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英雄の娘を嗤った侯爵家が、紋章を剥奪されるまでの話  作者: 九葉(くずは)


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第4話 古文書の夜

婚約解消の手続きを進める中で、一つだけ面倒な作業があった。


ディートリヒ家に預けていた紋章台帳の返却だ。婚約者として侯爵家の紋章関連書類を管理してきた以上、解消にあたってはすべての台帳を正規の手続きで引き渡さなければならない。私が個人的に改変を加えていないことを証明するために、返却前の最終確認が要る。


その最終確認のために、侯爵家の紋章台帳を自室の書斎に広げた夜のことだった。


台帳は三冊ある。現当主の爵位証明書、直近三代の勲功記録、そして紋章の使用継続に関する証書類。どれも私が書式を整えて管理してきたものだ。署名と印影を一頁ずつ照合し、欠損がないことを確認していく。


二冊目の勲功記録に差しかかったとき、指が止まった。


三代前、つまりディートリヒの曾祖父にあたる人物の勲功証書のページだ。一見すると他のページと変わらない。同じ紋章院の書式で、同じ王家の印章が押されている。


けれど、紙の手触りが違った。


他のページは百年以上前の羊皮紙特有の乾いた質感をしているのに、このページだけ繊維の密度がわずかに異なる。そして筆跡。紋章院の書記官は時代ごとに特徴的な字体を使う。前後のページは同じ時代の字体で統一されているのに、三代前のこのページだけ、書き手が違う。


私は蝋燭を近づけて、もう一度よく見た。


紙質の違いだけなら保存状態の差で説明がつくかもしれない。でも筆跡の差は説明がつかない。同じ時代に書かれたはずの公文書が、前後のページと違う手で書かれているということは、つまり。


後から差し替えられている可能性がある。


指先がわずかに震えた。もしこれが差し替えなら、オルヴァーン侯爵家の三代前の勲功証書は偽造だということになる。そしてその勲功証書こそが、侯爵家が紋章使用権を維持している根拠だ。


台帳を閉じて、深く息を吐いた。


私はこの台帳を三年間管理してきた。その間、三代前のページをじっくり読んだことは一度もなかった。ディートリヒに言われた範囲の書類を、言われた書式で整えるだけの仕事だったからだ。ページの隅々まで精査する理由がなかった。


返却前の最終確認という手続きがなければ、この違和感に気づかないまま台帳を引き渡していただろう。


確信を得るには、王家の原本台帳と照合するしかない。原本に同じ勲功証書が存在するなら、私の勘違いだ。存在しないなら。


蝋燭の灯りの下で、私は二通目の閲覧申請書を書き始めた。



◇◇◇



記録室で再び殿下に会ったのは、それから五日後の夕暮れだった。


二度目の閲覧申請は、一度目よりもずっと早く許可が下りた。受付の文官が「アレクシス殿下より、ヴェルデフェルト嬢の申請は優先して処理するようにと」と伝えてくれたとき、少し面食らった。


記録室に入ると、長テーブルの上に私が指定した台帳がすでに並べてあった。王国紋章大系の第四巻と第七巻。そして奥の棚から出された騎士叙勲台帳の非公開補遺。前回の閲覧で調べきれなかった分だ。


窓の外はもう暮れかけていて、記録室の中は蝋燭の光だけが頼りだった。壁に並ぶ書架の背表紙が暗がりの中に溶けて、蝋燭の届く範囲だけが世界のように見える。


台帳を開いて照合を始めようとしたところで、記録室の扉が静かに開いた。


「進捗はいかがですか」


アレクシス殿下だった。上着の襟元を少し緩めた、執務後の装い。手には一冊の古文書を抱えている。


「お忙しい中、わざわざ」


「いえ。ここは私も使う場所ですから」


殿下は長テーブルの反対側に腰を下ろし、自分の古文書を開いた。記録室に来たのは私の様子を見るためだけではなく、殿下自身の調べ物もあるらしい。それが分かって、少し肩の力が抜けた。見張られているわけではない。同じ場所で、それぞれの紙と向き合っているだけだ。


蝋燭の灯りが二人の間のテーブルを照らす中で、しばらくは紙をめくる音だけが続いた。記録室は窓が小さく、夕暮れを過ぎると蝋燭の光だけが頼りになる。古い紙とインクの匂いが、蝋の甘い匂いと混ざって空気を満たしていた。


不思議な時間だった。


ディートリヒの隣にいるとき、沈黙はいつも居心地が悪かった。何か話さなければ、何か役に立たなければ、と焦る沈黙だった。でもこの記録室の沈黙は違う。同じ種類の紙と向き合っている人間同士の、呼吸が揃うような静けさだった。ときどき殿下がページをめくる音がして、それが妙に心地よい。


自分の作業に集中しているはずなのに、殿下が古文書の頁に指を滑らせる仕草が視界の端に入ると、つい目で追ってしまう。長い指が紙の縁を丁寧になぞる動きは、資料を大切に扱う人間の手つきだった。


