第8話 本物の金色
父の墓は、王都の東の丘にある。
冬の朝の空気は冷たくて、吐く息が白く光った。墓石は小さい。子爵家の当主にしては質素な石碑で、名前と生没年のほかには、「王国騎士」とだけ刻まれている。
それでよかったのだと、今はわかる。父は生涯、自分の功績を飾らなかった。密命を果たし、公にされることを求めず、小さな書庫で紋章の文献を開きながら静かに暮らした。勲章を磨くときだけ、少しだけ遠い目をして。
「父上」
声に出して呼ぶのは久しぶりだった。
「あなたの名誉は守られました。勲章は本物の英雄の証だと、王家に認められました」
風が丘を渡って、墓石の前の冬枯れた草を揺らした。返事はない。けれど、風の中に父の匂いがした気がした。インクと古い紙の匂い。子供の頃、書庫で父の背中に寄りかかって眠ったときの記憶。
「それから、もう一つ」
少し間を置いた。次の言葉を口にするのに、意外と時間がかかった。
「婚約は解消しました。あの家の紋章は、偽造でした。父上を嗤った家は、自分たちの嘘で、自分たちの足元を崩しました」
父がこのことを知ったらどう思うだろう。怒るだろうか。それとも、黙って窓の外を見るだろうか。きっと後者だ。父はそういう人だった。
墓石の上に、冬の朝日が淡く差している。石の表面が薄い金色に光って、一瞬だけ父の勲章と同じ色に見えた。
「私は大丈夫です。もう、大丈夫」
隣でマルタが、音もなく涙を拭いていた。手の甲で頬をぬぐう仕草は不器用で、それが三十年来の侍女らしくなくて、少しだけ笑ってしまった。
「お嬢様」
「なに」
「旦那様は、お嬢様のことを誇りに思っておいでだと思います」
マルタの声は震えていたけれど、目は真っ直ぐだった。
私は頷いた。頷きながら、泣かなかった。泣く代わりに、勲章を握る手に少しだけ力を入れた。
丘を下りながら、王都の街並みを眺めた。冬の空気が透き通っていて、屋根の向こうに王宮の尖塔が小さく見える。あの尖塔の中に記録室があって、あの記録室で古文書を読んだ夜がある。
社交界では、オルヴァーン家の紋章剥奪の話題が持ちきりだという。ディートリヒは屋敷から出られなくなり、ロゼッタはさっさと実家に帰ったと、マルタが街で聞いてきた。婚姻の話はすべて白紙になり、爵位の正統性についても紋章院の審議が続いているらしい。
それらの話を聞いても、胸がすくとか、ざまあみろとか、そういう気持ちにはならなかった。ただ、もう私の知る世界ではないのだという、静かな距離があるだけだった。
三年間の婚約で、私が得たものは何だっただろう。紋章院への届出書式を完璧に書ける技術と、どんな無礼にも微笑んで耐える癖と、そして自分の知識には価値がないという思い込み。三つ目だけは、もう手放した。記録室で「美しい」と言われた夜に。
◇◇◇
墓参りから戻ると、屋敷の前に見覚えのない馬が繋がれていた。
王家の紋章がないから公用ではない。仕立てのよい鞍と、手入れの行き届いた栗毛。誰だろうと思いながら玄関を開けると、マルタより先に駆けつけた下女が小声で告げた。
「アレクシス様がお見えです。応接間でお待ちです」
殿下が。公用の馬車ではなく、一人で馬を駆けて。皇太子としてではなく、一人の人間として来たということだろうか。
応接間に入ると、アレクシス殿下が窓際の椅子に座っていた。上着の襟元を少し緩めた装いで、手には何も持っていない。書類も、古文書も、閲覧申請書も。いつもの記録室とは違う、手ぶらの殿下を見るのは初めてだった。
「突然すみません」
殿下が立ち上がった。いつもの落ち着いた声だけれど、どこか微かに調子が違う。
「裁定は終わりました。紋章院の手続きも、あとは事務方に任せれば済むものばかりです」
「はい」
「今日は、その話をしに来たのではありません」
殿下は一度言葉を切って、窓の外に目を向けた。冬の庭に日差しが落ちている。枯れた薔薇の枝が、白い光の中で細い影を作っていた。
「あなたの紋章学の知識を、王家の紋章院で活かしてほしいという正式な依頼を出そうと考えています。紋章院には、あなたほどの分析能力を持つ学士官がいません。もちろん、あなたの意思を確認してからのことですが」
「ありがとうございます。光栄です」
「ただ」
殿下が窓から視線を戻して、私を見た。正面から、まっすぐに。
