閑話 エルナ
――やっぱり、レイグ様は稀有な存在だ。
団長室を出てから、昂った気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐いた。
それでも、今日の出来事を思い返してしまう。
まさかヴァルトが、候補者の採用試験を持ち出してまで異を唱えるとは思わなかった。
私にとっても予想外だった。
それなのに、最後には結果だけでヴァルトを黙らせてしまった。
あの場にいた皆が、少なからず感情を揺さぶられたはずだ。レイグ様のことを知っていた私ですら、そうなのだから。
もし、最初からすべてを予見していたのだとしたら。
……いいえ。さすがにそれは、飛躍しすぎですね。
胸に手を当てる。
今でも、あの日のことは鮮明に思い出せる。
私が初めて、レイグ・ローウェルという人に出会った、七年前のことを。
◇
大量発生した魔物が、帝国との国境付近に現れた時のこと。
私が、まだ団長ではなかった頃だ。
一体一体はさほど強くなかったものの、問題はその数だった。
国境を跨ぐように魔物が広がったことで、アルケイン王国と帝国は一時的に共同戦線を張ることになった。
帝国側が順調に魔物を押し返す一方、我が騎士団は苦戦していた。
戦線は徐々に後退し、司令部の天幕近くまで負傷した騎士たちが戻ってくる。居並ぶ幹部たちも、有効な打開策を打ち出せずにいた。
そんな時だった。
「いきなりですまない。邪魔をする」
見慣れない男が天幕へ入ってきた。
帝国の軍服を身につけているものの、その着こなしは軍人とは思えないほど雑だった。
「帝国の者がここに何の用だ!」
「押されているみたいだからな。ちょっとした助言だ」
その発言に、全員が虚を突かれた。
「その必要はない! 今、作戦を考えているところだ!」
「それじゃ遅い。すぐに打てる手がある。後方にいる赤髪の奴を――」
最後まで言わせてもらえず、男は半ば叩き出されるように天幕から追い出された。
けれど、私は彼の言葉が妙に気になった。
赤髪の騎士。素行が悪く、周囲から腫れ物扱いされている人物だ。
出兵の際にも兜すら被らず、軽装で戦場へ出る。剣を持たせれば味方まで斬ってしまうのではないかと思わせるほど、危うい男だった。
なぜ他国の人間が、そんな騎士に目をつけているのだろう。
知りたい。その一心で、私は彼を追いかけた。
「お待ちください!」
男が足を止める。
「なぜ、赤髪の騎士を……いえ、何を言おうとしたのですか?」
男は少し黙った後、振り返った。
「あいつは狂人の類だ。今にでも飛び出しそうにしているだろ?」
「それが、何か?」
「この状況でそんな態度が取れるのは普通じゃない。さっきも後方に抜けてきた魔物を三匹まとめて斬っていた。しかも、一度も後ろに下がってない」
男は戦場へ視線を向ける。
「周りが押されるほど前に出たがってる。ああいう奴に隊列を守らせる方が危ない。抑え込んだら長所まで死ぬ」
「ですが、前へ出せば死ぬかもしれません」
「普通はな。だが、あいつは普通じゃない。好きなだけ前に行かせた方がいい」
私は言葉を失った。
普通ではない。それは、欠点として扱われるものだ。
規律を乱す者、周囲と同じように動けない者。
だから直す。抑える。周囲に合わせさせる。けれど目の前の男は違う。
欠点を直すのではなく、その欠点が長所になる場所へ置けばいい……か。
そんな考えは誰でも理想論として持つ。
異様なのは、こんな張り詰めた戦況下でそれを実行しようとする点だ。
しかも、他国の騎士に対して……。
そんな人物がいることに意表を突かれた。
「あれれ~。さっきのお兄さんと小隊長は知り合いだったの?」
背後から呑気な声が聞こえた。
振り返ると、今まさに話していた赤髪の騎士が立っていた。
「今が初対面だ」
「あ、そうなんだ。僕にわざわざ話しかけてくれたからさ。絶対にお兄さんも変人だよね?」
「え? そんなことないぞ」
失礼な、俺は普通だぞ、とでも言いたげな顔をしている。
こんな戦場でその表情ができる時点で、普通とは思えなかった。
「ねえ、小隊長。僕の出番はない感じ?」
そうだ。この問題児は、私の指揮下にはいない。
本来なら、私に彼への命令権はなかった。
「出番がないなら、寝てようかな」
赤髪の騎士は大きくあくびをする。
けれど、その視線だけは戦場から外れていなかった。
