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英雄の娘を嗤った侯爵家が、紋章を剥奪されるまでの話  作者: 九葉(くずは)


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第1話 大した功績

「君の亡父も、大した功績はなかったろう」


夜会の広間に、ディートリヒの声が通った。

取り巻きの男たちが手にしたグラスを止め、気まずそうに視線を泳がせる。けれどディートリヒは気づかない。この人はいつも、自分の声がどこまで届いているか知らないまま話す。


「勲章があるとはいえ、所詮は末端の騎士だ。ヴェルデフェルト子爵家の名を聞いて、功績が思い浮かぶ者がどこにいる?」


隣でロゼッタが小さく笑った。扇の陰に口元を隠すようにして、けれど隠しきれない声で。


私はシャンパングラスの脚をそっと握り直した。爪が白くなるほど力が入っていることに、自分では気づかなかった。



◇◇◇



オルヴァーン侯爵家の嫡男ディートリヒと婚約して、もう三年になる。


格の釣り合う家同士の縁組だと母に聞かされたのは、私がまだ十七の頃だった。父が亡くなって間もない時期で、子爵家の一人娘としての体面を保つには、早めに後ろ盾を得る必要があったのだと思う。私自身の気持ちがどうだったかと問われれば、正直に言えばよく覚えていない。あの頃の私は、父の書庫に残された古い文献を整理することばかりに気を取られていた。


紋章の研究が好きだった。いいえ、好きという言い方は少し違う。紋章とその裏にある家系の記録を辿ると、公式の歴史書が語らない細い糸が見えてくる。誰が誰と血を繋ぎ、どの家がどの功績で叙勲され、どの紋様がどの年代に変わったのか。そういう糸を一本ずつ指先で辿っていく時間だけが、父を亡くした後の私の居場所だった。


ディートリヒは、私のその性質を「暗い趣味」と呼んだ。


最初に聞いたときは少し胸の奥がざらついたけれど、すぐに慣れた。紋章学に興味がない人間にとっては、古い羊皮紙の裏表を確かめるような作業が退屈に映るのは仕方がない。私はそう自分に言い聞かせて、ディートリヒの前ではなるべく研究の話をしないようにした。


代わりに、婚約者としての務めを果たそうとした。侯爵家の紋章関連の届出書類を整え、爵位更新に必要な台帳を正確な書式にまとめ、紋章院への提出期限を管理した。ディートリヒは一度もその書類に目を通さなかったけれど、私がいる限り手続きが滞ることはなかった。


それでいい、と思っていた。婚約者として役に立っている。それで十分だと。


いいえ。十分だと思い込もうとしていた。



◇◇◇



夜会の広間は、秋薔薇の香りが重たいほど漂っていた。百本近い蜜蝋の蝋燭が壁のシャンデリアに灯り、磨かれた大理石の床に琥珀色の光の輪を落としている。


私の定位置は、ディートリヒから三歩離れた場所だった。


婚約者なのだから本来は隣にいるのが礼儀だが、ディートリヒの左腕にはすでにロゼッタが寄り添っている。メイリング男爵家の三女。薄い桃色のドレスに金糸の刺繍を散らして、ディートリヒを見上げるたびに長い睫毛を伏せる仕草が、蝋燭の光に映えて綺麗だった。それは客観的な事実として認めざるを得ない。


社交界の婦人たちが扇の陰でひそひそと囁いているのが聞こえる。


「正妻候補がいらっしゃるのに、あの方を連れていらっしゃるの」

「ヴェルデフェルト嬢はお気の毒ね。でも、何も言わないのね」


何も言わないのではなく、言えないのだ。ディートリヒは私が何か言えば「気にしすぎだ」と笑うし、ロゼッタの前で波風を立てれば「君らしくない」と眉を顰める。だから私は、壁際のテーブルに並んだ季節の果実を眺めるふりをして、グラスの中身を少しずつ口に含んでいた。


林檎の果実酒は甘かった。けれど舌の奥が苦い。これは果実酒の味ではなく、自分自身の感情がどこかで滲んでいるのだろうと思った。


そんなとき、ディートリヒの声が広間に響いた。


「リーネの亡父も、大した功績はなかったろう」


空気が変わるのがわかった。取り巻きの一人が不自然に咳払いをし、別の一人がグラスに口をつけたまま動かなくなる。


ディートリヒだけが気づかなかった。あるいは、気づいていても構わないのかもしれない。


「勲章があるとはいえ、所詮は末端の騎士だ。まあ、リーネのように書庫にこもるのが好きな子が育つ家だ。功績も地味なものだったんだろう」


ロゼッタが、今度は扇を下ろして笑った。声を隠すこともせずに。


「あら、リーネさんのお父様って騎士でいらしたの? それにしてはお家の格が控えめですこと」


ディートリヒが「ロゼ、それ以上は」と窘めるかと思った。けれどその口元には苦笑が浮かんでいるだけで、言葉には力がなかった。むしろロゼッタの肩を軽く叩いて、「まあまあ」と宥めるような仕草をしている。庇っているのは、私ではなかった。


私は何も言わなかった。


唇の内側を噛んで、それから力を抜いた。グラスの脚をゆっくりと持ち替える。右手から左手に。指先がひどく冷たいことに気がついて、そのまま左手ごとグラスを膝の横に下ろした。