「その前に、聞いてほしいことがあります」
記録室で古文書を並べて読んだ夜の殿下とは、少しだけ様子が違った。あのときは学問の話をしているときの静かな輝きがあったけれど、今は、何かを決めた人間の張りつめた空気がある。
「記録室で、あなたと一緒に古文書を読んだ夜がありました」
「はい」
殿下の声が、ほんの少しだけゆっくりになった。言葉を選んでいるのではなく、選び終わった言葉を、正確に届けようとしているような間だった。
「あのとき、あなたが紋章の層別分析について話し始めると、少し早口になりかけて、それを自分で抑えるのが見えました。好きなことを話すとき、あなたの目が変わるのです。千年の記録を読み解くときの、あの集中した目。あれを初めて見たとき、この人の隣にいたいと思いました」
呼吸が浅くなった。胸の奥で何かが震えている。
「英雄の娘だからではありません。かわいそうだったからでもありません。古文書の話をしているときのあなたの目が、一番美しかった。それだけです」
三年間、ディートリヒの隣で「暗い趣味」と呼ばれてきた。紋章の話をすれば退屈だと顔を背けられ、書庫にこもれば変わった子だと笑われた。自分の中で一番好きなものが、一番否定される場所に三年間いた。
その一番好きなものを見て、「美しい」と言う人がいる。
窓から差し込む冬の日差しが、殿下の亜麻色の髪を薄い金色に染めていた。
「私の隣に来てくれませんか」
これは求婚だ。
皇太子殿下からの求婚。政治的な意味も、家格の問題も、社交界の目も、考えるべきことはたくさんあるはずだった。
でも、私の頭に浮かんだのは、そのどれでもなかった。
記録室の蝋燭の光。紙をめくる音の静けさ。「千年の記録を読み解ける目を持つ人を、暗いと呼ぶ者がいるなら、それはその者の目が暗いだけだ」。涙を流したとき、慰めずに窓の外を見て待っていてくれたこと。「正しい涙だ」と言ってくれたこと。
三年間、「暗い趣味」だと言われ続けた知識を、この人は「美しい」と呼んだ。
「はい」
声は小さかったけれど、震えてはいなかった。
救われたから「はい」と言ったのではない。英雄の娘だから選ばれたのでもない。紋章学の話をして、目が輝いて、その目を見てこの人は「美しい」と言った。私が一番私らしいときの私を、この人は好きだと言っている。
だから、「はい」だった。
◇◇◇
リーネが「はい」と言った瞬間、アレクシスは自分の肩から力が抜けていくのがわかった。
緊張していたのだと、今になってわかる。断られたらどうしようかと、実は昨夜から眠れなかった。紋章院の裁定を読み上げるときよりも、国政の答弁に立つときよりも、今日のこの一言のほうがずっと怖かった。
報告書を読み返したときの冷静さはどこにもなく、今の自分は、ただ一人の女性の返事を待っていた男だった。
リーネが少し笑った。目の端が赤くなっていて、泣くのを堪えているのか笑っているのか、境目がわからない顔だった。
「殿下。昨夜、眠れましたか」
「……なぜわかるのですか」
「目の下が少し暗いです。紋章学者は、細部を見る訓練をしていますので」
アレクシスは思わず笑った。声を出して笑ったのは、何ヶ月ぶりだろうか。
この人は裁定の場では国の重みを背負って立っていたのに、今は昨夜眠れなかったことを見抜かれて笑っている。その落差が、この人が本物の人間であることの証だった。
「殿下」
「アレクシスと呼んでいただけると」
「……では、アレクシス様」
名前を口にしたら、頬が熱くなった。殿下が少し目を細めて、「様はいらないと言いたいところですが、まあ、最初はそれで」と穏やかに笑った。
◇◇◇
窓辺に並んで立った。
冬の日差しが、部屋の中をゆっくりと移動している。私は胸元から勲章を外して、掌の上に乗せた。金と銀の円形が、冬の光を受けて静かに輝いている。
アレクシスが隣から勲章を覗き込んだ。二人の影が一つに重なって、床に長く伸びている。
「その勲章、いつか子にも見せよう」
「ええ」
私は微笑んだ。勲章を陽の光に透かして、金と銀の輝きを見つめた。裏面の刻印に、光が当たる。二重の円環に、翼を広げた鷲。王家の密命を果たした英雄の証。
「本物の英雄の話を、聞かせましょう」
陽の光に透かした勲章は、父が生きていた頃と同じ金色をしていた。
偽物など、最初からどこにもなかったのだ。




