第32話 長官と宰相~広場にて~
中央広場は、避難してきた市民でごった返していた。
泣き声を上げる子供。家族の名を呼ぶ者。城門の向こうを不安そうに見つめる者。
誰もが恐怖を抱えている。
それでも、紙一重のところで混乱にまでは至っていなかった。
広場の各所に配置された騎士たちが声を張り上げ、人々を誘導し続けていることが大きいのだろう。
「それにしても、えらいことになったな」
隣にいる宰相は、非常事態だというのに妙に落ち着いている。
いや、この男の場合、状況を楽しんですらいるのかもしれない。
そもそも私は王宮に残っていてもよかったのだ。
それをこの男にそそのかされ、わざわざ中央広場まで足を運ぶことになった。
市民を余計に動揺させぬよう、二人して平服にまで着替えて。
「エルナ団長なら押し返すかと思ったが……さすがに厳しいかの」
宰相の言葉に、城門の向こうへ目を向ける。
遠目に見える戦況は、決して芳しいものではなかった。
だが――ここに至るまでの彼女の働きを軽んじることは、誰にもできないだろう。
竜が王都へ迫る中、騎士団を指揮して市民を避難させ、さらには空を飛ぶ竜を地上へ引きずり下ろした。
その瞬間など、中央広場が割れんばかりの歓声に包まれたほどだ。
「あれが騎士団長か!」
「エルナ団長が竜を落としたぞ!」
「団長自らが守ってくれてるんだ!」
そんな声が、私の耳にも届いていた。
この場にいる多くの市民が見ている。
自分たちをここまで避難させたのが誰なのか。
そして今、自分たちを守るため、あの怪物の前に立っているのが誰なのかを。
だからこそ――。
そのエルナ団長が押され始めるにつれて、広場にも再び動揺が広がっていた。
「あ……団長が!」
「立ってくれ……」
「頼む……!」
誰かが祈るように呟く。
「そうですね。この状況を覆すのは、並大抵のことではないでしょう」
下手をすれば、この日のうちに私もあの竜に喰われているかもしれない。
そんな状況だというのに、我ながら不思議なほど冷静に戦況を眺めていた。
理由は明確だった。
少し先に、私の何倍も取り乱している者がいたからだ。
「あぁぁ……もう、もうお終いだぁ……」
初老に差し掛かったくらいの男だった。
頭を抱え、城門の向こうを見ながら震えている。
「あ、あの竜は……! 昔も王都に来たんだ……! 俺はその時に見たんだ……。今度こそ、王都を壊滅させる気なんだぁぁ!」
その言葉に、周囲の市民がざわめいた。
過去にも同じことがあった。
男はそう主張しているらしい。
戯言なら放っておけばいい。
だが、問題はその声を聞いた市民たちの間に、明らかな動揺が広がり始めていることだった。
「昔も……?」
「じゃあ、あいつは一度、王都を襲ってるのか?」
「今度も追い払えるんだよな……?」
恐怖というものは伝播する。
一人が怯えれば、隣の者も不安になる。
それが、これだけ多くの人が集まっているのだから、ひとたび均衡が崩れればどうなるか。
「暴徒が出て、内側から崩壊してもおかしくありませんね」
隣の宰相を見やる。
それでも表情は変わらない。
長年、国政の中枢に身を置いてきた経験ゆえの余裕なのか。
そんなことを考えていると、宰相がぽつりと呟いた。
「なあ」
「なんです?」
「この局面を打開する奴が現れたら――英雄になるとは思わんか?」
英雄。
その言葉に、一人の男の顔が浮かんだ。
少し前、大真面目に同じ言葉を口にした人間がいた。
軽薄そうでいて、時折こちらの内側まで見透かすような鋭さを覗かせる男。
レイグ・ローウェル。
だが、さすがに荒唐無稽だ。
いち人材登用官が、この状況をどうにかできるはずが――。
その時だった。
「お、おい!」
広場のどこかから声が上がった。
「誰か来たぞ!」
続いて、別の場所からも歓声めいた声が聞こえてくる。
それは波紋のように広がり、少しずつ大きくなっていった。
何事かと目を凝らし、城門の先を見る。
「……あれは」
エルナ団長と竜。
その戦場へ、新たな人影が駆け込んでいた。
「あれは……加勢ですかね?」
「そのようだぞ。あれほど禍々しい化け物を前にして、自分から飛び込んでいく奴がいるとはな」
距離があるため、顔までは判別できない。
ただ、その動きだけは見えた。
腕が動いた。
そう認識した次の瞬間には、太刀が振り抜かれている。
速い。
遠目からでも、それだけは分かる。
竜の前脚から血が飛んだ。
それまでエルナ団長を追い詰めていた竜が、初めて新たな人影へ身体を向ける。
巨大な爪が振るわれる。
人影は紙一重で躱した。
そして逃げるどころか、そのまま竜の懐へ飛び込んでいく。
「お、おい……」
近くにいた若い男が、城門の先を指差した。
「もしかして、あいつじゃないか?」
「誰だよ?」
「最近、冒険者ギルドで噂になってる奴だよ。黒髪の女冒険者」
その一言に、何人かが反応した。
「俺も聞いたぞ。アルケイン周辺の依頼ばかり受けてるって」
「確か、危険な依頼にも平気で首を突っ込む奴だろ?」
「最近じゃ、腕の立つ冒険者まであの女を手伝ってるって話だ」
どうやら、それなりに有名な人物らしい。
私の耳にまで届いていなかったのは、単に冒険者たちの噂話に疎かったからだろう。
「でも、あの噂の女って……本当にあんなに強いのか?」
「知らねえよ。俺だって姿を見たことはない」
そんなやり取りをしている間にも、人影は竜と刃を交えている。
噂が真実かどうかなど、もはやどうでもいい。
実際に目の前で、あの竜と渡り合っているのだから。
他国からの援軍ということはない。
ならば――いったい、何者だ?
