第9話 夕暮れの密会
雪が解け、トゥーリ村にようやく遅い春がやってきた。
ガーヴから借りた石壁際の痩せ地には、雪原に立てた四本の木札の通りに、厳密に区画分けされた試験圃場が出来上がっていた。
前年の秋に収穫した十一個の小さなヤーゴ芋を種芋とし、『開放』『石壁』『黒布』の三区画へ慎重に定植。そして隣の『灰芋』区画には、ミラが手際よく在来種を植え付けている。
春から初夏へと季節が移り変わるにつれ、村ではある奇妙な噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。
「おい、見たかよ。今日もまた、代官代理様がケルドの次男坊の畑に向かっていったぞ」
荷車の修繕をしていた若い農作業員のヨルトが、額の汗を拭いながら声を潜めた。少し離れた場所で農具を洗っていた鍛冶屋の妻メヤも、呆れたように相槌を打つ。
「毎夕、日が沈む少し前になると必ずだろ? しかも二人きりで、あの村はずれの石壁の陰に隠れるようにしてさ。熱いこって」
「いくら税の猶予を出したお気に入りだからって、領主様のおひざ元の貴族の娘が、小作の男と密会とはな……」
そんな村人たちの好奇とやっかみの混じった視線が向けられているとは露知らず、当の本人たちは、石壁の際で殺気立っていた。
「ユアン! 今日も布を下ろすのが一分遅れているわ!」
夕暮れのオレンジ色の光が射し込む畑で、セリカが片手に持った木板の帳簿を振りかざして怒鳴った。彼女のもう片方の手には、時間を正確に測るための小さな砂時計が握られている。
「仕方ないだろう! 黒布区画の畝の端に、見たことのない虫がたかっていたんだ。放っておけば葉を食い荒らされる。駆除するのが先決だ」
「虫の駆除は昼間にやりなさい! 夕刻のこの時間は、光を遮断するという一番重要な作業のためのものでしょう!? 毎日同じ時刻に暗くしなければ、比較実験のデータとしての価値が下がるのよ!」
「一分や二分の遅れでデータが死ぬか! そもそもお前、土も触らないくせに数字ばかり見て……」
「数字が事業の根拠になるの! あなたのような大雑把な農民感覚が、一番実験を台無しにするのよ!」
密会という甘い響きからは程遠い、火花を散らすような口論である。
ユアンの内心には、前世で学んだ『短日性』という言葉が渦巻いていた。植物が季節の変化を感知し、生殖や貯蔵器官(芋)を作るためのスイッチ。それは昼の短さではなく、「中断されない暗い時間(暗期)」の長さによって引き金が引かれる。
だからこそ、この『黒布区画』では、毎日夕方の決まった時刻に分厚い布を下ろし、強制的に夜の時間を長くしてやらなければならない。理論は分かっている。だが、野外の畑でそれを毎日、手作業で寸分違わず再現することがどれほど過酷か、ユアンは身をもって思い知らされていた。
「文句を言っている暇があったら、そっちの端を持ってくれ! 風が強くなってきた」
ユアンが叫ぶと同時、北の山から吹き下ろす初夏の強い風が、乾燥棚に結え付けられた黒布を激しく煽った。
ばさばさっ、と重い布が暴れ、せっかく覆い隠したヤーゴ芋の株元に、夕暮れの光が差し込んでしまう。
「あっ……!」
光の遮断が中断されれば、植物の体内時計がリセットされてしまう恐れがある。それは実験の致命的な失敗を意味していた。
ユアンは泥だらけの畝に飛び込み、暴れる黒布の端に必死にしがみついた。
「セリカ! 重石だ、そこの石を……!」
「言われなくても分かっているわよ!」
セリカもまた、高級な濃紺の外套が泥で汚れることなど気にも留めず、ぬかるんだ土の上を走った。彼女は両手で抱えるほどの石を持ち上げ、ユアンが押さえている布の端へと投げ落とす。
さらに反対側が風でめくれ上がると、セリカ自らが布の上にのしかかるようにして体重をかけ、強風に耐えた。
遠目に見れば、重なり合うようにして土の上を転げ回る二人の姿は、まさに人目を忍ぶ男女の逢瀬に見えなくもなかった。遠くの道からその様子を窺っていたヨルトたちが、「お熱いことで」と顔を見合わせて足早に去っていく。
やがて風が収まり、黒布が完全に石で固定されると、二人は畝の間に座り込んで荒い息を吐いた。
セリカの頬には泥が跳ね、綺麗に結い上げられていた亜麻色の髪も乱れている。ユアンも手足が泥だらけだ。
「……まったく。あなたの実験のせいで、私の靴も外套も台無しよ。これは後で研究費の雑費として計上させてもらうから」
セリカが乱れた息を整えながら、恨めしそうに自分の泥だらけの膝を睨む。
そのひたむきで融通の利かない横顔を見て、ユアンは思わず吹き出した。
「何がおかしいの」
「いや。帳簿と数字の虫だと思っていたお前が、畑の泥にまみれて石を抱えているのが、おかしくてな」
「笑い事じゃないわ。私はただ、机上の空論に付き合わされるのが我慢ならないだけ」
セリカはツンとそっぽを向いたが、その口調には以前のような刺々しさはなく、どこか互いの異常な執着を面白がっているような響きがあった。
「悪かったよ、一分遅れたのは。明日からは日時計の影が石壁に届く前に、必ず準備しておく」
「ええ。記録の信頼性は、そういう微細な手間の積み重ねでしか守れないのよ」
セリカが木板の帳簿に、本日の天候と風の強さ、そして布を下ろした正確な時刻を木炭で書き込む。
その作業を横目で見ながら、ユアンは黒布の隙間からそっと手を差し入れ、ヤーゴ芋の株元の状態を確かめた。
毎日毎日、鬱陶しいほどの口論を繰り返しながらも、二人で徹底的に管理し続けた暗期。その成果は、確かな手触りとなって現れ始めていた。
ユアンの指先が、株元の土の感触を捉える。
春に定植した時は平らだったはずの根元の土が、わずかに盛り上がり、ひび割れを起こしていたのだ。それはミラがかつて灰芋の畑で指摘した、地下に塊茎が形成されつつある明確な兆候だった。
「……おい、セリカ」
「何?」
「膨らんできてる。土の中が」
ユアンの言葉に、セリカは目を見開いた。彼女も帳簿を置き、泥を気にする素振りも見せずに這いつくばって、黒布の隙間から土のひび割れを覗き込んだ。
「本当……。隣の『開放区画』は、あんなに葉が茂っているのに、土は平らなままね。でも、こっちは明らかに土が持ち上がっている」
「ああ。偶然じゃない。やっぱり、長い夜が芋を実らせるんだ」
薄暗い黒布の影の中で、二人は顔を見合わせた。
発見の興奮を分かち合う、泥だらけの笑顔。それは恋人同士の逢瀬などという甘いものではなく、同じ事業の責任と過酷さを共有する、確かな「相棒」としての親密な空気だった。
原因は掴んだ。だが、ユアンの胸の奥には、新たな重圧が生まれ始めていた。
(黒布を使えば、確かに実る。でも……この村のすべての畑を、毎日夕方に黒布で覆うことなんて、物理的に不可能なんだ)
ひび割れた土の隙間に見える微かな希望を前に、ユアンは実務家としての次なる壁を予感していた。




