。

下がった先には、濡れた藁が敷かれている。

王国兵の靴が滑る。

踏み込んだ盾兵の足が流れ、後ろの槍兵の肩へぶつかる。


橋の中央では、欄干の一部が外されていた。

気づいた時には、一人が川へ落ちていた。


「足元を見ろ!」


グレンが叫んだ。


その声に反応した兵の頭上へ、煙が流れ込んだ。


橋の向こう側で、評議会兵が火を焚いていた。

大きな炎ではない。

湿った薬草束と藁を燻した煙だった。

目に染みる。

喉を焼く。

視界が白く濁る。


「弓!」


王国の弓兵が射る。

評議会兵が倒れる。

それでも煙は止まらない。


橋を守っているのは、兵だけではなかった。


橋板には、あらかじめ切れ目が入っていた。

兵だけなら辛うじて渡れるが、荷車が乗れば沈む。


しかし兵が渡った後に、荷も治療具も続けない。


王国兵が一枚の橋板を踏み抜いた。

膝まで落ちる。

助けようとした兵が盾を下げる。

その隙間を、評議会兵の槍が突き、血飛沫が飛んだ。


そこでようやく、ここはただの橋ではないと誰もが理解した。


ヴァルターは歯を剥いた。


「このような小細工で、王国軍を止められると思うな!」


老将が踏み込む。


一人。二人。三人。


評議会兵が弾き飛ばされる。

橋の出口が開く。


王国兵の歓声が上がりかけた。

その瞬間、橋の向こうの小屋から、鐘が鳴った。

甲高い音。


合図だった。


橋の左右、草の陰から評議会兵が出てきた。

多くはない。

だが、王国軍の側面を狙うには十分だった。


「伏兵か!」


グレンが剣を抜く。


側面から矢が来る。

王国兵が盾を向ける。

すると正面が薄くなる。

正面を厚くすれば、側面が崩れる。


強い敵ではない。

だが、強かな敵だった。


ヴァルターは橋中央で気炎を上げていた。

大剣で道は開く。


だが、そこから先が続かない。


後続の兵が煙で止まり、橋板の切れ目で止まり、側面の矢で止まる。

補給馬車は橋の手前で動けない。

治療役は負傷兵を下げようとして、逆に道を塞がれた。


「進め!」


ヴァルターが叫ぶ。

しかし、進めない者はどんなに叫んでも進めなかった。


グレンは見た。

ヴァルターは確かに橋を開けている。

敵兵を押し返し、道を作っている。

だが、その道は細すぎた。

老将一人と、その周囲の数人だけが通れる道だった。

王国軍全体を運ぶ道ではない。


「陛下!」


グレンが振り返る。


アルベリクは、橋を見ていた。


老将の剣。

煙。

崩れた橋板。

滑る足元。

側面から来る矢。

後ろで詰まる荷馬車。

倒れた兵を引きずる治療役。


敗勢は濃いが、敗北ではない。

まだ押せる。

ヴァルターだけなら、橋の向こうまで届くだろう。


だが、届いたところで、なのだ。


兵だけが渡り、荷は来ない。

治療具は止まる。

退路も失われる。

夜になれば、評議会は橋を燃やすか、奥の道を閉じるだろう。


アルベリクは剣の柄を握った。


王国軍は、強い。

だが、強いだけでは東へ届かない。


「退け」


アルベリクは言った。


グレンが息を呑む。


「陛下」

「退け。橋は捨てる」

「しかし、ヴァルター殿が」

「呼び戻せ」


グレンは一瞬だけ迷った。

だが、すぐに命令を飛ばした。


「撤退! 盾を残せ! 負傷者を先に下げろ! 弓兵、側面を押さえろ!」


王国兵が下がる。

評議会兵は追ってこなかった。

橋の向こうで、煙の奥からこちらを見ているだけだった。


それが、かえって敗北をはっきりさせた。


ヴァルターは最後に戻ってきた。

鎧には泥と煤がつき、肩から血が流れている。

深い傷ではない。

だが、老将の顔には、怒りよりも納得のいかなさがあった。


「陛下」


彼は低く言った。


「もう一度なら、抜けます」

「抜けるだろうな」


アルベリクは答えた。


「だが、この橋を軍は渡れない」


ヴァルターは黙った。


橋の向こうでは、評議会の兵が橋板をさらに外し始めていた。

鐘はもう鳴っていない。

煙だけが、低く川面へ流れていった。


東第一保全路の橋は、その日、王国軍のものにはならなかった。

アルベリクは夕暮れの陣で、その報告を黙って聞いていた。


グレンは地図を指した。


「敵兵を追えば、荷が止まります。橋を奪おうとすれば、橋の周りに人が集まります。評議会はそこへ火を入れればいい。こちらの命令が、すぐに別の責任へぶつかるように道を作っている」


