第7話 裁定の夜
同じ広間だった。
百本の蜜蝋蝋燭が灯り、大理石の床に琥珀色の光を落とす、あの夜会の広間。秋薔薇の代わりに冬の白百合が飾られているほかは、何も変わっていない。変わったのは、私のほうだ。
胸元に父の勲章がある。布袋には入れず、ドレスの上に出している。金と銀の円形が、蝋燭の光を小さく弾いていた。
「リーネ様、よくお似合いです」
隣に立つマルタが、小さく微笑んだ。今夜は侍女としてではなく、ヴェルデフェルト家の随行者として一緒に来ている。
王家主催の冬の夜会。紋章院の裁定発表がこの場で行われると知らされたのは、三日前のことだった。アレクシス殿下からの短い手紙に、一文だけ書かれていた。「あなたの報告書が、答えを出します」
広間の上座にアレクシス殿下の姿がある。裁定の立会人として臨席している。目が合ったとき、殿下はほんの小さく頷いた。それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。あの記録室で一緒に古文書を読んだ夜の、紙をめくる音の静けさを思い出す。
広間の反対側に、ディートリヒがいた。ロゼッタの姿もある。ディートリヒの隣にはエルヴィラ夫人も立っていて、侯爵家の一族が揃っている。ディートリヒの表情は硬い。紋章院の調査が入っていることは知っているはずだが、まさかこの場で裁定が出るとは思っていないのだろう。その横でロゼッタが平然とグラスを傾けている姿を見ても、もう胸は痛まなかった。
夜会の半ばで、紋章院長官ヘルマン・ブラントが壇上に上がった。
◇◇◇
「紋章院より、裁定の結果を申し上げます」
白髪の長官の声が、広間の喧騒を一瞬で止めた。グラスを傾けていた貴族たちが手を止め、楽団の演奏が途切れる。
「オルヴァーン侯爵家に対する紋章使用権の調査を実施した結果、三代前の勲功証書は、王家の原本台帳に存在しない偽造品であると認定いたします」
広間が凍った。
「よって、オルヴァーン侯爵家の紋章使用権は、本日をもって停止といたします」
長官の声は事務的だった。感情を排した、記録を読み上げるだけの声。けれどその数行の言葉が、百年の名門を根底から揺るがしている。
◇◇◇
ディートリヒの視界が白くなった。
偽造。紋章使用権の停止。何を言っている。何を言っているのか分からない。
「そんなはずはない」
声が出た。出たのか出なかったのか自分でもわからないまま、もう一度繰り返した。
「そんなはずはない。うちの家は百年の名門だ。紋章は正式に授与されたものだ」
長官が壇上から静かに見下ろした。
「調査の結果は、筆跡鑑定、紙質分析、王家原本台帳との照合に基づいております。反証がおありでしたら、正式な手続きでご提出ください」
反証。反証などあるはずがない。ディートリヒには紋章台帳の中身を読む知識がなかった。筆跡の違いも紙質の差も、自分で確認する能力がない。あの書類を読めたのはリーネだけだった。自分が「暗い趣味」と笑った、あの知識を持つ人間だけが。
頭の中で、一つの名前が浮かんだ。
「リーネだ!」
広間に声が響いた。ディートリヒは自分でも止められないまま叫んでいた。
「あの女が記録を捏造したんだ! 紋章学者の娘だから、偽造など簡単だろう! あの女が紋章院に嘘を吹き込んだんだ!」
自分が何を言っているか、ディートリヒはわかっていなかった。つい先日まで「暗い趣味」と嗤っていた能力を、今度は「偽造など簡単だろう」と脅威として叫んでいる。その矛盾に、本人だけが気づいていない。周囲の貴族たちが、引いた目でディートリヒを見ている。名門の御曹司が、夜会の広間で取り乱して叫ぶ姿を、誰もが初めて見ていた。
広間の隅で、一人の老人が前に出た。
◇◇◇
執事ゲオルクは、長年仕えてきた主人の叫びを聞いて、静かに一歩を踏み出した。
「申し上げます」
ゲオルクの声は低く、淡々としていた。
「リーネ様は、紋章台帳を正規の手続きで返却なさいました。返却日時、書類の一覧、双方の署名を含む受領書の記録が、すべて残っております。改竄の機会はございませんでした」
ディートリヒが振り返った。
「ゲオルク、お前」
「返却の手続きには、私が立ち会っております。記録は紋章院にも提出済みです」
ゲオルクの目は、もう主人を見ていなかった。事実の側に立つ人間の目だった。
◇◇◇
夜会の広間を、囁きが波のように広がった。
「あの方、リーネ嬢のお父様を嗤っていたわ。前の夜会で。『大した功績はなかった』と」