父の勲章の刻印と原本台帳の照合を進めていくうちに、一つの図案に目が留まった。非公開補遺の巻末付録に記された、特殊叙勲の紋様一覧。そこに。


二重の円環に、翼を広げた鷲。


父の勲章と同じ図案があった。


「殿下」


声が上擦った。


「この図案です。父の勲章の刻印と同じものが、非公開補遺の巻末に」


殿下が古文書を閉じて、私の隣に来た。テーブル越しではなく、同じ側に立って、台帳を覗き込む。蝋燭を近づけて、巻末の図案と私が模写した刻印を見比べた。


「間違いないですね。これは王家直轄の特殊紋様だ」


殿下の声が低くなった。


「特殊紋様というのは?」


「王家が公にできない任務を果たした者にのみ授与される証です。通常の叙勲記録には載らない。この巻末付録自体が、ごく限られた人間しか閲覧できない資料です」


指先が冷たくなった。


「つまり、父は」


「お父上は、王家の密命に関わった騎士だった可能性があります」


私の隣で、殿下が静かに付録の注釈を読み上げた。声は落ち着いていたけれど、その内容は私の心を根底から揺さぶるものだった。


密命。公にできない任務。だから父の功績は公式記録に残っていない。だから「大した功績はなかった」ように見えていた。


父は語れなかったのだ。語らなかったのではなく。


あの寡黙な背中の意味が、ようやくわかった。書庫の椅子に座って窓の外を見ていた父の遠い目の理由が。勲章を磨きながら、何も語らなかった理由が。


殿下が何か言ったけれど、よく聞こえなかった。目の前の台帳の文字が滲んで見える。滲んでいるのは蝋燭のせいではなく、自分の目が濡れているからだと気づくのに、少し時間がかかった。


「すみません。少し」


顔を背けようとして、できなかった。テーブルの縁を握る手に力が入って、指の関節が白くなっている。泣いてはいけない。ここは王家の記録室で、目の前にいるのは皇太子殿下だ。


「泣いてよいと思います」


殿下の声は穏やかで、慰めの甘さがなかった。


「お父上が公に評価されなかった理由がわかったのですから。それは泣くに値することです」


その一言で、堪えていたものがこぼれた。声は出さなかった。ただ涙が頬を伝って、台帳の縁に一滴落ちた。慌てて袖で拭おうとした瞬間、殿下が自分のハンカチを差し出した。畳み方が几帳面な、白い布。


受け取って目元を押さえる間、殿下は窓の外に視線を向けていた。暗くなり始めた中庭の楡を眺めるようにして、私が泣き終わるのを待っていてくれた。


涙を拭いて、呼吸を整えてから、「すみません。もう大丈夫です」と言った。


自分の声が思ったよりも落ち着いていることに、自分で少し驚いた。泣いたことを恥じているのか、泣けたことに安堵しているのか、よくわからない。でも、この人の前で泣いたことを後悔はしていなかった。それだけは確かだった。


殿下が窓から視線を戻して、小さく頷いた。


「先ほどの照合の続きですが」


殿下はそう言って、当たり前のように話を学問の場に戻した。私の涙について、それ以上は何も触れなかった。慰めの言葉もなく、同情の視線もなく、ただ「続きを」と。その距離の取り方が、今の私にはちょうどよかった。


台帳に向き直ろうとして、ふとこぼれた。


「ずっと、暗い趣味だと言われていました。紋章学に夢中になる私を、周囲は変わった子だと」


なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。殿下に聞いてほしかったわけではなく、口から勝手にこぼれ落ちた言葉だった。


殿下は台帳から目を上げて、少しだけ首を傾げた。


「暗い? 千年の記録を読み解ける目を持つ人を、そう呼ぶ者がいるなら。それはその者の目が暗いだけでしょう」


さらりと言って、殿下は台帳に視線を戻した。


大したことではないとでも言うように。当然のことを当然に述べただけだというように。


私は黙って台帳のページをめくった。めくりながら、自分の耳の付け根が熱いことに気づいて、気づかないふりをした。


照合を続ける中で、殿下の手と私の手が同じページの端に伸びる瞬間があった。指先が触れそうになって、私が慌てて手を引いた。


「……いや、先にどうぞ」


殿下はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。


私はページをめくった。指先がまだ温かい。触れてはいなかったのに。


これは、父の名誉のために始めた調査なのに。いつの間にか、この記録室に来ること自体が、私の中で別の意味を持ち始めている。


いいえ。今はそのことを考えない。考えてはいけない。


そのページの先、三代前の勲功記録を王家の原本と照合しようとして。


指が、止まった。


王家の原本台帳に、オルヴァーン侯爵家の三代前の勲功証書は存在しなかった。


あるべき場所に、空白がある。侯爵家の台帳にはあるのに、王家の原本にはない。これが意味するのは一つだけだ。


台帳の三代前のページに私の指が止まったまま、蝋燭の灯りが一度揺れた。この筆跡は、他のどのページとも違っている。

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