アルベリクは、若い士官の言葉を聞きながら、王国地図を見下ろしていた。


地図は嘘をついていない。だが、足りない。

これまで東に手が届かなかった理由を、アルベリク率いる王国軍は身を以て知ることとなった。


その時、陣の外で騒ぎが起きた。

兵が誰何する声。馬が鼻を鳴らす音。

グレンが立ち上がった。

アルベリクも剣に手をかける。

だが、次に入ってきた兵の顔は、敵襲を告げるものではなかった。


「陛下。東の見張りが、妙なものを見つけました」

「妙なもの?」

「道標です。いや、道標のようなものです」


     *


陣の東側、細い獣道の入口に、それはあった。

枝を三本、低く組んである。真ん中に灰色の布切れ。布には、小さな薬草の葉が結ばれていた。

ロイドが膝をつき、灯を近づける。


「これは、獣人たちが使う印ですね」

「読めるのか」

「全部は。ただ、これはたぶん、自分たちの存在を示す印です。こちらから見えるように置いてある」


ヴァルターが疑った。


「初歩的な罠だ」

「罠なら、もっと分かりやすく誘います。これは、知っている者だけが気づく置き方です」


グレンが周囲を見た。


「誰かが、こちらを見ていますね」


森は静かだった。

だが、静かすぎる。


アルベリクは一歩前へ出た。


「姿を見せろ」


返事はない。


「王国軍は、東へ進む。だが、帰る者の道を塞ぐつもりはない」


木々の向こうで、何かが動いた。

弓が向けられている気配がある。

王国の弓ではない。もっと低く、もっと近い。


グレンが兵を止める。


アルベリクは剣から手を離した。


「ミナリから逃げてきた者に会った」


森の奥で、風が動いた。


「その名を、まだ言えたのか」

「家の名だと言っていた」


その時、木の陰から声がした。


「王国の地図には、まだ載っているか」


低い声だった。

若いのか老いているのか分かりにくい。怒りで年齢が削れているような声だった。


アルベリクは答えた。


「載っている。ミナリ村、と」


木々の向こうで、短く息を吐く音がした。


「村と呼んだのは王国だ」


やがて、別の影が木の間に現れた。獣人だった。

肩に古い外套をかけ、腰に短い刃を下げている。顔の半分は布で隠しているが、目だけは見えた。

鋭い。だが、ただ敵を見る目ではなかった。こちらが何を見て、何を見ていないかを測っている目だった。


「俺たちは、水の音が二つ重なる場所を、水鳴りと呼んでいた」


獣人は言った。


「夜に子どもが迷っても、耳で帰れる場所だ」

「耳で」

「獣人なら夜でも迷わないと、王都では書いてあるのか」


アルベリクは答えられなかった。

書いてあった。

東の獣人は夜目が利き、湿地に強く、山裾の薬草地に通じる。報告書にはそうあった。

便利な言葉だった。短く、分かりやすく、王都の会議で使いやすい言葉だった。


獣人は低く続けた。


「見える者もいる。見えない者もいる。子どもは転ぶ。年寄りは聞き違える。怪我人は匂いを追えない。だから印を置く。道を覚える。戻らない者を探す」


アルベリクは、枝に結ばれた灰色の布を見た。

獣人の印。

そう呼べば済むものではなかった。


「橋で負けたな」


獣人が言った。


ヴァルターの目が鋭くなる。


「見ていたのか」

「見なくても分かる」

「何だと」

「あの橋は、勝っても通れない」


ヴァルターが一歩出ようとした。

グレンが制する。


獣人は、老将を見ていなかった。

ただじっとアルベリクを見ていた。


「そうだろうな」


アルベリクが口を開く。


「俺はずっと、東のことも、お前たちのことも、知らなかった」


言ってから、王が口にするには遅すぎる言葉だと思った。

獣人は笑わなかった。


「知らない者ほど、名前をつけたがる」

「では、何と呼べばいい」

「呼ぶ前に、まず消すな」


その言葉は、刃よりも先に王の喉元に届いた。


アルベリクは頷いた。


「覚える」

「覚えるだけなら、王都でもできる」

「なら、何をすればいい」


獣人は森の奥へ目を向けた。

その先には、地図にない道があるのだろう。台帳にない家があるのだろう。まだ逃げている者が、まだ戻ろうとしている者がいるのだろう。


「道は、朝までに変わる」


獣人は言った。


