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英雄の娘を嗤った侯爵家が、紋章を剥奪されるまでの話  作者: 九葉(くずは)


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第2話 偽物でしょう?

あの夜から三日、私は父の書庫にこもっていた。


棚に並ぶ紋章学の文献を片端から開き、裏面の刻印と一致する図案を探した。王国紋章大系、地方爵位叙勲録、七十年前の紋章院年鑑、三百年前の騎士団記録。父が生前に蒐集した古い写本にまで手を伸ばしたけれど、二重の円環に翼を広げた鷲の紋様は、どこにも見つからなかった。


紋章学の書物に載っていない紋様というのは、二つの可能性しかない。一つは、記録が失われた古代の紋章であること。もう一つは、公の記録には載せられない性質のものであること。


どちらにしても、この書庫だけでは辿れない。王家の記録室にある原本台帳を閲覧する必要がある。


その結論に至ったとき、ちょうどディートリヒからの使いが届いた。婚約関連の書類に押印が要るので、明日の午後に屋敷まで来てほしいと。


私は勲章を布袋に包んで、ドレスの内ポケットに入れた。刻印のことはまだ誰にも話していない。話す相手を間違えたくなかったからだ。


いいえ、正確に言えば、話す相手がいなかったのだ。



◇◇◇



オルヴァーン侯爵家の屋敷は、王都の東区画にある。白い石壁に青灰色の屋根瓦、正門には家紋を象った鉄細工の門扉。何度訪れても、この門をくぐるときだけは背筋を正さずにいられない。ヴェルデフェルト子爵家の小さな屋敷とは格が違う。


応接室に通されると、テーブルの上に押印が必要な書類が三通、きちんと揃えて置かれていた。紋章院への届出書類だった。爵位更新に伴う家紋の使用継続届。様式番号も提出先の部署名も、すべて私が以前に整えておいた書式のままだ。


ディートリヒの字で署名が入っているけれど、おそらく中身は読んでいない。いつものことだった。


押印を済ませて、書類を封筒に戻しているところに、扉が開いた。


「あら」


ロゼッタだった。


薄い藤色のドレスにレースのショールを羽織り、手には小さな菓子箱を持っている。ディートリヒに届け物に来たのだろう。婚約者の私がいることなど想定していなかったらしく、一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。


「リーネさん、ご機嫌よう。書類のお仕事? いつもお忙しいのね」


その声は甘く、親しげで、悪意がないように聞こえる。聞こえるように作られている、と言うべきかもしれない。


ご機嫌よう、と返して、封筒を手早くまとめた。ロゼッタとの会話は短いほうがいい。この人は親しげな声の裏に、小さな棘を忍ばせる話し方をする。棘に気づかないふりをするのにも、もう随分と慣れてしまった。けれど慣れたことと平気であることは違うのだと、最近ようやくわかり始めている。


ロゼッタがテーブルの脇に菓子箱を置きながら、ふと私の胸元に目を留めた。


「あら、何かしら、そのふくらみ。お守り?」


布袋の形がドレスの上から分かったのだろう。私が無意識に手で庇うような仕草をしたのが、かえって相手の興味を引いてしまった。


「父の形見です」


短く答えたつもりだったけれど、ロゼッタは首を傾げて近づいてきた。


「見せていただいてもよろしい? ディートリヒ様からお父様のお話は聞いたことがあるの。騎士でいらしたのよね」


断る理由を探したけれど、見つからなかった。形見を隠すほうが不自然に見えると判断して、布袋から勲章を取り出した。掌の上に乗せて、ロゼッタに見せる。


ロゼッタは勲章を覗き込み、数秒ほど眺めてから、口元に手を当てた。


「まあ、ずいぶん古びているのね」


それから、こう言った。


「こんな小さな勲章、どうせ偽物でしょう? 本物の王家叙勲章はもっと立派だもの。これは複製品じゃないかしら」


音が遠くなった。


応接室の窓から差し込む午後の陽光も、庭で鳴いている鳥の声も、すべてが薄い膜の向こうに押しやられたような感覚だった。


「偽物ではありません」


自分の声が平坦すぎることに気づいた。怒っているのか傷ついているのか、自分でもよくわからない。ただ、顎の付け根がひどく強張っていて、それ以上の言葉が出てこなかった。


そのとき、応接室の扉が再び開いて、ディートリヒが入ってきた。


「おや、二人とも来ていたのか。ロゼ、菓子を持ってきてくれたんだね」


ロゼッタがすかさず駆け寄って、「ディートリヒ様、新しいお店のマドレーヌですの」と甘えた声を出す。ディートリヒは菓子箱を受け取りながら満足そうに微笑んで、それから私の手の中の勲章に気づいた。


「リーネ、まだその勲章を持ち歩いているのか」


「父の形見ですから」


「ロゼが言ったことは気にするな。悪気はないんだ。君も知っているだろう、ロゼは少し口が滑りやすいだけで」


私はディートリヒの顔を見上げた。


助けてほしいと言いたかったのではない。ただ、「ロゼの言葉は間違っている」と、それだけ言ってほしかった。この勲章は本物だと。父の功績は確かにあったのだと。婚約者である私のために、一言だけ。


