第5話 偽物は、こちらではなかった
あの夜から、二つのことが私の中で並んでいた。
一つは、父が王家の密命を果たした騎士だったという事実。もう一つは、オルヴァーン侯爵家の紋章使用権が、偽造された勲功証書に基づいている可能性。
どちらも重い。けれど重さの種類が違う。父の真実は、胸の底をじんわりと温めるような重さで、侯爵家の偽造は、掌の中でどう扱えばいいのかわからない鉛のような重さだった。
調査報告書を書かなければならない。記録室で発見した事実を、正確に、感情を交えずに、紋章学の手続きに従って文書にまとめる必要がある。
書庫の机に向かい、蝋燭を灯して、白紙の羊皮紙にペンを取った。
書くべきことは二つ。父の勲章の刻印が王家直轄の特殊紋様であること。そしてオルヴァーン侯爵家の三代前の勲功証書が、王家の原本台帳に存在せず、筆跡と紙質の分析から後世の差し替えが疑われること。
父の件は筆が進んだ。刻印の模写、原本台帳の該当箇所、非公開補遺の巻末付録との照合結果。事実を並べるだけで、父の勲章が本物であることが証明される。書きながら、奥歯の裏側にじわりと熱いものが広がった。
後者を書くとき、ペンを持つ手が少しだけ重くなった。
この報告書が紋章院に提出されれば、侯爵家の紋章使用権に対する正式な調査が始まる。ディートリヒの家が、百年守ってきた紋章を失うかもしれない。私にそれを引き起こす権利があるのだろうか。
ペンを置いて、窓の外を見た。明け方の空が白み始めている。
権利の問題ではない、と思い直した。私はただ、事実を見つけた。筆跡が違う。紙質が違う。原本に存在しない。それは私の感情や立場とは無関係に、台帳の上に存在している事実だ。
その事実を隠すことのほうが、紋章学者として不誠実ではないか。
父のことを思った。父は密命を果たして、その功績を生涯誰にも語らなかった。公にできないと知っていたから。事実を事実として受け止め、それでも自分の務めを全うした人だった。
私は父の娘だ。見つけた事実を、隠すわけにはいかない。
ペンを取り直して、書き続けた。
◇◇◇
報告書を持って記録室を訪ねたのは、三日後の午後だった。
受付で殿下への面会を申し入れると、文官が少し驚いた顔をした。閲覧申請ではなく、調査報告の提出だと伝えると、すぐに奥へ取り次いでくれた。
記録室の奥にある小部屋に通された。閲覧室よりも狭いけれど、天窓から柔らかい光が入る部屋で、壁一面に古い地図が掛けられている。アレクシス殿下はすでに椅子に座っていて、私が入ると立ち上がった。
「報告書が出来たのですね」
「はい。二件分です」
報告書を手渡すと、殿下はすぐに読み始めた。表情を変えずに一枚目を読み終え、二枚目に移り、三枚目の分析結果で指を止めた。
「筆跡の分析が丁寧だ。紙質の繊維密度まで記述しているのは、さすがですね」
それから、顔を上げた。
「ヴェルデフェルト嬢。お父上の勲章の件ですが」
殿下の声が、少しだけ柔らかくなった。
「記録室での発見の後、私のほうでも王家の非公開記録を確認しました。ヴェルデフェルト子爵は、三十年前の東方国境紛争において王家の密使を務めた記録があります。公にすれば敵国を刺激するため、功績は伏せられた。正式な記録は王家の金庫に保管されています」
殿下が私のためにさらに調べてくれていたのだと、遅れて理解した。閲覧の結果を報告してほしいと言った、あの日から。
「お父上は、誇るべき人です。密命を果たし、公に評価されることを求めず、静かに生涯を終えた。その勲章は本物の英雄の証です」
本物。
父の勲章は、偽物ではなかった。ロゼッタが笑った「どうせ偽物でしょう?」の答えが、ここにあった。
目の奥がじわりと熱くなったけれど、今度は泣かなかった。前の晩に泣いた分だけ、今の自分は少し強くなっている。いいえ、強くなったのではない。泣いてもいい場所を一度知ったから、泣かずに立っていられるようになった。そういうことなのかもしれない。
「ありがとうございます、殿下」
「私が調べたのは王家の記録であって、お父上の功績を作ったわけではありません。感謝すべきはお父上のほうです」
殿下はそう言ってから、報告書の二件目に目を戻した。オルヴァーン侯爵家の紋章偽造に関する分析だ。
「こちらの件ですが」
殿下の声から柔らかさが消え、公務の声に戻った。
「原本台帳に勲功証書が存在しないというのは、紋章院としては看過できません。正式な調査を紋章院に依頼することになります」
「はい」
「報告書の提出者はあなたになりますが、よろしいですか。調査が始まれば、オルヴァーン侯爵家はあなたを恨む可能性がある」
