第15話 登用官はストーカーする
翌朝。
俺は一軒のパン屋の軒先で焼き立てのパンをかじっていた。
美味い、実に美味い。
月並みだが、表面はカリっとしているのに、中はふわふわ。
少し塩気がある肉を挟んであるのが、またいい。
最近は飯抜きのことも多かったから、満足のいく朝食には心躍ってしまう。
……なんてことを考えながら。
俺は道の向こうにある一軒の家を見張っていた。
もちろん、パンのためにここまで来たのではない。
目的は――フルヌードが見たい。ただ、それだけだ。
見たい、見たい、見たい、見たい、見たい。
ミカゲの本当の姿を心行くまで見たい。たったそれだけのこと。
「お、出てきたか」
黒髪の女性――ミカゲが家から出てくる。
任務中の鎧姿ではない。
白いシャツに黒いズボンという簡素な格好だが、腰には剣を提げていた。
今日は非番のはずだ。
昨日、駐留場に戻った後、理由をつけて勤務表を手に入れた俺は、こうして行動に移していた。
さてと、行きますか。
ミカゲ……お前の一糸まとわぬ姿を見せてくれよ。
◇
家を出たミカゲは曲がり角を曲がる。
少し待ってから俺も同じように曲がる。
そのまま市場に入って行く。
当然、俺も入る。
ミカゲは足を止め、青果の露店で野菜を見る。
棚の反対側に回り、俺も野菜を見る。
「兄ちゃん、それ買うのかい?」
「え?」
気づくと店主は怪訝そうな顔をしていた。
俺は手に握っていたものを見る。
玉ねぎだ。
「……もらおう」
仕方なく買った。
顔を戻すと、ミカゲはいない。
「まずい」
慌てて辺りを見回す。
どうやら、青果は買わないようで店からは離れていったようだ。
どこだ、どこにいるんだよ、俺のミカゲ。
いた。次は魚屋の前だ。
よし。
俺は玉ねぎを片手に追跡を再開した。
ふと我に返る暇などない。
女性騎士の非番を狙い、家を出るまで数時間は見張り、後をつけて、市場まで追いかける。
これは、ひょっとして。
いや、ひょっとしなくても……。
「恋ってやつ……なのか?」
人生三十五年。
まさかこんな形で自分の好みの異性を知ることになるとは。
女性らしさが残るイケメン。
そういうのが好きだったんだな、俺は。
妙に納得しかけたところで、ミカゲが歩き出した。
考えるのは後だ。
昨日のように脚を庇っている様子はない。歩幅も大きく、姿勢は相変わらずいい。
俺は少し距離を取りながら、その後ろ姿を眺める。ミカゲが一軒の店へ入っていく。
看板に剣と盾をモチーフにしている店は、武具屋のようだった。
だけど、騎士団御用達の店は他にあると聞いたな。
まあ、それは後でいい。
俺も後を追おうとして、足を止める。
建物はまずい、そして店も広くない。入ったら確実にバレる。
仕方なく、向かいの建物の陰に入った。
ここからでは中の様子は見えない。
「うーん、なにしてんだろ?」
一目でもいい。中で何をしているか知りたい。
どんな些細なことでも知りたい衝動に駆られていた。
しばらく待つと、ミカゲが出てきた。
彼女の手には小さな紙包み。
「なんだ、あれ」
大きさからして、当然、武具じゃない。
双眼鏡を取り出して覗いてみる。
包みの隙間から見えたのは、細長い革紐のようなもの。
それと、小さな瓶の中に透明な液体が入っている。
勘でしかないが、昨日の右脚のことと無関係には思えないでいた。
気づけば俺は、またミカゲの後を追っていた。
知りたい。あの動きはなんだったのか。
なぜ、あれだけ強い人間が無名のままなのか。
それだけじゃない。
騎士歴五年、勤務態度良好、剣術は突出。
おかしい、もっと名前が知られてもいい存在だ。
実力と評価が噛み合っていない。
こういうのが――
「……気持ち悪いんだよな」
気づけば、俺の足はどんどん速くなっていった。
◇
ミカゲが向かったのは、東地区から少し外れた場所だった。
大通りから細い道へ入り、さらに人通りの少ない方へ進んでいく。
商店や住宅が立ち並んでいた景色も次第にまばらになり、やがて古びた石壁が道の先に見えてきた。
こんなところに何の用だ?