ディートリヒはロゼッタの肩に手を置いて、「ロゼも悪気があったわけじゃないだろう?」と宥めるように笑った。


庇っているのは、やはりロゼッタのほうだった。


何かが折れた。音もなく、静かに。


いいえ。折れたという言い方は正しくないかもしれない。もともと罅が入っていたものが、最後の一押しで二つに分かれた。分かれてしまえば、もう元には戻せないとわかる。そういう種類の、取り返しのつかない瞬間だった。


不思議なのは、それが激しい痛みではなかったことだ。むしろ長い間ずっと痛かったものが、ようやく離れた。そんな感覚に近い。歯を抜いたあとの、鈍い疼きと妙な解放感が混ざったような。


私は勲章を布袋に戻し、ドレスの内ポケットに仕舞った。


「書類への押印は済みました。封筒は机の上に置いてあります。紋章院への提出期限は来月の十五日ですので、お忘れなく」


「ああ、ありがとう。助かるよ」


ディートリヒはいつもの調子で礼を言った。私がどんな顔をしているか、見ていないのだろう。三年間ずっとそうだった。この人は私の表情を読んだことがない。読もうとしたことすらない。


「では失礼します」


一礼して、応接室を出た。廊下を歩く自分の靴音が、妙にはっきりと聞こえた。



◇◇◇



馬車の中で、勲章を取り出した。


裏面の刻印を親指でなぞりながら、窓の外を流れる王都の街並みをぼんやりと眺める。夕暮れの空が薄い橙色に染まり始めていて、通りの石畳が長い影を落としていた。


この人は私の父を守ってはくれない。


あの応接室ではっきりとわかったことは、それだけだった。三年間、薄々感じていたことを認めただけとも言える。ディートリヒにとって私は、書類を処理する便利な婚約者であって、その心を守るべき相手ではなかった。


ならば、父の名誉は私が守る。


勲章の刻印に指を当てたまま、静かに考えた。この紋様の正体を突き止めるには、王家の紋章記録室にある原本台帳を閲覧する必要がある。閲覧には正式な申請が要る。紋章学の知識を持つ者が、正しい書式で、参照すべき台帳の番号を指定して申請しなければ、許可は下りない。


幸い、私にはその知識がある。「暗い趣味」と呼ばれてきたこの知識が、今は父の名誉を守る唯一の手段になっている。


皮肉だと思った。でも笑えなかった。


馬車の車輪が石畳の継ぎ目を越えるたびに、小さな振動が座席越しに伝わってくる。窓の外では、夕焼けの光が屋根の煙突を赤く染めていた。同じ景色をいつも見ていたはずなのに、今日は街並みの輪郭がやけにくっきりと目に映る。何かを手放した後の視界は、こんなふうに澄むものなのかもしれない。


屋敷に着くと、マルタが玄関で出迎えてくれた。私の顔を見て、何かを察したようだった。夜会の晩と同じ、あの静かな目で。


「マルタ」


「はい、お嬢様」


「婚約の解消を、考え始めます」


マルタは瞬きを一つして、それからゆっくりと頷いた。驚いた様子はなかった。


「お嬢様は、もう十分に耐えました」


その一言が、不思議と重石を下ろしたような感覚を運んできた。泣きたいのか安堵しているのか、自分でもわからない。ただ鼻の奥がつんとして、唇を引き結んでやり過ごした。


勲章を握ったまま、書庫に向かう。


閲覧申請書を書くために。



◇◇◇



リーネが帰った後の応接室で、ロゼッタがディートリヒの腕にそっと触れた。


「ねえ、ディートリヒ様。リーネさん、少し怒っていたかしら。あの勲章のこと、私、言いすぎたかしら」


「まさか」


ディートリヒはマドレーヌを一つ摘まみながら笑った。バターの甘い香りが応接室に広がる。


「リーネは怒らない子だよ。いつも平気な顔をしている。気にしすぎたところで、翌日にはけろっとしているものさ。あの子はそういう性分だ」


ロゼッタの菓子箱を開けながら、ディートリヒは欠片ほどの疑問も持っていなかった。三年の婚約期間で、リーネが声を荒げたことは一度もない。涙を見せたこともない。だからリーネは平気な人間なのだと、ディートリヒは信じていた。


平気な顔の下で何が砕けているかなど、この男は考えたことがなかった。


「それなら良いのだけれど」


「それより、ロゼ、このマドレーヌは旨いな。どこの店だ?」


話題はすぐに菓子のことに移り、ディートリヒはリーネの顔をもう思い返さなかった。


応接室の机の上には、リーネが押印を済ませた封筒が三通、きちんと揃えて置かれている。紋章院への届出の期限は来月の十五日。ディートリヒがその封筒を手に取ることは、今夜もなかった。


ディートリヒは知らない。


あの日、リーネが最後に流した涙は、彼のためではなく、父のためだったということを。

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