獲物を前にして、飛びかかる瞬間を待つ獣のように。
「これで最後にする」
帝国の男が、私の隣へ立った。
「決断する立場の人間は孤独だ。上手くいけば賞賛される。失敗すれば罵声を浴びる。それでも最後に決めるのは、あんただ」
静かな声だった。
「だけど、信じて送り出してくれないか?」
男は赤髪の騎士を見る。
「こいつの才能を」
その瞬間、私は知りたくなってしまった。
この人には何が見えているのだろう。
私たちが問題児としか見ていなかった騎士に、何を見つけたのだろう。
理解できないかもしれない。それでも、その世界に近づいてみたい。
その感情が、私の迷いを決心へと変えた。
本来なら、私に命令権はない。
ならば、その責任も私が背負えばいい。
私は赤髪の騎士へ身体を向けた。
「小隊長として、あなたに命じます。敵陣へ切り込み、一体でも多くの敵を討伐しなさい。それができないなら――」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
「帰ってくる必要はありません」
口にした私自身が驚くほど酷い言葉だった。
それなのに、赤髪の騎士は目を丸くした後、口元を大きく吊り上げた。
「ヒュー! いいねぇ、小隊長……それは上がるよ」
剣を抜き、戦場へ駆けていく。
剣が閃くたびに魔物が倒れ、その歩みは一度として止まらない。
むしろ敵が増えるほど、その速度は上がっているようにすら見えた。
やがて背中が魔物の群れに紛れて見えなくなると、急に不安が押し寄せてきた。
私は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
その時、震えそうになっていた肩に、そっと手が優しく置かれた。
「いいじゃないか」
帝国の男だった。
「あんたも大した才能だな」
「……私が?」
「ああ。人に命令するだけなら誰でもできる。でも、あいつが一番力を出せる言葉を選んだだろ」
「そんな……私はただ……」
「それができない奴の方が多いんだよ」
男は何でもないことのように言った。
何を言っているのだろう……この人は。
当時の私は、まだ一人の小隊長に過ぎない。
それなのに、その言葉を笑い飛ばすことはできなかった。
肩に置かれた手の温もりを感じる。
できることなら、その手を両手で包み込んで、頬に寄せてしまいたい。
そんな衝動に駆られた。
……そんなこと、できるはずもありませんけれど。
その後、戦況は好転した。
赤髪の騎士が敵陣を大きく乱したことで生まれた隙へ、騎士たちを送り込むことができた。
崩れかけていた戦線は持ち直し、最終的には魔物の群れを壊滅させることができた。
戦いが終わった頃には、帝国の男はどこにもいなかった。
それでも、あの日から彼の言葉はずっと胸に残った。
――あんたも大した才能だな。
私は、あの男が何者なのかを調べた。
同時に剣の腕を磨きながら、指揮を学んだ。
簡単なことではなかった。
それでも、執念にも似た感情が私を動かし続けた。
『もう一度、会いたい』
そして、できることなら。
『今度は、隣にいてほしい』
やがて私は、騎士団の団長に任命された。
その頃には、あの日の帝国軍人が何者だったのかも分かっていた。
レイグ・ローウェル。
帝国で人材の登用に携わり、数多くの者を見出してきた人物。
そして私が団長となって程なくして、彼が帝国を解雇されたという情報が入った。
詳しい事情までは掴めなかったものの、莫大な賠償金まで背負わされたらしい。
その報せを聞いた時。
心配より先に、別の感情が湧いてしまったことは否定できない。
……これをチャンスと捉えるのは、いささか性格が悪いでしょうか。
でも、いいですよね。
帝国を追われた人を、アルケインが迎え入れたところで、誰にも文句を言われる筋合いはありません。
七年。
長かった。
ようやく、お会いできますね。
レイグ様。
◇
回想から意識を戻し、廊下の途中で足を止める。
そして、先ほど言われたことを思い出した。
これからは、様付けではなく。
「レイグ……さん、でしたね」
小さく口にしてみる。
たったそれだけなのに、七年間あった距離がほんの少しだけ縮まったような気がした。
新鮮な響きが、どこか心地いい。
疲れていたはずなのに、私の足取りはいつもより少しだけ軽かった。