わかっています、と答えようとして、少し言葉を選んだ。
「私はこの台帳を三年間管理していました。返却前の最終確認で違和感に気づいた以上、それを報告しないほうが不誠実です」
殿下が、ほんのわずかに目を見開いた。驚いたというよりは、何かを確認したような表情だった。
「一つ、お伝えしておきたいことがあります」
殿下がテーブルの上に報告書を置いて、真っ直ぐにこちらを見た。
「先日、あなたが記録室で涙を流されたとき。あの涙は正しい涙だと、私は思いました」
唐突だった。脈絡がないように聞こえたけれど、殿下の目は真剣だった。
「お父上の名誉のために調査を始め、事実を見つけ、その事実が自分の婚約者の家を揺るがすものだとわかっても、隠さずに報告書を書いてきた。それは正しいことです」
殿下は言葉を選ぶようにして、少し間を置いた。
「正しいことをするのは、たいてい楽ではありません。特にそれが、自分に近い人間を追い詰める結果になるときは」
「はい」
「だからこそ、あなたの涙は正しかった。事実から目を背けなかった人間の涙は、流す価値がある」
私は何も言えなかった。言葉が見つからないのではなく、殿下の言葉が胸の中に染み込んでいくのを待っているような感覚だった。この人は慰めているのでも褒めているのでもなく、ただ事実を述べている。「正しい」という言葉を、感情ではなく判断として使っている。その硬質な誠実さが、どんな優しい慰めよりも深く届いた。
「あなたの調査は、紋章院が正式に引き継ぎます。ここから先は、あなた一人で背負う必要はありません」
その言葉の意味を噛み締めた。一人で背負う必要はない。三年間、一人で台帳を整え、一人で書庫にこもり、一人で耐えてきた。その「一人で」に、初めて終わりが見えた気がした。
殿下はそれ以上、何も言わなかった。報告書を丁寧に揃えて、封筒に入れた。その手つきを見ながら、ああ、この人は紙を大切に扱う人だったと、場違いなことを思った。
◇◇◇
翌日、私はオルヴァーン侯爵家に紋章台帳を正式に返却した。
三冊の台帳と関連書類一式を正規の手続きで引き渡し、受領書に双方の署名を入れる。執事のゲオルクが立会人として記録を取ってくれた。返却した日付、書類の一覧、双方の署名。すべてが正式な手続きの記録として残る。
「リーネ様、長い間お世話になりました」
ゲオルクの声には温かみがあった。この人は、私が三年間どれだけの書類仕事をこなしてきたかを知っている数少ない人間だ。紋章院への届出を何度も一緒に確認し、書式の不備を指摘し合った仲でもある。
「ゲオルク、こちらこそ。書類に不備がないこと、確認をお願いします」
「承知いたしました。記録はすべて保管しておきます」
ゲオルクがわざわざ「記録はすべて保管する」と口にした意味を、この時点ではまだ深くは考えなかった。後になって、この一言がどれほど重要だったかを知ることになる。
侯爵家の屋敷を出るとき、ディートリヒの姿はなかった。二階の窓にロゼッタらしい影が見えた気がしたけれど、振り返らなかった。会わずに済んだことに、安堵とも寂しさともつかない感情がよぎる。
いいえ。胸の底が冷えたわけではない。ただ、三年という時間の重さを門の外に置いてきたような、不思議な軽さがあっただけだ。この門をくぐるのは、これが最後かもしれない。最後だと思うのに、足取りは軽い。
馬車に乗って、勲章を取り出した。
陽の光に透かすと、表面の金と銀が清らかに輝く。裏面の刻印に指を当てた。二重の円環に、翼を広げた鷲。王家の密命を果たした英雄の証。
偽物は、こちらではなかった。
◇◇◇
その日の夕刻、アレクシスは執務室でリーネの報告書を読み返していた。
筆跡分析の精度、紙質の繊維密度の記述、原本台帳との照合手順。どれも正確で、感情的な偏りがない。婚約者の家を告発する内容だというのに、文面には私怨の影が一切なかった。事実と分析だけで構成された、紋章学者としての誠実な報告書だった。
「それを報告しないほうが不誠実です」
あの言葉を、アレクシスはまだ覚えていた。
涙を流しながら父の真実を知った夜と、それでも正確な報告書を書いてきた午後。この二つの姿が、同じ人物の中に矛盾なく同居している。自分の感情に正直でありながら、事実に対しても正直でいられる。それが、リーネ・ヴェルデフェルトという人間なのだろう。
報告書を閉じて、窓の外の空を見上げた。茜色の空に、一番星がひとつ。
紋章院への正式な調査依頼は、明日付で出す。リーネ・ヴェルデフェルトが見つけた事実が、どこまで波紋を広げるか。
アレクシスは、それを見届けたいと思っていた。それだけではない、という自覚は、もう少し先に訪れる。