さすがに買い物という雰囲気ではない。
距離を開けながら追っていると、ミカゲは石壁の切れ目に設けられた鉄柵の門を抜けていった。
その向こうには、大小いくつもの墓石が並んでいる。
……墓地か。
俺は少し遅れて門の前まで近づき、中の様子を窺った。
ミカゲは墓地の奥へと進んでいく。
やがて一つの墓石の前で足を止めると、腰に差していた剣を抜いた。
何をするつもりだ?
そう思った直後、鋭い風切り音が耳に届いた。
一閃。
続けて、もう一閃。
ただ墓石を傍らに、黙々と剣を振っている。
これまで何度も繰り返してきたのだろう。一つ一つの動きに迷いがない。
もっとよく見たいが、これ以上近づくと気づかれるだろう。
周囲を見回すと、ちょうどよさそうな高さの木が目に入った。
……やるか。
別に覗きが趣味というわけじゃないからな。
木に登って枝の隙間から覗くと、ミカゲの姿を俯瞰的に捉えることができた。
「自主的な鍛錬か」
非番の日まで剣を振るうとは、本人の人間性がよく表れている。
わざわざ、こんな場所を選んだ理由は、すぐに分かった。
何度も鋭く剣を振り、その動きが止まることはない。
昨日の戦いでも感じたことだが、一つ一つの動きが恐ろしく滑らかだった。
一度動き出せば、すべてが繋がっているような剣術。
これだけのものを持っているのに……
だが、しばらくすると急に動きが鈍くなった。
不自然に一瞬止まった後、苦悶の表情を浮かべる。
やっぱり……そうか。お前もそうだったんだな。
才能を追いかけると、思わずして残酷で最悪の結末を知ることになる。
本人の努力では、どうにもならないものにぶつかる。
芽が出ず、やがて凡庸に成り下がっていく。
この世の中に山のように溢れている現実。
今回も、そのうちの一人だったということか。
「……古傷の類か」
どうしようもなく脚が痛むのか、ミカゲはついに地面へと腰を下ろす。
姿を隠すようにして、ズボンを脱いだ。
すらりと伸びた白い脚に、思わず視線が吸い寄せられる。
だが、そんな思考はすぐに切り替わった。
「なんだよ、あれ?」
右脚の太ももだけが濃い赤と紫に覆われていた。
その様子に、慌てて双眼鏡で覗き込むも、脚は見たこともない状態をしている。
肌のその奥から肉が隆起しているような状態。
見た感じだけで言えば、怪我と片付けていいものなのか、悩むところだ。
ミカゲは、緩慢な動きでさっきの武具屋から持ち帰った紙包みを開き、小瓶の中の液体を手のひらに垂らすと、念入りに脚に塗り込んでいく。
それが終わると、細長い革製の帯を右脚にきつく、縛り付けるように巻き付けていた。
しばらく休み、息を整えたミカゲが立ち上がり、ズボンを履き直す。
痛みがマシになったのか、さっきよりは表情も和らいだように見える。
それでも俺の中には右脚の衝撃が残っていた。
ミカゲは周囲に誰もいないことを確認すると、剣を鞘に収めた。
そのまま、墓地を出ていくのかと思ったが、足を動かさなかった。
視線の先には、一つの墓石がある。
ミカゲは、ただ黙ってそれを見つめていた。
さっきまで痛みに耐えていた時とも違う。
眉間には深い皺が刻まれ、唇は固く結ばれている。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
……なんだ、その顔は。
墓参りに来た人間が浮かべる表情には、どうしても見えない。
やがてミカゲは何かを振り切るように墓石から目を逸らし、背を向けた。
その姿が見えなくなってから、俺は木を下りる。
少し迷った末、ミカゲが立っていた場所まで歩いていった。
墓石に刻まれた文字へ目を向けると、そこにあった名を見て、ようやく分かった。
――父親の墓か。
もう一度、ミカゲが立ち去った方角を見る。
あいつが最後に浮かべた顔が、妙に頭から離れなかった。




