第20話 ミカゲ・アトランティス
あの男の言葉が、頭から離れない。
『お前に騎士は向いていない。辞めたらどうだ?』
「……馬鹿にするなよ」
誰に聞かせるでもなく吐き捨てると、地面を踏む足に自然と力が入った。
レイグ・ローウェル。
あの男を思い出すだけで、腹の奥に煮えたぎるような怒りがこみ上げる。
人を食ったような態度も、気の抜けた喋り方も気に食わない。多少は人を見る目がありそうだと思っていた自分が恥ずかしいくらいだ。
そして何より――人の内面を勝手に覗き込んでくるような、あの目が嫌いだった。
『本当は分かっているんだろ』
分かっている?
何がだ。
私は騎士として、誰かに迷惑をかけたことなど一度もない。
それに――
「私の……何を知っているというのだ」
そう呟いたところで、いつの間にか目的の場所まで来ていたことに気づいた。
王都の外れ。先日も剣を振り、不覚にもあの男に覗かれていた場所だ。
夜更けということもあり、辺りは暗闇に包まれ、静寂だけが満ちている。
墓地の奥へと進んでいく。
暗かろうが、道順など意識する必要はない。これまで何度も歩いた道なのだから。
やがて一つの墓石の前まで来ると、私は足を止めた。
「……おとうさん」
積もった砂埃を手で払い、刻まれた名前を指でなぞる。
父は、有名な騎士ではなかった。
大きな武勲を立てたわけでもなければ、特別な褒章を与えられたこともない。騎士団にも、王都を襲った強力な魔物を追い返した際に殉職した、と残されている程度だ。
「今日は、最悪の気分なんだ」
墓石に向かって言葉をかける。
当然、返事などあるはずもないが、そういえば生きていた頃から無口だったなと思い返すと、ほんの少しだけ懐かしい気持ちになった。
早くに母を亡くした私を、父は男手一つで育ててくれた。
寡黙で不器用な人だったけれど、私はそんな父を尊敬していた。
だから、私も騎士になろうと思った。
最初は、ただそれだけだった。
子供の頃の私は、父の腰に下がった剣が好きだった。
家を出る前、毎朝同じように剣帯を締め、外套を羽織る。その姿が格好よくて、まだ剣などまともに持てもしない年齢だったというのに、木の枝を拾っては父の真似をして振り回していた。
父はそんな私を見ても、あまり笑わなかった。
ただ一度だけ、珍しく口元を緩めたことがある。
『騎士になりたいのか』
そう聞かれて、私は大きく頷いた。
『おとうさんみたいになる』
父は少し黙った。
喜んでくれると思っていたから、その反応が子供心にも不思議だった。
『騎士は、格好いい仕事じゃない』
『でも、おとうさんは格好いい』
『……そうか』
それだけ言って、頭を撫でられた。
大きくて硬い手だった。その感触だけは、今でも覚えている。
父が死んだのは、それから数年後のことだった。
その日、王都の鐘が狂ったように鳴っていた。
普段耳にする時刻を知らせる鐘とはまるで違い、短く、何度も打ち鳴らされ、その音に追い立てられるように人々が一斉に家から飛び出していく。
何が起きているのか、最初は分からなかった。
ただ、大人たちが怯えていた。
子供だった私には、それだけで十分に怖かった。
通りへ出て、街の外れまで移動した時、誰かが空を指さした。
その先を見上げると、月明かりの下を巨大な影が横切っていた。
鳥ではない。
翼を広げれば、家々の屋根が一瞬で闇に沈んでしまうほどの大きさだった。
やがて、低い咆哮が響き渡る。
腹の底まで震えるような声だった。
「なに……あれ」
誰かが呟いた瞬間、街は悲鳴に包まれた。
子供を抱える者、荷物を捨てて逃げる者、転んだ人間を踏み越えてでも先へ進もうとする者。
誰もが必死に逃げていた。
私はただ、その場に立ち尽くしていた。
怖かった。
身体が動かなかった。
そんな私の前に、父が立った。
身につけているのは、いつもの鎧。腰には、いつもの剣。
けれど、家を出る時とは違って、その剣はすでに抜かれていた。
『逃げろ』
『おとうさんは?』
『行くところがある』
父が向いていたのは、皆が逃げてくる方向だった。
『だめ』
咄嗟に父の外套を掴んだ。
『行かないで』
父は振り返り、困ったような顔をした。
あんな顔を見たのは、あれが初めてだったかもしれない。
『ミカゲ』
