第6話 戻れ
書類の一つや二つ、誰にでも処理できると思っていた。
リーネが婚約解消の手続きを進め、侯爵家に預けていた紋章台帳と関連書類をすべて返却したのは、半月ほど前のことだ。ディートリヒは報告を受けたとき、特に何も思わなかった。書類仕事はリーネの趣味みたいなものだったし、返却されたところで困ることはない。代わりの者に任せればいいだけだ。
ところが、紋章院から届いた通知を見て顔色が変わった。
爵位更新手続きの期限が、来月の十五日に迫っている。リーネがいつも処理していた届出だ。紋章の使用継続届、家紋の様式確認書、勲功証書の参照番号付き申請書。三通の書類を、正しい書式で、正しい提出先に、期限内に届けなければならない。
ディートリヒは書類を手に取った。
「……なんだ、これは」
書式の冒頭に並ぶ紋章の区分記号が、何を意味しているのか分からない。引用すべき台帳の巻数も、参照番号の記入方法も、提出先の部署名の正式な書き方も。何一つ。
三年間、リーネが当たり前のようにこなしていた仕事の中身を、ディートリヒは初めて見た。見たというより、初めて見えた。書類の一行目から、自分には読めない言語で書かれているようだった。
苛立ちが湧いた。リーネがいたときは、こんな書類の存在すら意識しなかった。紋章院からの通知が届けば、翌日にはリーネが処理を終えて封筒に入れていた。ディートリヒがしたのは署名だけだ。中身を読む必要もなかった。
必要もなかった、のではない。読む能力がなかっただけだと、今なら分かる。分かるが認めたくない。
「ロゼ」
ロゼッタを呼んだ。ロゼッタは最近、侯爵家の屋敷に入り浸っている。リーネがいなくなった隣の席に、当然のように座るようになっていた。
◇◇◇
「私がやりますわ、ディートリヒ様」
ロゼッタはそう言って、書類を受け取った。ディートリヒが困っている顔をしているのを見て、自分が役に立てる好機だと思った。リーネにできて自分にできないことなどないはずだ。あの地味な女が三年もこなしていた仕事なのだから。
書類を広げて、一枚目の冒頭を読んだ。
紋章区分記号:第Ⅲ類-B-7(王家直轄紋章体系準拠)
何のことかわからない。
「Ⅲ類」の意味も「B-7」の意味も知らない。参照すべき台帳の番号を書く欄があるけれど、そもそもどの台帳を参照すればいいのか見当がつかない。隣の欄には「提出先:紋章院第二審査課 叙勲記録管理室」と書いてあるが、紋章院のどこにそんな部署があるのか。
ロゼッタは唇を噛んだ。
こんな複雑な書類をリーネ一人で処理していたのか。いいえ、リーネが異常だったのだ。こんな書式を読める人間のほうがおかしい。
参照番号の欄に、それらしい数字を書き入れた。台帳の巻数は適当に選んだ。提出先は「紋章院」とだけ書けば届くだろうと判断して、部署名は省いた。封筒に入れて、使用人に持たせた。
胸を張ってディートリヒに報告した。「お任せくださいましたもの、きちんと提出しましたわ」。ディートリヒが安堵した顔で「さすがロゼだ」と微笑んだとき、リーネの代わりを務められたことが誇らしかった。
三日後、紋章院から「書式不備」の通知が届いた。参照番号が該当なし、提出先の記載不足、区分記号の誤記。三通すべてが差し戻されていた。
ロゼッタの顔から血の気が引いた。通知をディートリヒに見せずに隠そうとしたけれど、ゲオルクが先に目を通していた。
「ロゼッタ様。紋章院より差し戻しが届いております。三通すべてです」
ゲオルクの声は穏やかだったが、その穏やかさが刃のように響いた。ロゼッタは「こんな複雑な書類を押し付けるほうがおかしいですわ」と唇を尖らせたけれど、声は震えていた。
リーネが三年かけて身につけた知識を、自分は三日で代替できると思っていた。その見込みの甘さを、紋章院の差し戻し通知が突きつけている。
◇◇◇
ディートリヒがヴェルデフェルト子爵家の屋敷を訪ねてきたのは、秋も深まった午後のことだった。
マルタが応接間に通し、私に伝えに来た。「ディートリヒ様がお見えです」という声に、特別な感情は湧かなかった。もう婚約者ではない。正確に言えば、まだ正式な解消は済んでいないけれど、私の中ではとうに終わった関係だった。
応接間に入ると、ディートリヒが椅子にも座らずに立っていた。額に汗が浮いている。馬車ではなく馬で来たのだろう。上着の襟が乱れているのを直す余裕もないらしい。三年の婚約期間で、この人がこんなに取り乱した姿を見るのは初めてだった。
「リーネ、話がある」
「お久しぶりです、ディートリヒ様。お座りになりますか」