目を凝らす。
戦場を駆けるたび、長い漆黒の髪が尾を引くように舞っていた。
その時。
「あ、あれは!」
先ほどの初老の男が叫んだ。
「あれは……ミカゲじゃないか! 騎士団にいたミカゲだ!」
ミカゲ。
聞き覚えのある名だった。
「ミカゲ?」
「誰だ、それ?」
「騎士団にいたって……?」
「あれが、噂の冒険者の名前なのか?」
ざわめきが広がっていく。
最近、アルケイン周辺で名を上げ始めた、正体のよく分からない黒髪の女冒険者。
その正体が、かつて騎士団に所属していた人間だった。
それだけでも十分に驚くべき話だった。
だが、初老の男は違った。
戦場を見つめたまま、呆然と口を開いている。
「そんな……」
震えていた。先ほどとは違う。
恐怖だけではない。
「まさか……あの娘が……」
「どうした?」
近くの者が尋ねる。
男は答えない。
ただ、竜と戦うミカゲを見つめている。
やがて、その顔が大きく歪んだ。
「あの娘の父親だ!」
叫び声が広場に響いた。
「あの娘の父親が……昔、あの竜と戦ったんだ!」
ざわめきが止まる。
私も思わず男へ顔を向けた。
「俺は見ていた! あの時、逃げ遅れて……ずっと、ずっと見ていたんだ!」
男の声が震える。
今度は恐怖ではない。
二十年以上前の光景を、目の前に見ているかのようだった。
「あの時、騎士のアトランティスが王都を守ってくれた! 仲間と一緒に、命懸けであの竜と戦って……追い払ったんだ!」
周囲が静まり返っていく。
「でも……」
男の声が掠れた。
「あの人は……死んでしまった」
その一言が、妙にはっきりと耳に届いた。
そして男は、城門の向こうを指差した。
「あれが、その娘だ!」
人々の視線が一斉に戦場へ戻る。
漆黒の髪を靡かせながら、ミカゲが再び竜へ向かっていく。
「父親が命を懸けて王都を守って……今度は、その娘が同じ竜の前に立つのか……!」
誰かが息を呑んだ。
「じゃあ、あの人……」
「親子で、この街を……?」
「最近噂になっていた冒険者が……あの騎士の娘だったのか」
人から人へ。
言葉が伝わっていく。
噂だけが先行していた黒髪の冒険者。
かつて騎士団に所属していたミカゲ。
二十年以上前、王都を守るために同じ竜と戦い、命を落とした騎士の娘。
それまで別々だった話が、一つの人物へと結びついていく。
広場の空気が変わった。
恐怖が消えたわけではない。
竜が恐ろしい存在であることにも変わりはない。
それでも。
俯いていた者たちが顔を上げている。
震えていた者たちが城門の向こうを見つめている。
名も知られていなかった一人の女へ、大勢の視線が集まっていく。
「ミカゲ!」
誰かが叫んだ。最初は、たった一人だった。
「負けるな!」
別の誰かが続く。
「ミカゲ!」
また一人。
やがて、あちらからも、こちらからも声が上がった。
「ミカゲ!」
「やっちまえ!」
「王都を守ってくれ!」
「おお! エルナ団長も立ち上がったぞ!」
声が重なっていく。
それはもはや歓声というより、一つの大きなうねりだった。
その光景を眺めながら、私は記憶を辿る。
ミカゲ・アトランティス。騎士団に所属していた女。
そして――。
レイグ・ローウェルによって、騎士団から追放された人材。
そこまで考えた瞬間、別の記憶が蘇った。
『英雄』
少し前。あの男は、私の前で確かにその言葉を口にした。
ばらばらだった記憶が、一つに繋がっていく。
まさか。
隣を見る。
ちょうど宰相もこちらを見ていた。
どうやら、同じところへ辿り着いたらしい。
互いに目を合わせる。
「いや……」
思わず笑いが漏れた。
「そんな偶然があるか?」
偶然。
本当にそうなのだろうか。
あの男は、ミカゲを騎士団から追放した。
そのミカゲは冒険者となり、僅かな期間で噂になるほどの実力を示した。
そして今。
騎士では到底太刀打ちできない竜を相手に、正面から渡り合っている。
『英雄』
再び、その言葉が頭をよぎる。
いや。
まだ何も終わってはいない。
竜は健在だ。
エルナ団長も、ミカゲも、ここから命を落とす可能性だってある。
それでも――。
中央広場まで出てきたのは、正解だったのかもしれない。
今日、この場所にいる市民たちは忘れないだろう。
竜が王都へ迫った時。
騎士団長エルナが誰よりも早く人々を逃がし、騎士団を率い、空を飛ぶ竜を地へ引きずり下ろしたことを。
傷だらけになってなお、一人で竜の前に立ち続けたことを。
そして――。
そのエルナが命懸けで繋いだ戦場へ。
最近、王都で噂になり始めた一人の冒険者が駆けつけたことを。
その女が、かつて騎士団を追われたミカゲだったことを。
さらに、その父もまた。
二十年以上前、同じ竜から王都を守るために命を懸けた騎士だったことを。
父が守った街で。
今度は娘が、同じ竜へ剣を向けている。
そして、その背中へ。
大勢の人々が、彼女の名を叫んでいる。
「ミカゲ!」
「ミカゲ!」
「ミカゲ!」
広場を震わせる声を聞きながら、私は城門の向こうを見つめた。
――もしかすると私は今。
一人の英雄が生まれる瞬間を、目撃しているのかもしれない。