「英雄の父を偽物と笑った家の紋章が、本当の偽造だったなんて」
「愛人を連れて婚約者を端に追いやっていたのよ。あの晩も」
「書類のお仕事も全部リーネ嬢に押し付けていたそうよ。それで追い出して、紋章院に届出も出せなかったんですって」
貴婦人たちの扇の裏で、記憶が掘り返されていく。秋の夜会で、ディートリヒがリーネの父を嗤ったこと。ロゼッタを腕に連れ、リーネを壁際に追いやった夜のこと。あの夜の光景を覚えている人間は、この広間に何十人もいた。
あの夜、誰も声をかけなかった。今夜も、誰もディートリヒを庇わない。社交界とはそういう場所だった。
嗤った側が、嗤われる側に変わろうとしている。
◇◇◇
ロゼッタが動いた。
ディートリヒの隣から一歩離れて、目に涙を浮かべた。
「私は何も知りませんでした」
声が震えている。いいえ、震えているように作っている、と言うべきか。涙を武器にする技術を、ロゼッタは完璧に身につけている。
「ディートリヒ様に言われるまま、お手伝いをしていただけで。紋章のことなど、何も」
ディートリヒが手を伸ばした。
「ロゼ」
ロゼッタは振り向かなかった。涙を拭う仕草で顔を背け、人混みの中に紛れていく。一緒に勲章を「偽物でしょう?」と笑った相手が、真っ先に逃げた。あの夜、父の名誉を踏みにじるのを止めなかった女が、自分だけ無傷で去ろうとしている。
「ロゼ……!」
伸ばした手が、空を掴んだ。ディートリヒの目に、初めて本当の孤独が映った。選んだ女に捨てられる側の顔を、リーネは遠くから静かに見ていた。
続いてエルヴィラ夫人が、冷たく口を開いた。
「私はこの家に嫁いだだけです。実家の紋章まで汚されるわけにはまいりません」
血統を誇った息子が、血縁の母にすら切り捨てられた。ディートリヒの手が力なく下がる。広間の蝋燭が顔を照らしているのに、その目だけが暗く沈んでいた。
愛人に逃げられ、母に見放され、執事に否定された。広間の中で、もうこの男の隣に立っている人間は一人もいなかった。百本の蝋燭に照らされた広間の真ん中で、ディートリヒだけが暗い影を落としている。
◇◇◇
アレクシスが、上座から一歩前に出た。
広間が静まった。皇太子の声を、全員が待っている。
「ヴェルデフェルト子爵の功績について、一つ申し上げます」
静かな声だった。けれど広間の隅まで届く声。
「ヴェルデフェルト子爵は、三十年前の東方国境紛争において王家の密命を果たした騎士です。功績は公にできぬ事情がありましたが、本日をもって王家の記録に正式に記されます。この勲章は、本物の英雄の証です」
広間の視線が、私の胸元の勲章に集まった。金と銀が、蝋燭の光を反射して静かに輝いている。
アレクシス殿下がディートリヒに目を向けた。
「大した功績のない家が」
殿下の声が、静かに、しかし逃げ道なく広間に響いた。
「なぜ百年も、王家の紋章を使えたのですか」
ディートリヒの顔から最後の色が消えた。
自分があの夜会で言った言葉だ。「大した功績はなかった」と、リーネの父を嗤ったあの言葉が、そのまま自分の家に返ってきた。同じ広間で。同じ観衆の前で。
ヘルマン長官が、裁定の最後の一行を読み上げた。
「調査の結果、オルヴァーン侯爵家の紋章に、正しい血統の裏付けは確認されませんでした」
正しい血。かつてディートリヒが私に向けた言葉を思い出した。「正しい血筋の家に嫁ぐには、君の家は格が足りない」。あの傲慢な一言が、今夜、侯爵家自身の上に降りてきた。血統を誇った家の紋章に、正統性がなかった。
誰もディートリヒを見ていなかった。いいえ、見てはいた。けれどもう、庇う目で見ている者は一人もいなかった。
◇◇◇
私は勝ち誇らなかった。
胸の勲章に手を当てて、静かに一礼した。
父の名誉が守られた。それだけで十分だった。ディートリヒの末路を見て快哉を叫ぶ気持ちはなかった。ただ、父が生涯をかけて守った秘密が、ようやく正しい場所に置かれた。目の奥がじんと熱くなって、それをゆっくりと瞬きで押さえた。涙ではない。涙はもう、記録室の夜に流し終えている。
マルタが隣で、音もなく涙を拭いていた。父の代からこの家に仕えてきた侍女が、主の名誉が守られた夜に流す涙だった。
広間の蝋燭が一斉に揺れて、冬の白百合が甘く匂った。
殿下と目が合った。殿下は何も言わなかった。ただ、もう一度だけ小さく頷いた。その頷きの中に、裁定者としてではない何かが見えた気がしたけれど、今夜はそのことを考えないでおく。
英雄の娘を嗤った侯爵家は、その夜、紋章を失った。