「座っている場合じゃない。戻れ」
一言だった。
「紋章院への届出が通らない。書式が分からない。お前にしかできない仕事がある。今すぐ戻ってくれ」
お前にしかできない仕事。
その言葉を聞いて、胸の奥に何かがよぎった。熱いものではなかった。冷たくもない。ああ、この人はまだこういう言い方をするのだ、という静かな確認のような感覚。「戻れ」と命じることで、私が従うと本気で信じている。三年間ずっとそうだったから。命じれば書類が整い、命じれば手続きが進み、命じれば私が笑顔で応じる。それが当然の日常だった。
でも、もうその日常は終わっている。終わらせたのは私で、終わらせた理由をこの人は知らない。
「お断りいたします」
声は平坦だった。自分でもそのことに少し驚く。
「私はもう、あなたの家の紋章を守る理由がありません。婚約解消の手続きも進めております。紋章関連の書類については、紋章院に直接ご相談されるのがよいかと思います」
ディートリヒの顔が歪んだ。眉間に深い皺が寄り、唇が薄く開いたまま言葉が出てこない。この表情を、私は初めて見た。激昂でも落胆でもなく、「想定していなかった事態に直面した人間の顔」。自分の命令が通らなかったことに対する、純粋な困惑。
「リーネ。俺は頼んでいるんだ」
「はい。そして私はお断りしています」
「お前が戻らなければ、書類が間に合わないんだ。分かっているのか」
「分かっています。ですから、紋章院にご相談ください。書式の記入方法は、受付で教えていただけるはずです」
ディートリヒは何か言いかけて、唇を引き結んだ。拳を握りしめたまま踵を返して応接間を出ていく。廊下を歩く足音が荒く、乱暴に閉められた玄関の扉の音が、屋敷の中まで響いた。
窓の外で、馬の蹄が石畳を蹴る音がして、遠ざかっていった。
マルタが廊下から顔を出して、「お嬢様」と声をかけた。
「大丈夫よ」
自分の声がほんの少しだけ震えていることに気づいたけれど、気づかないことにした。窓から差し込む秋の日差しが、さっきまでディートリヒが立っていた場所を照らしている。あの人が去った後の応接間は、静かで、広くて、少しだけ寒かった。
でもそれは、三年間ずっと感じていた寒さとは種類が違う。隣にいるのに温かくない寒さではなく、一人でいると決めたことの清潔な冷たさだった。
◇◇◇
屋敷に戻ったディートリヒを待っていたのは、紋章院からの封書だった。
ゲオルクが盆の上に載せて差し出した封書を、乱暴に開ける。中身を読んで、指先が冷たくなった。
『オルヴァーン侯爵家に対する紋章使用権の正式調査を開始する旨、通知いたします』
正式調査。
爵位更新の届出不備とは次元が違う。紋章使用権そのものに対する調査だ。なぜ。何が起きている。
「リーネだ」
ディートリヒは歯の隙間から息を漏らした。
「あの女が書類を改竄して持ち出したに違いない。紋章学者の娘だから、偽造など簡単だろう。紋章院に何か吹き込んだんだ」
背後でゲオルクが静かに口を開いた。
「ディートリヒ様。リーネ様は紋章台帳を正規の手続きで返却なさいました。返却日時、書類の一覧、双方の署名を含む受領書の記録が、すべて残っております」
ディートリヒは振り返った。
「何だと」
「改竄の機会はございません。返却の手続きは、私が立ち会っております」
ゲオルクの声は淡々としていた。事実を述べているだけの声。反論の余地のない、記録に基づいた声。
「黙れ」
ディートリヒは怒鳴った。
ゲオルクは黙った。けれど、目は黙らなかった。長年仕えてきた執事の目が、初めて主人を冷たく見ていることに、ディートリヒは気づいていない。気づく余裕など、この男にはなかった。
封書をもう一度読み返した。『正式調査の開始』。その一行が、指先を震わせていた。
ロゼッタが差し戻された書類。リーネの拒絶。紋章院からの通知。すべてが一日の中で重なって、ディートリヒの頭の中で混ざり合っている。
リーネがいた頃は、何もかもが滞りなく回っていた。書類は期限前に整い、紋章院との連絡は途切れず、ディートリヒは何も考えなくてよかった。あの地味な書庫通いの婚約者がいなくなっただけで、こんな複雑な仕事が必要だったのだ。
いや、違う。仕事はずっとそこにあった。リーネがすべてを見えないところで片づけていただけだ。
けれどディートリヒはその考えを、頭の奥に押し込んだ。自分の家に問題があるはずがない。百年の名門だ。紋章院の調査など、すぐに終わる。何かの手違いに決まっている。
この男はまだ、自分の家の紋章が偽物だとは夢にも思っていなかった。




