第3話 閲覧申請書
閲覧申請書を書き上げるのに、二晩かかった。
王家の紋章記録室は、正式な手続きなしには一枚の羊皮紙も閲覧できない。申請書には、閲覧の目的と対象資料の指定が求められる。ただ「調べたいことがあります」では門前払いだ。どの台帳の何年分を、どの先行文献に基づいて照合するのか。申請者が紋章学の素養を持ち、資料の取り扱いに足る人物であることを、書面で証明しなければならない。
私は父の勲章の裏面にある刻印を正確に模写し、類似の紋様が記録されている可能性のある台帳を三冊特定した。王国紋章大系の第四巻と第七巻、そして騎士叙勲台帳の非公開補遺。参照すべき先行研究として、グレーゼン卿の紋章分類論とヴァルト学派の図像解析法を引用し、照合の手順を八段階に分けて記述した。
書き終えたのは明け方で、蝋燭はとうに燃え尽きていた。窓から差し込む薄明の中で申請書を読み返すと、自分でも少し驚くほど精密な文書になっていた。三年間、侯爵家の届出書類を整えてきた経験が、こんなところで役に立っている。
もう一つ、婚約解消の契約条項も確認した。解消の際にどちらが何を負担するのか、慰謝料の条件はどうなっているのか。ディートリヒ側に落ち度がある場合の条項を読んだとき、鎖骨の窪みがすこし張りつめる感覚があった。まだ使うと決めたわけではない。でも、知っておく必要がある。
◇◇◇
王宮の紋章記録室は、東翼棟の二階にある。
朝のうちに婚約解消の書類も鞄に入れてきた。記録室への閲覧申請と、婚約解消の意向書。二通の書類を同じ日に持ち出すことに、不思議と迷いはなかった。一つは過去を守るための書類で、もう一つは未来を開くための書類。どちらも、私がこの手で書いたものだ。
長い回廊を歩いていくと、石壁の空気が変わる。人の話し声が吸い込まれていくような、静かで冷たい空間。古い紙とインクと、かすかな蝋の匂い。この匂いを嗅ぐと、父の書庫を思い出す。父の書庫よりもずっと大きくて、ずっと静かだけれど、紙と向き合う人間の呼吸が染みついているところは同じだった。
受付の文官に申請書を渡すと、文官は一枚目をめくり、二枚目に目を通し、三枚目の引用文献リストで手を止めた。小さく眉を上げる。
「少々お待ちください。上席の者に確認いたします」
何か問題があったのだろうか。書式に不備はないはずだ。参照台帳の指定も、引用文献の選定も、何度も確認した。待合の椅子に腰を下ろしながら、自分の申請書の内容を頭の中でもう一度なぞった。こういうとき、私は不安を考えごとで埋める癖がある。
窓の外を眺めた。王宮の中庭に植えられた楡の木が、秋の風に細い枝を揺らしている。葉はもう半分ほど落ちていて、残った葉が薄い金色に透けて光っていた。
どれくらい待っただろう。廊下の奥から足音が近づいてきて、目の前に人が立った。
「ヴェルデフェルト嬢、でよろしいですか」
顔を上げた。
亜麻色の髪に、落ち着いた灰青の瞳。仕立てのよい上着を着た青年が、私の申請書を手に持って立っている。夜会の広間で見かけた横顔だった。あのとき上座にいた、背筋の正しい人。
「私はアレクシス・ルーヴェンといいます。紋章記録室の閲覧審査を担当しています」
皇太子殿下、という肩書きは名乗らなかった。けれど「ルーヴェン」は王家の姓だ。私はすぐに立ち上がって一礼した。
「お忙しい中、恐れ入ります」
「いえ。座ってください」
アレクシス殿下はそう言って、隣の椅子に腰を下ろした。皇太子が受付の待合に自ら降りてくるというのは、おそらく通常のことではない。私の申請書に何か問題があったのだろうかと、少し身構えた。
「この申請書について、いくつか伺いたいことがあります」
殿下は申請書を膝の上に広げた。私が昨夜書いた文字が、薄い午後の日差しの中に並んでいる。
「率直に言って、驚いています」
問題がありましたか、と聞こうとして、殿下の言葉の続きが先に来た。
「これほど精密な閲覧申請書は初めてです。引用文献の選定が的確で、照合ルートの設計に無駄がない。台帳の巻数と頁範囲の指定まで正確に組まれている。うちの紋章院の学士官でも、ここまで整った申請書を書ける者は少ないでしょう」
予想していなかった言葉だった。
問題ではなく、褒められている。私の申請書の精度を、この人は正確に読み取って、評価している。紋章学の素養がなければできない評価だ。
「恐縮です」
「恐縮する必要はありません。事実を述べただけです」
殿下の声は穏やかだったけれど、社交辞令の軽さはなかった。古文書の一行一行を丁寧に読む人の声だ。
「申請の背景を教えていただけますか。この刻印の模写、見慣れない図案です」
私は少し逡巡してから、正直に答えた。