「評議会は明日、東第一保全路に火を入れるだろう。お前たちが正面から進めば、荷は燃える。逃げる者も燃える」

「なぜ、それを我々に」

「お前たちが燃えれば、評議会はまた道を変えるだろう。そうなると、こちらの者も戻れなくなる」

「こちらの者?」


獣人は答えなかった。

代わりに、ロイドの手元の印を顎で示した。


「途中に灰色の布が三つある。低い枝、折れた杭、古い荷紐。そこまで来たら止まれ」

「止まれ?」

「そこから先は、お前たちの道ではない」

「道を教える気はないということか」

「道は教えない。だから、境だけを教える」

「そこで、誰かが出てくるのか」

「出るかもしれない」

「出てこなければ」

「その時は大人しく引き上げるんだな」


グレンが小さく息を吐いた。

アルベリクは獣人を見た。


「名を聞かせてほしい」

「名を聞いて、台帳にでも書くのか」

「探すために書く」

「探されるのはもう飽きた」


獣人は背を向けた。


「灰家だ」

「家が灰になってから、そう呼ばれている」


木々の奥で、複数の影が動いた。

人間もいる。獣人もいる。若い者。小柄な者。怪我をした者を背負う者。彼らは兵ではなかった。だが、ただの民でもなかった。

夜を知る者たち。

焼けた家の場所を知っている者たち。

王国の地図には残っていて、評議会の台帳では消されたものを、身体で覚えている者たち。


ロイドが小さく言った。


「灰家衆……」

「知っているのか」

「噂だけです。評議会の検問を夜に抜ける者たちがいると。焼け跡に戻って、まだ動ける者を連れ出すと。道を塞がれた者に、別の道を教えると」


グレンが森の奥を見た。


「ゲリラのようなものか」


ロイドは首を振った。


「たぶん、最初は違ったんでしょう」


アルベリクは、その言葉を聞いていた。


最初は違った。

その言葉は、どこか重かった。


最初から反逆者だった者。

最初から義勇兵だった者。

最初から敵だった者。


そんなものは、もしかすると存在しないのかもしれない。


帰る道を探していた者が、その道を守るために刃を持つ。

家を失った者が、家の名を残すために夜を歩く。

記録から消された者が、記録されない方法で生き延びる。


王国軍は東へ進む。

灰家衆は夜を進む。


その二つが、いま初めて同じ地図の上に置かれた。


「グレン」

「はい」

「荷を分ける。治療具と食料を優先しろ。重い装飾具は置いていく」


ヴァルターが驚いた。


「陛下、王旗の予備具までですか」

「旗は一本あればいい」

「ですが、王威が」

「王威で道は開けない、それはあの橋で痛感しただろう」


グレンが短く頷く。


「すぐに」

「ロイド」

「はい」

「灯を用意しろ。大きなものではなく、低く、風で消えにくいものを」

「進軍用ですか」

「戻る者が使えるように、だ」


 ロイドの目が少しだけ変わった。


「承知しました」


命令が広がっていく。

兵たちは不満を漏らした。荷を分け、捨て、隊列を組み替える。

正規の進軍ではない。だが、少しずつ道が開いていく。

アルベリクは最後に、森の奥を見た。

灰家の者たちの姿はもうない。

ただ、枝を組んだ印だけが残っていた。


王国の地図には載らない印。評議会の台帳にも載らない印。

だが、その夜、王国軍を進ませたのは、その印だった。


アルベリクは東の方角を見た。


奪回する。

出立の朝、彼はそう思っていた。

だが今は、その言葉だけでは足りない。


何を奪回するのか。誰へ返すのか。そして返した後、何がこぼれるのか。


その答えを、まだ彼は持っていない。

けれど、持っていないまま進むことの危うさだけは、ようやく見え始めていた。


夜が深くなる。

東征の第一夜、王国軍は初めて、通るための道ではない獣道を進軍路に選んだ。


そしてその道の先に、まだ名を知らぬ灰家の者たちがいた。




お読みいただきありがとうございます。


王国軍は東へと出陣しましたが、王の命令と軍の強さだけでは、東には届くことができませんでした。

次回は少し時間を遡り、「灰家衆」が生まれるきっかけとなった出来事を描きます。


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