壁際に飾られた秋薔薇が、さっきよりも匂いを強くしたような気がした。甘すぎる香りが鼻の奥にまとわりついて、息を浅くさせる。


ここにいてはいけない。そう思ったのに、足は動かなかった。動いてしまえば、自分がどんな顔をしているのか周囲に晒すことになるから。


父は寡黙な人だった。騎士としての勤めを終えて家に帰ってくると、書庫で古い紋章の文献を広げるのが習慣だった。母が亡くなってからは、私と父の二人きりの時間がその書庫にだけ存在していた。私が紋章学を好きになったのは、父の背中越しにインクの匂いと羊皮紙の手触りを覚えたからだ。


書庫の椅子に座る父の背中は広かった。けれど帰り際にときどき、背中が微かに丸まる瞬間があった。疲労なのか、何か重いものを背負っていたのか、幼い私にはわからなかった。


その父を、「大した功績はなかった」と。


末端の騎士。功績も地味。書庫にこもる暗い子が育つ家。


ディートリヒの言葉の一つひとつが、鋭い針ではなくて鈍い石のように、じわじわと体の内側に沈んでいく。


夜会の広間のどこか遠くで、楽団がワルツの旋律を奏で始めた。


私の隣を、一組の男女が踊りながら通り過ぎていく。裾の風が頬をかすめたけれど、それが暖かいのか冷たいのか、判断がつかなかった。


広間の反対側に視線を向けると、上座の席に見慣れない横顔があった。金砂を散らしたような亜麻色の髪の、背筋の正しい青年。皇太子殿下だろうか。以前から夜会で見かけることはあったが、話したことはない。


その人がこちらを見ているような気がしたけれど、蝋燭の光のせいかもしれない。すぐに目をそらした。



◇◇◇



屋敷に戻ったのは、夜の鐘が十を過ぎた頃だった。


侍女のマルタが玄関の灯りを持って待っていてくれた。三十を超えた年配の侍女で、父の代からヴェルデフェルト家に仕えている。私が何も言わなくても、顔を見ただけで今夜が良い夜ではなかったことを悟ったようだった。


「お嬢様、夜食をご用意いたしましょうか」

「いいえ、大丈夫。少し、一人で」


マルタは頷いて、灯りを置いて下がった。余計なことを聞かないのがマルタの優しさで、それが今夜はありがたかった。


自室の窓際に座り、ドレスの胸元から小さな布袋を取り出す。中に入っているのは、父の勲章だった。掌に収まるほどの銀と金の円形。表面には王国の紋章と、騎士叙勲の銘文が刻まれている。


父が亡くなった日、枕元に置かれていたものだ。


「偽物でしょう?」なんて誰にも言わせない。これは父が生きた証で、私がこの世に持つ、父との最後の繋がりだから。


蝋燭の光に勲章をかざして、表面の紋様をなぞった。何度も見てきたはずの銘文を、今夜はなぜか丁寧に読み返したくなった。指先で王国の紋章を辿り、叙勲の日付を確かめ、裏面に指を滑らせる。


指が、止まった。


裏面の縁に、見慣れない刻印がある。通常の叙勲章にはないはずの小さな紋様だ。二重の円環に、翼を広げた鷲。ただし王国の正式な紋章体系のどこにも見覚えがない図案で、刻みは浅く、意図的に目立たないように彫られている。


三年間、何十回とこの勲章を手に取ってきたのに。表面ばかりを見つめて、裏返すことを忘れていたのだろうか。いいえ、裏面も見てはいた。でも暗い部屋で、泣きながら握りしめていただけだったから、この小さな刻印に意識が向かなかったのだ。


今夜は違った。ディートリヒに父を侮辱されたあとで、父の勲章を学者の目で見た。それが初めてだったのかもしれない。


「マルタ」


声をかけると、廊下で控えていたらしいマルタがすぐに現れた。


「この勲章の裏の、ここ。この紋様を、マルタは見たことがある?」


マルタは蝋燭を近づけて目を凝らし、小さく首を振った。


「いいえ、お嬢様。ですが……」


マルタはそこで言葉を切り、少し遠くを見るような目をした。


「旦那様は、この勲章を磨くとき、いつも窓の外をご覧になっていました。何かを思い出していらっしゃるような、遠い目で。あのお顔は、ただの末端の騎士のものには見えませんでした」


マルタの声は静かだった。確信というよりは祈りに近い響きで、けれど私の胸の奥にまっすぐ届いた。


父は何を見ていたのだろう。勲章を磨きながら、窓の向こうの何を。


蝋燭の芯が一度ぱちりと弾け、勲章の表面を揺れる光がなぞった。金と銀の境目が一瞬だけ鋭く輝いて、また暗くなる。


ディートリヒの声が、まだ耳の奥に残っていた。「大した功績はなかった」。その言葉が事実なのか嘘なのか、今の私には証明する術がない。


でも、この刻印なら。


紋章学者の目で読み解ける何かが、ここにあるのなら。


父の勲章の裏に刻まれた紋様は、私が知る限りの紋章学の書物には載っていなかった。

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