「亡き父の勲章に、通常の叙勲章にはない刻印がありました。二重の円環に翼を広げた鷲の紋様です。私が持つ紋章学の知識では特定できなかったので、王家の原本台帳と照合したいと考えました」
「お父上は騎士であられた?」
「はい。ヴェルデフェルト子爵家の当主で、王国騎士団に所属しておりました」
殿下は少し目を細めて、手元の申請書に視線を落とした。何かを考えているようだったけれど、それが何かは読み取れなかった。
「わかりました。特別閲覧を許可します。台帳の原本は通常、学士官の立会いのもとでしか閲覧できませんが、この申請書の精度であれば資料の取り扱いに問題はないでしょう。閲覧の日程は受付で調整してください」
「ありがとうございます」
立ち上がって深く一礼した。殿下も立ち上がり、申請書を私に返しながら、こう付け加えた。
「グレーゼン卿の紋章分類論を引用されていましたね。あの論文の第三章、図像の層別分析の手法を用いるのは、なかなか見ない組み合わせです」
思わず顔を上げた。
「お読みになったのですか」
「紋章学は余技ですが、興味はあります。グレーゼン卿の論文は少々回りくどいところがありますが、第三章だけは切れ味がいい」
第三章だけは切れ味がいい。まさに私が思っていたことと同じだった。あの論文全体は冗長で、正直なところ序章から第二章までは読むのが辛い。けれど第三章の図像層別分析だけは、他のどの研究者も到達できなかった鋭さがある。それを初対面の会話で正確に指摘できる人間が、目の前にいる。
「失礼ですが、殿下。第三章の図像層別法は、ヴァルト学派の体系と組み合わせると照合精度が上がると考えていますが、ご見解はいかがでしょうか」
言ってしまってから、しまった、と思った。皇太子殿下に学術的な議論を吹っかけるなど、礼儀としてどうなのか。ディートリヒなら「また暗い話を」と苦い顔をしただろう。
けれど殿下は、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑顔とは言えないかもしれないけれど、それまでの抑制された表情が、わずかに和らいだのが見てとれた。
「面白い。その組み合わせは私も考えたことがあります。ヴァルト学派の図像構造論は分類が粗いという批判がありますが、グレーゼン卿の層別法で補完すれば、確かに照合の精度は上がるでしょう。閲覧の際に、もし結果を教えていただけるなら」
殿下の声が、ほんの少しだけ早くなった。学問的な話題に乗ったとき特有の、抑えきれない興味のようなものが声に滲んでいた。
「興味深い」
私は頷いた。頷きながら、自分の頬が少し温かくなっていることに気づいた。紋章学の話をして頬が温かくなるなど、これまでの人生で一度もなかった。
廊下に出て、記録室の扉が背後で閉まった。足元の石畳に午後の日差しが四角く落ちていて、その光の中を歩く自分の影が、行きよりもほんの少し背が伸びたように見えた。
「暗い趣味」と呼ばれてきた。「書庫にこもる地味な子」と笑われてきた。
でもあの人は、私の申請書を読んで「美しい」に近い言葉を使った。グレーゼン卿の第三章について意見を交わせた。私の知識を、退屈だとは言わなかった。
それだけのことなのに、鼻の奥がまた少しつんとする。これは泣きたいのとは違う。なんというか、うまく言葉にできないけれど、自分の手が久しぶりに温かい。
◇◇◇
リーネ・ヴェルデフェルトが記録室を去ったあと、アレクシスは窓際に立って中庭の楡を眺めていた。
手元には、先ほど返す前に書き写しておいた申請書の引用文献リストがある。グレーゼン卿の紋章分類論、ヴァルト学派の図像解析法、騎士叙勲台帳の非公開補遺。
紋章院の学士官が十人いて、この三つを同じ申請書の中で正しく引用できる者が何人いるかと考えると、おそらく二人か三人だろう。それを、没落子爵家の令嬢が一人で書いてきた。
「照合ルートの設計が美しい」と言ったのは、誇張ではなかった。無駄な台帳を指定していない。必要な巻数と頁範囲だけを、最短の手順で組んでいる。紋章学を理解している人間にしか書けない種類の精密さだった。
それから、グレーゼン卿の第三章について意見を返してきたときの、あの目。少し早口になりかけて、それを自分で抑えたあの瞬間。学問に対する情熱を隠す癖のある人間の目だと、アレクシスは思った。隠さなければならなかった事情があるのだろう。
閲覧の結果が出たら報告してほしいと頼んだのは、職務上の確認だけが理由ではない。あの刻印の正体が気になった。それから、あの申請書を書いた人物が次に何を見つけるのかも。
アレクシスは引用リストを上着の内ポケットに仕舞い、執務室に戻った。