『一緒に逃げよう』
『それはできない』
『どうして!』
父はすぐには答えなかった。
代わりに通りの向こうへ目を向ける。
そこには逃げ遅れまいと必死に走る人がまだ大勢いて、老人を背負って走る男もいれば、泣き叫ぶ子供の手を引く母親もいた。
『あの人たちが逃げるまで、時間がいる』
『他の騎士がいるでしょ! なら、おとうさんじゃなくてもいい!』
今思えば、子供らしい身勝手な言葉だった。
けれど、父は怒らなかった。
ただ、外套を掴んでいた私の手をそっと外した。
『怖いか』
私は何度も頷いた。怖いに決まっている。
空には、家よりも大きな化け物がいる。大人たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、そのうえ父まで私のそばからいなくなろうとしている。
父は少しだけ屈み、私と目線を合わせた。
『なら、父さんが前に立つ』
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
『それが騎士だ』
父はそう言って立ち上がった。
あの頃の私には、父がなぜそんなことを言えるのか分からなかった。
いや、今考えれば、父だって怖かったはずだ。
それでも父は、私に背を向けた。
『おとうさん!』
呼んでも、振り返らなかった。
逃げてくる人々の流れに逆らい、一人で歩いていく。
いや。
父だけではなかった。
何人もの騎士が、剣を抜き、槍を握り、逃げ惑う人々とは反対の方向へ進んでいた。
それでも私には、父の背中しか見えていなかった。
あれが最後だった。
騎士団は、その化け物を討ち取ることができなかった。
それでも市街地への侵入を食い止め、夜通しの交戦の末、王都から追い払ったと後になって聞いた。
大勢の人間が助かった。
その代わり、何人かの騎士が命を落とした。
父も、その中にいた。
「……馬鹿だったな」
墓石に向かって呟く。
返事はない。
「一人くらい逃げたって、誰も責めなかっただろうに」
それでも父は逃げなかった。
英雄になったわけではない。
街に銅像が建ったわけでもなければ、その生涯が物語として語り継がれたわけでもない。
ただ、あの日、あの場所にいた一人の騎士として死んだ。
それだけだ。
けれど、私にとっては違った。
葬儀の日、私は棺の横に置かれた父の剣をずっと見ていた。
昔は重くて持ち上げることすらできなかった剣に、その時、初めて自分から触れた。
両手で柄を握る。まだ重かった。
それでも、ほんの少しだけ持ち上がった。
「私がなる」
誰に言ったのかは覚えていない。たぶん、自分自身にだ。
父の代わりになれるとは思わなかったし、そんなことができるとも思っていなかった。
でも、あの背中を追いかけることならできる。
誰かが怖がっている時、その一歩前へ出る。
父が最後までそうしたように。
「私が騎士になる」
あの日、そう決めた。それからずっと、その気持ちは変わっていない。
騎士団に入った日も、初めて魔物を斬った日も、右脚を傷めた日も。
医者から元通りにはならないと言われた日でさえ、一度だって変わらなかった。
だから――
『お前に騎士は向いていない。辞めたらどうだ?』
「…………」
拳を握ると、またあの男の声が蘇った。
「簡単に言うな」
墓石に向けた言葉ではなかった。
「何も知らないくせに」
私は騎士になるために生きてきた。父の背中を追うために剣を握り、ここまで歩いてきたのだ。
今さら、それを捨てろと言われて、はい、そうですかと頷けるわけがない。
騎士を辞めた自分など、考えたこともない。
剣を置いて、鎧を脱いで。
その先で、私は何者になればいい。
そんなもの、考えたくもなかった。
右脚に手を添える。
じくじくとした鈍い痛みが残っている。
この脚が以前のようには動かないことくらい、自分が一番よく分かっている。
それでも――まだ立てる。
「まだ剣を振れる」
ゆっくりと立ち上がり、腰の剣に手をかける。
「だったら、私は騎士だ。それしかないんだ」
剣を抜くと、月明かりを受けた刃が白く光った。
墓石の前から数歩離れて構え、右脚で地面を踏みしめる。
ずきりと痛む。
それでも構わず、一歩前へ出る。
父がそうしたように。
そして、剣を振り下ろした。




